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第29話 お風呂

 畳の上にあお向けに寝かされ、優しいキスが繰り返される。うっとりして、そのまま身をゆだねそうになった僕は、はっとして、彼の体を押し戻した。


「ちょっと待って」


「何」


 切なげな顔で問いかける彼に、僕は言った。


「もうすぐ夕ご飯の時間だよ」


 部屋で食事することを伝えてあるので、そろそろ料理が運ばれて来るはずだ。行為の途中で仲居さんがやって来たりしたら、目も当てられない。


「ああ、そうだったね……」


 吐息交じりに言いながら、彼は身を起こした。そして、乱れた前髪をかき上げながら苦笑する。


「時間はいくらでもあるんだから、がつがつすることないよね」


 僕も苦笑で答えた。本当は、僕もすっかり妖しい気分になってしまっているのだけれど。




 夕食のメインはしゃぶしゃぶだった。地元で採れたという梅肉入りのタレが、さっぱりしていて、とてもおいしかった。


 食事の後、大浴場には行かず、部屋のお風呂に二人で入った。例のごとく、いろんなことをして、たくさん汗をかいてくたくたになった。




「あー」


 僕はパンツ一丁で、二組敷かれた布団の片方に倒れ込む。


「風邪引くよ」


 彼が、僕の体に浴衣をかけてくれる。


「暑い……」


「何か飲む?」


「うん」



 彼が、冷蔵庫からペットボトルを持って来て、隣の布団に胡坐をかいて座った。


「お茶とミネラルウォーター、どっちがいい?」


「うーん、お茶」


 彼が、キャップを外したお茶のボトルを差し出す。


「はい」


「ありがとう」


 起き上がってボトルを受け取り、僕はゴクゴクと一気に半分ほど飲み干す。


「ふう」


 ミネラルウォーターのキャップを外しながら、彼が言う。


「ごめん、ちょっと興奮し過ぎた」


「ううん、僕も」


 彼が、照れくさそうに頭を掻く。


「非日常の解放感ってやつもあるのかな。さっきも、着いて早々晴臣くんを押し倒しちゃったし」


「でも、うれしい」


「そう?」


「うん」


 彼が微笑む。


「君はホントにかわいいね。さっきも素敵だったよ」


 そういうふうに言われると、いつも恥ずかしくてもじもじしてしまうのだけれど、やっぱりうれしい。僕は、うつむいて言った。


「仁さんも、すごく、素敵だった」


 ああ、恥ずかしい。でも、すごくすごく幸せだ。



「さあ、風邪を引くといけないから、浴衣を着て」


「うん」


 僕は立ち上がって、浴衣を羽織る。


「これ、どっちが上?」


 浴衣なんて、子供のときに夏祭りか何かで着たきりなので、どういうふうに着ればいいのかよくわからない。彼も立ち上がる。


「こっちだよ。ほら、こう。ちょっと押さえてて」


 浴衣の前を整えてくれて、そのまま帯を締めてくれる。


「できた」


「ありがとう」


「じゃあ、布団に入ろうか」


「うん」



 並んで布団に横になったけれど、せっかくの特別な日に、まだ寝てしまうのはもったいない。


「ねえ、おしゃべりしよう」


「うん、いいよ。晴臣くん、今日は何が一番楽しかった?」


「えーっ、全部楽しかったよ。最初に駅で仁さんと会ったときからずっと楽しいけど、あー、でも、会う前から、もう楽しかったな」


 朝起きたときから、これから始まることを考えると、ワクワクが止まらなかった。


「そう」


 彼はにこにこしている。


「仁さんは? 何が楽しかった?」


「そうだね、僕も全部楽しかったよ。一緒に新幹線に乗ったのもよかったな」


「僕、新幹線なんて修学旅行以来」


「そう。僕は叔母さんの家に行くときや、出張でも何度か乗ったけど、仕事で乗ってもあんまり楽しくないからね。


 でも、今日は楽しかった。座席の晴臣くんの写真も撮ったし」


 僕は、ふと思い出す。


「そう言えば、SNSに窓辺に置いたお弁当の写真があったね」


「ああ、出張のときの。そう言えば、SNSはずっと放置したままだな」


「僕も。でも、仁さんと出会って、やり取りした大切な場所だから、あのまま置いておく。気が向いたら、また投稿するかもしれないし」


「そうだね。僕もそうしよう」


 そこで、もう一つ思い出したことを打ち明ける。


「あのね、実は僕、最初に見た猫カフェの写真、スマホに保存してあるんだ」


「へえ、そうなんだ」


「そういうのって、キモい?」


「そんなことない。うれしいよ」


「それならよかった」


 あれこそ、記念すべき大切な一枚だ。初めて彼の存在を知って、一目ぼれした麗しい笑顔の彼の写真。


 今もときどき、そっと見返す、真子さんが撮った猫と彼のツーショット。



「あーあ」


 僕は嘆息した。


「どうしたの?」


「明日の今頃は、もう東京に戻っているんだよね。なんだか、あっという間だなあと思って」


「明日の夜は、僕の部屋に泊まる?」


「……うん。そうか、一人のマンションに帰るのは寂しいと思ったけど」


 彼が微笑む。


「明日の夜も一緒に過ごして、朝マンションに帰ればいいよ」


「そうだね」


 それならば、寂しくはないだろう。彼が、天井に目を向けて言った。


「明日はどこに行くんだっけ」


「ええと、月影湖とストーンミュージアム」


「月影湖では遊覧船に乗ろう。ストーンミュージアムも面白そうだね」


「うん」


 ストーンミュージアムというのは、天然石の博物館らしい。



 その後も、ぽつりぽつりと言葉を交わしていたけれど、いつの間にか眠ってしまった。




「晴臣くん」


 耳元で、彼の声がする。


「晴臣くん、そろそろ起きようか」


 眠い目をこすりながら開けると、隣の布団の上で起き上がった彼が、微笑みを浮かべてこちらを見ている。


「あ……おはよう」


「おはよう。ゆっくりでいいけど、もうそろそろ朝ご飯に行こう」


 朝食は、大広間で食べることになっているのだ。


「うん」



 上体を起こすと、浴衣はすべてはだけてしまって、帯だけがお腹に巻かれた状態になっていた。彼が、くすっと笑う。


「セクシーだね。ちょっとそそられる」


 僕は、あわてて浴衣の襟を掻き合わせる。彼がニヤニヤしながら言った。


「時間があれば押し倒したいところだけど、いろいろ予定があるし、お腹も空いているしね」




 浴衣のまま大広間に行くと、たくさん並んだ座卓に部屋番号のプレートが置いてあって、純和風の朝食が準備されていた。ご飯と味噌汁に、アジの開きと納豆と焼きのりと漬け物。


「こういう朝食は久しぶりだな」


「自分では、なかなか朝からアジの開きは食べないよね」


 網の上に小ぶりなアジの開きがのせてあって、固形燃料に火を点けて自分で焼くのだ。叔父さんのマンションで魚を焼くのは気が進まないし、そうでなくても、やっぱり自分から進んで干物は食べない。


「晴臣くん、納豆は平気?」


「うん、まあ。進んで食べはしないけど」


「僕もそう。でも、せっかくだから」


 そう言って、彼は納豆にカラシとタレを入れて混ぜ始める。せっかくだから、僕も。



 ご飯に納豆をのせて、その上から焼きのりで巻いて、ぱくっと口に入れる。


「うん、おいひー」


 彼が微笑む。


「アジも焼けたみたいだね」

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