その日は朝からいい天気だった。もしも雨だったら、母に出かけることを止められるだろうと思っていたので、少しほっとした。
休日なので、父はまだ寝ていて、母と二人の朝食だ。僕は、内心ドキドキしながら、さり気なさを装って切り出した。
「あのさ、今日はいい天気だし、リハビリも兼ねて久しぶりに出かけようかと思って」
「あら、そうなの?」
母は味噌汁の中のジャガイモを拾って口に入れる。予想に反して反応は薄い。
「駅前の本屋に行ったりしたいから、もしかしたら、カフェで休んでから帰って来るかも」
「そう。あまり無理しちゃダメよ」
「わかった」
ふー……。「お母さんも一緒に行く」なんて言われたらシャレにならないと思っていたのだけれど、母もそこまで暇ではないらしい。
線路沿いの公園のベンチに座って待っていると、約束の時間通りに彼が現れた。僕は思わず立ち上がる。
久しぶりに見る彼は、白と黒のブロックチェックのシャツをさわやかに着こなしていて、まるでモデルのようだ。僕に気づいて、ちょっと手を上げると、長い足で、あっという間にそばまでやって来た。
「お待たせ」
「あ……」
感激で、すぐには言葉が出ない。
「……ここの場所、すぐにわかった?」
彼が、きれいな顔で微笑みながら言った。
「うん。座って話そうか」
「あっ、うん」
僕たちは、ベンチに並んで座る。彼が周りを見ながら言う。
「緑が多くて、いいところだねえ」
「うん。子供の頃は、よくここで遊んだよ」
「へえ、何をして遊んだの?」
「小学生の頃はそれなりに友達もいたから、鬼ごっことかサッカーとか」
「そうなんだ。ところで、ケガの具合はどう?」
「足はもう、ほとんど痛くない。腕も、力を入れなければ大丈夫」
「そう。でも、三角巾で腕を吊った姿、なんだか痛々しいね」
彼の心配そうな表情に、かえってニヤニヤしてしまう。気遣いがうれしい。
「右手の爪が切れなくて困っちゃった」
「そうか。どうしたの?」
「お母さんに切ってもらった」
「へえ、なんかかわいいな」
「かわいくないよ。恥ずかしかったけど、右手の爪だけ長いの嫌だから」
今度は彼がニヤニヤしている。
「その場面、見たかったな。お母さんはなんて言ってた?」
「人の爪を切るのは怖いって」
「そうだよね。うんと小さい頃は親に切ってもらっていたんだろうけど、いつから自分で切るようになったのかなあ」
「ホント、そう言えば、僕も覚えていない。気がついたら自分で切ってたよね」
「今日は、お母さんにはなんて言って出て来たの?」
僕はうつむきながら答える。
「ええと、本屋に行って、カフェで休んでから帰るって」
やはり友達と会うとは言いづらかった。でも、何もすることがないので、本を買って読もうと思っているのは本当だ。
「じゃあ、本屋に行こうか」
顔を上げると、彼は微笑みながら、僕の顔を覗き込んだ。
「うん」
公園を出て、駅前に向かう。
「晴臣くん、どんな本を読むの?」
「最近は読んでないけど、中学生くらいの頃は、よくSFを読んでた。また久しぶりに読んでみようかなあと思って」
「そうなんだ」
「仁さんは?」
「社会人になってからはビジネス本みたいなのしか読んでないなあ。でも、せっかくだから、僕も久しぶりに小説を読もうかな」
「あっ、これ」
僕は文庫本の棚から一冊を取り出す。
「昔よく読んでいた作家の本だよ」
「へえ、『星屑の迷宮』か。面白そうだね」
僕は表紙の後ろに書かれたあらすじを読む。
「高校生の主人公が、宇宙船に乗って旅立つんだって。とりあえず、これを買うことにしようかな」
「じゃあ、僕も同じのを買うよ。読んで感想を言い合おう」
「ホント? 楽しそう」
楽しみが二倍に増えた。なんて素敵な提案をしてくれるんだ……。
そのほかにも、僕は二冊ほど小説の文庫本を買って本屋を出た。
彼が言った。
「少し早いけど、お昼にしようか」
「うん」
「お勧めの店はある?」
「うーん……あんまり詳しくないけど、駅ビルの中にいくつか食べ物屋さんがあるよ」
「じゃあ、駅ビルに行こうか」
「うん」
駅ビルに向かって歩いていると、向かい側からカップルが歩いて来た。男性のほうが、僕を見て言った。
「日下部じゃん、久しぶり」
「あっ、用賀くん。久しぶり」
用賀は、ちらりと彼を見てから、僕に目を戻して言った。
「それ、どうしたの?」
腕のギプスのことだ。
「転んで、骨にひびが入っちゃって」
「うへー、痛そう。お前今、何してんの?」
「ああ、一人暮らししてたんだけど、ケガしたから、今は実家に戻ってる」
ちゃんとした答えになっていない気がするけれど。だが用賀は、たいして興味がなさそうに言った。
「へえ」
彼はたしか、どこかの大学に通っているはずだ。隣の女の子が、用賀の腕に触れた。
「あっ、じゃあな」
用賀は、彼にぺこりと頭を下げてから、女の子と腕を組んで去って行った。
僕は、彼を見て言う。
「高校のときの同級生だよ」
「そう」
再び僕たちは、駅に向かって歩き始める。
「前に話したでしょう? キモいって言われた相手」
「あっ、じゃあ……。晴臣くん、大丈夫?」
「えっ、何が?」
顔を見ると、彼は心配そうに僕を見つめている。
「だって、その……」
かつて片思いしていて失恋した相手が、女の子と歩いていたことか。
「大丈夫に決まってるじゃん。今はこんなに素敵でラブラブな恋人がいるんだもん」
「あっ、そうか」
「大丈夫じゃなかったら仁さんに話さないし、それに」
「うん?」
「仁さんが心配してくれて、すごくうれしい」
まったく、なんて優しいんだろう。彼に比べたら、用賀なんて、なんであんなに好きだったのかと我ながら不思議になるくらいだ。
僕たちは、駅ビルの中のカフェに入った。僕は片手で簡単に食べられるサンドイッチを、彼はトマトの冷製パスタを注文した。
彼が言う。
「今日は晴臣くんが育った街を見られたし、お揃いの本も買えてよかったな」
「たいした街じゃないけど」
彼が笑う。
「でも、小さい晴臣くんが、あの公園を駆け回っていたのかと思うと感慨深いよ」
「そう?」
「うん。好きな人のことを知るのはうれしいことだよ」
「そうか。僕も仁さんのこと知りたいけど、でも……」
「何?」
「ちょっと怖い。仁さんと出会ってから初めて気づいたけど、僕ってけっこう焼きもち焼きみたいなんだ」
「そうなの?」
「どこかに仁さんに思いを寄せている人がいたら嫌だな、なんて。だから、初恋の話とか聞いたら、ちょっと……」
「それなら、僕だってちょっと嫉妬したよ」
「え?」
「さっきの彼。けっこうイケメンだったし」
意外だった。
「えっ、だってただの片思いだよ。しかもキモいって言われてるし」
「でも、晴臣くんがずっとあの子のことを思っていて、学校に行けなくなるくらい傷ついて泣いていたんだと思ったら……」
彼は悲しげな表情をしている。
「もう過去の話だよ。仁さんに比べたら、用賀くんなんて全然たいしたことないよ。
仁さんのほうが100倍くらい素敵だよ。カッコいいし、優しいし、僕のこと、大切にしてくれるし」
なんだか不思議だ。なんでヘタレで冴えない僕が、パーフェクト・オブ・パーフェクトの王子様を慰めているんだろう……。
説得(?)の甲斐あって、ようやく彼が微笑んでくれた。
「ありがとう」
「そんな……」
やっぱり彼って素敵な人だし、大好きだ。僕の王子様……。