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第39話 チキン南蛮弁当

「まあ……! 痛いでしょう? 大理石の床なんて、きれいだけど危ないわよね」


 心配そうに僕の体を見回しながら、母が言った。


「骨折は腕だけなのね?」 


「骨折じゃなくて、ひびが入っただけだよ」


「とにかく、着替えや身の回りのものを持って、冷蔵庫の中のものも、持って行けるものは持って行って、処分するものはして。勝義さんにも知らせておいたほうがいいわね。


 ああ、あなたは座っていなさい。お母さんがやるから」


 ちょっと前に、立派になったと言ってもらったばかりなのに、もう迷惑をかけている。情けないが、腕や足がズキズキと傷む。


 食後に飲む鎮痛剤と抗生物質を処方されているので、後で飲むことにしよう。そう言えば、もう3時が近いけれど、お昼ご飯を食べていない。


「お母さん」


 めったに腰かけることのないリビングのソファに座った僕は、冷蔵庫を覗いている母に声をかけた。母が体を起こしてこちらを見る。


「うん?」


「お腹空いた」


 もうすっかり子供に逆戻りしている僕……。


「もしかして、お昼食べてないの?」


「うん」


 もう一度、冷蔵庫を覗いてから、母が言った。


「じゃあ、そこのコンビニで何か買って来るわ。何がいい?」


 冷蔵庫には、飲み物しか入っていないのだ。僕は、行きつけのコンビニのメニューを思い浮かべながら答える。


「チキン南蛮弁当か、カレーか……なかったらパスタでも」


「わかった。すぐに行って来るから、ちょっと待っててね」


 ああ、やはり持つべきものは、一人息子に甘い母親か。




 チキン南蛮弁当と、母が自分の分と二つ買って来たチーズスフレプリンを食べて薬を飲んだ後、荷物をまとめて部屋を出た。着替えの入ったバッグは、母が持ってくれる。


 叔父さんには、後で母が電話するという。


 エントランスから出る前に、管理人室に寄った。笑顔で迎えてくれた田村さんに、母が頭を下げる。


「息子が大変お世話になり、ありがとうございました。また改めてお礼に伺います」


「いえいえ、これも仕事のうちですから、どうぞお気遣いなく。おうちで療養なさいますか」


 療養というほどでもないけれど。母が答える。


「ええ、一人で自分のことができるようになるまでは」


「それがよろしいですね」




 車の乗り降りも大変だったけれど、スニーカーを脱ぐのも、母に手伝ってもらったし、玄関から上がり框に上がるのにも苦労した。


「いててて……」


 膝も足首も、痛くて力が入らない。すると、後ろにいた母が、バッグを置いて言った。


「じゃあ、お母さんが先に上がって引っ張り上げようか?」


「え……」


 靴を脱いでさっさと上がって、母はくるりとこちらを向く。


「大丈夫、お母さんけっこう力あるから。ほら、つかまって」


「うん……」


 ちょっと照れくさかったけれど、自力では上がれそうにないので、母の右手を掴んだ。


「ゆっくりね」


「うん。……うっ……」


 痛みをこらえながら、なんとか上がることができた。


「これじゃ、階段は無理ね」


「うん」


 僕の部屋は二階にあるのだ。母が、上がってすぐの、応接間という名の空き部屋(滅多に使うことはない)を指して言った。


「しばらくはここを使うといいわ。ソファをベッド代わりにすればいいし。


 ちょっと寝にくいかもしれないけど、床に布団を敷くよりいいでしょう」


「うん」


 たしかに、今の状態で床に布団では、寝起きするのが大変そうだ。


「後で寝られるように整えるから」


「ありがとう」


「疲れたでしょう。お茶でも飲もうか」


「うん」


 そこに、桃太郎がやって来た。頭を擦りつける桃太郎に、母が言った。


「晴臣くん、ケガしちゃったのよ。しばらくおうちにいるの」


「うにゃ~」




 畳の上に座ることもできないので、母にキッチンの椅子を持って来てもらって、テレビを見ているところに、父が帰って来た。


「なんだ、骨折したんだって?」


「いや、ひびが入っただけだよ」


「そうか。なんか、骨折よりひびのほうが治るのに時間がかかるとか言わないか?」


「えっ、そうなの?」


 それは困る。


「いや、違ったかもしれん」


 そう言いながら、父はキッチンに行ってしまった。なんだ、どっちなんだ……。




 三人で夕ご飯を食べた後、僕は、当分の間自室となる応接間に引き上げた。


 お風呂は、腕を濡らさないよう、タオルとビニール袋で保護して入るようにと言われたが、今日のところは我慢することにする。足も痛むし、うまく体を洗える自信がない。


 とにかく、何もすることがない、というか、できることがないので、とりあえず、母が布団を敷いてくれたソファに腰かける。



 ぼんやりしていると、すぐ横に置いたスマホが震えた。彼からのメッセージだ。


―― もう実家にいるの? その後、具合はどう?


―― 階段を上れないから、足がよくなるまで一階の応接間を使うことになった。


―― それって、ご両親がいる部屋のそば?


―― うん。居間と引き戸で仕切られていて、テレビの音が聞こえる。


―― じゃあ、電話はまずいかな。



 そうか、彼と話しているのを両親に聞かれるのは気まずい。ならば、二階に上がれるようになるまで、声を聞くこともできないのだ。


―― ショック。仁さんの声が聞けないなんて。


―― でも、足が治るまでの辛抱だよ。若いから、すぐに回復するさ。


―― がんばって早く治す。


―― 無理しちゃダメだよ。焦らずきちんと治さないと。


―― わかった、それまで我慢する。


―― よしよし、いい子だ。


―― 一つお願いしてもいい?


―― 何?


―― 前に仁さんが風邪で会えなかったとき、毎日自撮りを送ったよね。


―― うん。ということは?


―― ピンポーン! 今度は仁さんが自撮りを送って。


―― わかった。じゃあ、ちょっと待ってて。



 やった、楽しみができた。待っていると、すぐにメッセージとともに自撮り画像が届いた。


 想定外の、目の下に手を添えて、泣きまねをするポーズだ。


―― 晴臣くんと会えなくて寂しいよ。早く治るように毎日パワーを送るからね。


「あ……」


 なんだか胸が熱くなる。


―― ありがとう。すごくかわいいし、うれしい。


―― えへへ。今日は料理をする気になれなくて、夕飯はコンビニの弁当にしちゃった。


―― なんのお弁当?


―― チキン南蛮弁当。


―― えっ、すごい偶然! 僕も病院からマンションに帰ってから、同じのを食べたんだよ。


―― 僕たちって気が合うね。やっぱり運命の相手だからかな。



 彼のほうから「運命」と言ってくれるなんて……。


―― うれしい。仁さん、大好き。


―― 僕も愛してるよ♥



 あ……「愛してる」だなんてっ! しかも滅多にないハートマーク。 う、うれしい……。




 母が、叔父さんに電話をして、僕のケガのことを伝え、当分アルバイトを休ませてほしいとお願いした結果。なんと、週に一回ほど、母が僕の代わりにマンションに掃除をしに行くことになった。


 その間、アルバイト代も停止してくれるように頼んだのだが、叔父さんは、見舞金として払うからと言って、どうしても承知してくれなかったのだ。それならばと母が志願して、叔父さんも快く受け入れてくれたという。



 後からそれを聞いた父は、呆れたように言った。


「あいつは金持ちで、晴臣のバイト代くらい痛くも痒くもないんだから、ありがたくもらっておけばいいのに。そもそも、この先あいつが住むかどうかもわからないのに、せっせと掃除する必要もないだろうが」


 たしかに、アルバイト自体が、僕のためにわざわざひねり出してくれたものなのだ。でも、だからこそ、何もしないでお金だけもらうなんてずうずうし過ぎる。


 とはいえ、掃除をしに行くのは母なのだから、後から母にお金を渡そうと思う。母はいらないと言うかもしれないけれど。

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