「まあ……! 痛いでしょう? 大理石の床なんて、きれいだけど危ないわよね」
心配そうに僕の体を見回しながら、母が言った。
「骨折は腕だけなのね?」
「骨折じゃなくて、ひびが入っただけだよ」
「とにかく、着替えや身の回りのものを持って、冷蔵庫の中のものも、持って行けるものは持って行って、処分するものはして。勝義さんにも知らせておいたほうがいいわね。
ああ、あなたは座っていなさい。お母さんがやるから」
ちょっと前に、立派になったと言ってもらったばかりなのに、もう迷惑をかけている。情けないが、腕や足がズキズキと傷む。
食後に飲む鎮痛剤と抗生物質を処方されているので、後で飲むことにしよう。そう言えば、もう3時が近いけれど、お昼ご飯を食べていない。
「お母さん」
めったに腰かけることのないリビングのソファに座った僕は、冷蔵庫を覗いている母に声をかけた。母が体を起こしてこちらを見る。
「うん?」
「お腹空いた」
もうすっかり子供に逆戻りしている僕……。
「もしかして、お昼食べてないの?」
「うん」
もう一度、冷蔵庫を覗いてから、母が言った。
「じゃあ、そこのコンビニで何か買って来るわ。何がいい?」
冷蔵庫には、飲み物しか入っていないのだ。僕は、行きつけのコンビニのメニューを思い浮かべながら答える。
「チキン南蛮弁当か、カレーか……なかったらパスタでも」
「わかった。すぐに行って来るから、ちょっと待っててね」
ああ、やはり持つべきものは、一人息子に甘い母親か。
チキン南蛮弁当と、母が自分の分と二つ買って来たチーズスフレプリンを食べて薬を飲んだ後、荷物をまとめて部屋を出た。着替えの入ったバッグは、母が持ってくれる。
叔父さんには、後で母が電話するという。
エントランスから出る前に、管理人室に寄った。笑顔で迎えてくれた田村さんに、母が頭を下げる。
「息子が大変お世話になり、ありがとうございました。また改めてお礼に伺います」
「いえいえ、これも仕事のうちですから、どうぞお気遣いなく。おうちで療養なさいますか」
療養というほどでもないけれど。母が答える。
「ええ、一人で自分のことができるようになるまでは」
「それがよろしいですね」
車の乗り降りも大変だったけれど、スニーカーを脱ぐのも、母に手伝ってもらったし、玄関から上がり框に上がるのにも苦労した。
「いててて……」
膝も足首も、痛くて力が入らない。すると、後ろにいた母が、バッグを置いて言った。
「じゃあ、お母さんが先に上がって引っ張り上げようか?」
「え……」
靴を脱いでさっさと上がって、母はくるりとこちらを向く。
「大丈夫、お母さんけっこう力あるから。ほら、つかまって」
「うん……」
ちょっと照れくさかったけれど、自力では上がれそうにないので、母の右手を掴んだ。
「ゆっくりね」
「うん。……うっ……」
痛みをこらえながら、なんとか上がることができた。
「これじゃ、階段は無理ね」
「うん」
僕の部屋は二階にあるのだ。母が、上がってすぐの、応接間という名の空き部屋(滅多に使うことはない)を指して言った。
「しばらくはここを使うといいわ。ソファをベッド代わりにすればいいし。
ちょっと寝にくいかもしれないけど、床に布団を敷くよりいいでしょう」
「うん」
たしかに、今の状態で床に布団では、寝起きするのが大変そうだ。
「後で寝られるように整えるから」
「ありがとう」
「疲れたでしょう。お茶でも飲もうか」
「うん」
そこに、桃太郎がやって来た。頭を擦りつける桃太郎に、母が言った。
「晴臣くん、ケガしちゃったのよ。しばらくおうちにいるの」
「うにゃ~」
畳の上に座ることもできないので、母にキッチンの椅子を持って来てもらって、テレビを見ているところに、父が帰って来た。
「なんだ、骨折したんだって?」
「いや、ひびが入っただけだよ」
「そうか。なんか、骨折よりひびのほうが治るのに時間がかかるとか言わないか?」
「えっ、そうなの?」
それは困る。
「いや、違ったかもしれん」
そう言いながら、父はキッチンに行ってしまった。なんだ、どっちなんだ……。
三人で夕ご飯を食べた後、僕は、当分の間自室となる応接間に引き上げた。
お風呂は、腕を濡らさないよう、タオルとビニール袋で保護して入るようにと言われたが、今日のところは我慢することにする。足も痛むし、うまく体を洗える自信がない。
とにかく、何もすることがない、というか、できることがないので、とりあえず、母が布団を敷いてくれたソファに腰かける。
ぼんやりしていると、すぐ横に置いたスマホが震えた。彼からのメッセージだ。
―― もう実家にいるの? その後、具合はどう?
―― 階段を上れないから、足がよくなるまで一階の応接間を使うことになった。
―― それって、ご両親がいる部屋のそば?
―― うん。居間と引き戸で仕切られていて、テレビの音が聞こえる。
―― じゃあ、電話はまずいかな。
そうか、彼と話しているのを両親に聞かれるのは気まずい。ならば、二階に上がれるようになるまで、声を聞くこともできないのだ。
―― ショック。仁さんの声が聞けないなんて。
―― でも、足が治るまでの辛抱だよ。若いから、すぐに回復するさ。
―― がんばって早く治す。
―― 無理しちゃダメだよ。焦らずきちんと治さないと。
―― わかった、それまで我慢する。
―― よしよし、いい子だ。
―― 一つお願いしてもいい?
―― 何?
―― 前に仁さんが風邪で会えなかったとき、毎日自撮りを送ったよね。
―― うん。ということは?
―― ピンポーン! 今度は仁さんが自撮りを送って。
―― わかった。じゃあ、ちょっと待ってて。
やった、楽しみができた。待っていると、すぐにメッセージとともに自撮り画像が届いた。
想定外の、目の下に手を添えて、泣きまねをするポーズだ。
―― 晴臣くんと会えなくて寂しいよ。早く治るように毎日パワーを送るからね。
「あ……」
なんだか胸が熱くなる。
―― ありがとう。すごくかわいいし、うれしい。
―― えへへ。今日は料理をする気になれなくて、夕飯はコンビニの弁当にしちゃった。
―― なんのお弁当?
―― チキン南蛮弁当。
―― えっ、すごい偶然! 僕も病院からマンションに帰ってから、同じのを食べたんだよ。
―― 僕たちって気が合うね。やっぱり運命の相手だからかな。
彼のほうから「運命」と言ってくれるなんて……。
―― うれしい。仁さん、大好き。
―― 僕も愛してるよ♥
あ……「愛してる」だなんてっ! しかも滅多にないハートマーク。 う、うれしい……。
母が、叔父さんに電話をして、僕のケガのことを伝え、当分アルバイトを休ませてほしいとお願いした結果。なんと、週に一回ほど、母が僕の代わりにマンションに掃除をしに行くことになった。
その間、アルバイト代も停止してくれるように頼んだのだが、叔父さんは、見舞金として払うからと言って、どうしても承知してくれなかったのだ。それならばと母が志願して、叔父さんも快く受け入れてくれたという。
後からそれを聞いた父は、呆れたように言った。
「あいつは金持ちで、晴臣のバイト代くらい痛くも痒くもないんだから、ありがたくもらっておけばいいのに。そもそも、この先あいつが住むかどうかもわからないのに、せっせと掃除する必要もないだろうが」
たしかに、アルバイト自体が、僕のためにわざわざひねり出してくれたものなのだ。でも、だからこそ、何もしないでお金だけもらうなんてずうずうし過ぎる。
とはいえ、掃除をしに行くのは母なのだから、後から母にお金を渡そうと思う。母はいらないと言うかもしれないけれど。