―― 晴臣くんの気持ちはよくわかったよ。真面目な君らしい考え方だと思う。
でも、困ったな。実は、秋に日本支社に配置換えになるんだ。
日本に帰ったら、マンションから会社に通うことになるけど、晴臣くんにそのままいてもらって、今まで通り家の中のことをしてもらおうと思っていたんだよ。
全部自分でやるのはちょっと大変かなあと思うし、他人を雇うのもいろいろ不安だから、できればこのままアルバイトを続けてほしいんだけど、ダメだろうか。
返事は急がないから、もう一度考えてみてくれないかな。
「えっ、そうなの?」
彼が驚きの声を上げた。返信をもらった日の夜、電話しているところだ。
「うん。覚悟を決めて、勇気を振り絞ってメッセージを送ったのに、なんだか拍子抜けしちゃった」
「お母さんたちは、なんて?」
「叔父さんがそう言っているなら、今まで通り続ければいいんじゃないかって言われた」
「そうかー。それで、晴臣くんの気持ちはどうなの?」
「うん。叔父さんが必要としてくれているなら、それでもいいのかなって。
掃除は嫌いじゃないし、叔父さんには、仁さんに話してから返事をしようと思ってさ」
「へえ、僕のこと気にしてくれたの?」
「仁さんは大切な人だから、決める前に報告したくて」
「ありがとう、うれしいな。もちろん僕も、アルバイトを続けることに賛成だよ」
「ありがとう……」
そう言ってくれて、僕のほうこそ、とてもうれしい。
「きっと叔父さんも、君の返事に喜んでくれるんじゃないかな」
「そうだといいけど」
「そうに決まってるよ」
そうして僕は、今後も今まで通りにアルバイトを続けることになったのだった。
骨はしっかり修復され、無事にギプスも外れたものの、手首が固まり、筋肉も弱っているので、しばらくリハビリに通うことになった。その間は、実家にとどまる。
そんなある日、母と二人で昼食を取っているときに、僕は言った。
「あのさ、お母さん」
「うん?」
「僕の代わりに、ずっとマンションに掃除をしに行ってくれたでしょう」
「週に一回だけどね」
「だからさ、その分のアルバイト代は、お母さんに受け取ってもらいたいんだけど」
そう言うと、母は笑った。
「そんなこと気にしなくていいのに、律義な子ねえ」
「僕の律義なところは、お母さんから受け継いでいるって言われたよ」
母が微笑みながら僕を見る。
「誰に?」
その瞬間、自分が失言したことに気づいた。僕はあたふたしながら答える。
「いや、ええと、友達に」
それに対して、母が何げなく言った言葉に、僕はさらにぎょっとした。
「いつも電話で話している人?」
「えっ!?」
驚いて見つめる僕に、母はひらひらと手のひらを振りながら言った。
「別に聞き耳を立てていたわけじゃないわよ。でも、いつも部屋から話し声が聞こえるから、そうなのかなって思っただけ」
「あっ……そうなんだ」
たしかに、うちは安普請だから、内容まではわからなくても、声ぐらいは聞こえていたかもしれないが、それにしても、なんだか恥ずかしい。
「晴臣にも電話で話すようなお友達がいるのねと思って、お母さん安心したのよ。高校のときのお友達なの?」
「いや、それが、ネットで知り合ったんだ」
「あら……」
母の顔から笑みが消えた。ネットで知り合ったと聞いて、心配になったのだろうか。
僕は慌てて言う。
「SNSで知り合ったサラリーマンの人で、住んでいるところがマンションとわりと近くて。
すごくいい人だよ。将来カフェをやるのが夢で、今はそのために貯金をしているんだって」
「そう。真面目なのね」
「うん、すごく真面目な人で、年上だけど気が合うんだ」
「そうなの。いい人とお友達になれてよかったわね」
ついベラベラとしゃべってしまったけれど、母がようやく微笑んでくれたので、ほっと胸を撫で下ろす。
ずっと彼のことを話す勇気がなかったのに、思わぬところで言ってしまった。
―― そういうわけで、今日はこのままチャットでいいかな。
その日の夜のことだ。別に電話で話してもかまわないのだけれど、母に知られていたことが、ちょっと気まずい。
―― もちろんいいよ。
―― カフェをやるのが夢で貯金しているとか、余計なことまで話しちゃってごめん。
―― かまわないよ。本当のことだし、お母さんが安心してくれたならいいけど。
―― それは大丈夫だよ、「いい人とお友達になれてよかったわね」って言っていたし。
―― まあ、本当は友達じゃないけどね。
―― それはそうだけど。
―― あっ、余計なことを言ってごめん。とりあえず、僕のことを話したことは前進だよね。
―― そうだよね。これからは、堂々と「友達と遊ぶ」って言えるし。
本当は、少し複雑な気分だ。実際は恋人なのに、母に友達だと言ったこと、でも、恋人だと打ち明ける勇気はないこと、それについて、彼に対しても申し訳ない気がすること、などなど。
考え込んでいると、彼からメッセージが来た。
―― さっそくだけど、今度の週末、お母さんに「友達と遊ぶ」って言って久しぶりに僕の部屋に来ない?
あ……。
その日彼は、最寄りの駅まで迎えに来てくれた。すでに夏真っ盛りで日差しが強い。
「晴臣くん」
微笑みながら手を上げる彼に、僕は駆け寄る。
「仁さん! 今日も暑いね」
「帰ったらクリームソーダを作ろうか」
「やった!」
並んで歩き出しながら、彼が言った。
「腕の調子はどう?」
「手首がまだあんまり動かないし、指に力が入らないんだ」
「そう」
「でも、リハビリに通ってるし、すぐに元通りになると思うけど」
「それならよかった」
彼が部屋のドアを開ける。
「さあ入って」
中は、エアコンが効いていて、ひんやりしている。
「この部屋、久しぶり」
そう言いながら靴を脱いで上がるなり、彼に抱きすくめられた。
「本当に久しぶりだね。ああ、ずっとこうしたくてたまらなかったんだ」
僕は、ちょっと焦って言う。
「あっ、待って。汗かいてるから……」
暑い中を歩いて来て、びちょびちょで恥ずかしい。だが、彼はつぶやいた。
「いいよ」
そして唇をふさがれる。キスなんて、本当に久しぶりだ。最後にしたのはいつだったっけ……。
甘く長いキスの後、彼にいざなわれ、僕たちは、そのままベッドに移動した。
僕たちは、裸のままベッドに横たわっている。エアコンが効いているにも関わらず、二人とも汗だくだ。
「晴臣くん」
彼が、僕の髪を撫でてくれる。
「とても素敵だったよ」
「あ……仁さんも」
そう言いながら、恥ずかしくて、僕は枕に顔をうずめる。
「腕、大丈夫だった?」
「うん」
「喉乾いただろ?」
「うん」
「シャワー浴びて、クリームソーダ飲もう」
「うん」
ああ、恥ずかしいけれど、なんて幸せな時間……。