「お待ちどおさま」
そう言って彼が目の前に置いてくれたのは、細長いグラスに入ったコーヒーフロートだ。氷の詰まったポットにレギュラーコーヒーを注いで作ったアイスコーヒーの上に、丸く形よいバニラアイスが載っている。
「すごい! カフェで出て来るやつみたい」
もう一つのグラスを自分の前に置いて、椅子に座りながら、彼は微笑む。
「アイスクリームディッシャーを買ったんだよ」
「アイスクリーム屋さんにあるやつ?」
「そう、どうしても使ってみたくてさ。はい、ストローと、アイスはこのスプーンで」
「ありがとう。いただきます」
「ガムシロップ入れる?」
「ううん、このままでいい」
「へえ、大人だね。二十歳になっただけのことはある」
「アイスと混ぜたら、ちょうどいいかなあと思って」
ストローを挿して一口飲む。ほろ苦いけれど、いい香りだ。
今度はスプーンでアイスをすくって口に入れる。
「おいしー。今度は一緒に」
アイスとコーヒーを一緒にすくってパクリ。
「あー、やっぱり混ぜると最高」
グラスを手に彼が言う。
「今度はクリームソーダを作ろうか。あと、パンケーキにアイスを載せたり、クレープに載せたり」
「わー、楽しいね」
「とりあえず、今はディッシャーでアイスをすくいたくてしょうがないんだ」
そう言って、彼が笑った。そこで、僕は思いついた。
「じゃあ、炊飯器ケーキにも載せよう」
「ああ、まずはそれだな」
その日僕は、とても慌てていた。明け方まで雨が降っていたのだが、朝になって天気が回復し、午後に彼の部屋に行くという予定を変更して、一緒にカフェでランチを食べることになったのだ。
待ち合わせは、カフェの最寄り駅の改札だ。けれども、洗濯物を干していて、部屋を出るのが遅くなってしまった。
マンションのエレベーターを降りて、玄関の自動ドアへと急ぐ。自動ドアが開くのももどかしく、僕は外に走り出た。
エントランスからアプローチまで、大理石が敷きつめられている。大理石のなめらかな床は、つるつるでよく滑る。
まして、雨に濡れたアプローチはなおさら。
「あっ!」
僕は足を滑らせ、硬い石の床の上に勢いよく倒れ込んだ。
左手首と両膝と、左足首に激痛が走った。あまりの痛みに、声も出ない。
そのままうずくまっていると、頭上で女性の声がした。
「大丈夫ですか? 今管理人さんを呼んで来ますね」
返事をする間もなく、声の主は離れて行ったが、姿を見ることもできなかったその人は、マンションの住人なのだろうか。
やがて、管理人さんがやって来た。
「日下部さん、大丈夫ですか?」
「あ……」
立ち上がることができない僕を見て、管理人さんは、救急車を呼ぶと言った。僕はタクシーで病院に行くと言ったのだけれど、そのほうが早いからと。
かくして僕は、生まれて初めて救急車に乗ることになった。なんと、常駐するガードマンさんに後を頼んだ管理人さんに付き添われて。
話好きらしい管理人さんによれば、最初に声をかけてくれた人は、やはりこのマンションの住人で、休日出勤で出かけて行ったという。
やがて、サイレンを鳴らしながら救急車が到着した。野次馬に見守られながら、救急隊員に支えられて、僕は救急車に乗り込んだ。
まさか写真なんて撮られていないだろうな、SNSにアップされたりしたらシャレにならない。などと思いながら。
「あっ!」
あお向けに寝かされて搬送されながら、思わず声を上げると、かたわらの救急隊員が鋭く言った。
「どうしました?」
「あっ、ええと、僕、人と待ち合わせしていて」
「ああ、なるほど」
「あの、連絡してもいいでしょうか」
「どうぞ」
「すいません……」
苦労してポケットからスマホを出し、なんとか右手だけで操作してメッセージを打つ。
―― ごめん、急に行けなくなった。また後で連絡する。
それだけ書くのが精いっぱいだった。
両膝は打撲、左足首は捻挫で、骨に損傷はなかったのだが、なんと腕の骨にひびが入っていた。
各部位、湿布などの処置を受け、腕を固定されて三角巾で吊られる。これは仮固定なので、なるべく早くかかりつけの病院で再診察してもらうようにと言われた。
ぎくしゃくしながら診察室を出ると、待っていてくれた管理人さんが長椅子から立ち上がった。
「ケガの具合はどうでしたか?」
田村さんというその人は、高級マンションの管理人なので、いつもスーツを着て、上品な雰囲気の年配の紳士だけれど、とても気さくな人だ。ケガの状態を話すと、彼が言った。
「おうちの方に連絡したほうがいいんじゃないですか?」
「あっ、そう、ですね」
今の今まで考えていなかったけれど、この体でマンションで一人で過ごすのは厳しいだろう。彼が言う。
「私からしてもいいですが、ご両親がびっくりなさるといけないから」
たしかに、いきなりマンションの管理人から電話がかかって来たら、何事かと驚くことだろう。それよりは、僕がかけたほうが。
「じゃあ、会計を済ませたら母に電話します」
母と相談の結果、しばらく実家で暮らすことに決まり、母が車でマンションに迎えに来ることになった。僕は田村さんと、いったんタクシーでマンションに戻る。
マンションに着くと、おぼつかない足取りの僕を見て、田村さんが部屋まで付き添うと言ってくれたけれど、固辞して一人で部屋に戻った。足も腕も痛いけれど、一人で歩けないことはない。
そろりそろりと歩いて、自分の部屋まで行ってベッドに腰かける。
「いてて……」
膝を曲げるのが辛い。さっそく、スマホから彼にメッセージを送る。
―― さっきはごめん。ちょっとケガしちゃって、病院に行って来た。
送信すると、間もなく彼から電話がかかってきた。
「大丈夫? すごく気になったけど、『また後で連絡する』って言っていたから待ってたんだ」
「遅くなってごめん。今どこ?」
「部屋だよ」
「カフェには行ったの?」
「ううん。また今度、晴臣くんと一緒に行きたいと思って」
そこは、初めて行くお店だったのだ。
「ごめん……」
「いいよ。それより、何があったの?」
僕は、一連の出来事を説明する。
「そうか……それは大変だったね。痛いだろ?」
「うん。でも、僕がおっちょこちょいだから、みんなに迷惑かけちゃって」
そのこともショックだ。冷静になって考えてみれば、あんなに慌てなくても、少し遅れると連絡を入れればよかったのだ。
「仕方ないよ。あっ、じゃあ、もうすぐお母さんが来るの?」
「うん」
「そうか……」
それきり、彼は黙り込んだ。
「仁さん?」
「ああ、ごめん。君のそばにいたいけど、実家に帰ったほうが安心だもんね。僕だって、ずっとそばにはいられないし」
「あ……僕も、仁さんに会いたかった」
僕が不注意だったばっかりに、しばらく彼と会えなくなってしまった。落ち込んでいると、彼が言った。
「でも、たくさんメッセージ送るし、電話もするよ」
「うん」
「早くよくなるように、無理しないで、体を大切にして」
彼の優しい言葉に涙がこみ上げる。
「ありがとう」
スマホを握りしめていると、早くもインターフォンが鳴った。母だ。
「あっ、もう来たみたい」
「じゃあ、また後で。お大事にね」
電話が切れた。僕は、こぼれた涙を拭ってから、苦労して立ち上がる。