畳の上にあお向けに寝かされ、優しいキスが繰り返される。うっとりして、そのまま身をゆだねそうになった僕は、はっとして、彼の体を押し戻した。
「ちょっと待って」
「何」
切なげな顔で問いかける彼に、僕は言った。
「もうすぐ夕ご飯の時間だよ」
部屋で食事することを伝えてあるので、そろそろ料理が運ばれて来るはずだ。行為の途中で仲居さんがやって来たりしたら、目も当てられない。
「ああ、そうだったね……」
吐息交じりに言いながら、彼は身を起こした。そして、乱れた前髪をかき上げながら苦笑する。
「時間はいくらでもあるんだから、がつがつすることないよね」
僕も苦笑で答えた。本当は、僕もすっかり妖しい気分になってしまっているのだけれど。
夕食のメインはしゃぶしゃぶだった。地元で採れたという梅肉入りのタレが、さっぱりしていて、とてもおいしかった。
食事の後、大浴場には行かず、部屋のお風呂に二人で入った。例のごとく、いろんなことをして、たくさん汗をかいてくたくたになった。
「あー」
僕はパンツ一丁で、二組敷かれた布団の片方に倒れ込む。
「風邪引くよ」
彼が、僕の体に浴衣をかけてくれる。
「暑い……」
「何か飲む?」
「うん」
彼が、冷蔵庫からペットボトルを持って来て、隣の布団に胡坐をかいて座った。
「お茶とミネラルウォーター、どっちがいい?」
「うーん、お茶」
彼が、キャップを外したお茶のボトルを差し出す。
「はい」
「ありがとう」
起き上がってボトルを受け取り、僕はゴクゴクと一気に半分ほど飲み干す。
「ふう」
ミネラルウォーターのキャップを外しながら、彼が言う。
「ごめん、ちょっと興奮し過ぎた」
「ううん、僕も」
彼が、照れくさそうに頭を掻く。
「非日常の解放感ってやつもあるのかな。さっきも、着いて早々晴臣くんを押し倒しちゃったし」
「でも、うれしい」
「そう?」
「うん」
彼が微笑む。
「君はホントにかわいいね。さっきも素敵だったよ」
そういうふうに言われると、いつも恥ずかしくてもじもじしてしまうのだけれど、やっぱりうれしい。僕は、うつむいて言った。
「仁さんも、すごく、素敵だった」
ああ、恥ずかしい。でも、すごくすごく幸せだ。
「さあ、風邪を引くといけないから、浴衣を着て」
「うん」
僕は立ち上がって、浴衣を羽織る。
「これ、どっちが上?」
浴衣なんて、子供のときに夏祭りか何かで着たきりなので、どういうふうに着ればいいのかよくわからない。彼も立ち上がる。
「こっちだよ。ほら、こう。ちょっと押さえてて」
浴衣の前を整えてくれて、そのまま帯を締めてくれる。
「できた」
「ありがとう」
「じゃあ、布団に入ろうか」
「うん」
並んで布団に横になったけれど、せっかくの特別な日に、まだ寝てしまうのはもったいない。
「ねえ、おしゃべりしよう」
「うん、いいよ。晴臣くん、今日は何が一番楽しかった?」
「えーっ、全部楽しかったよ。最初に駅で仁さんと会ったときからずっと楽しいけど、あー、でも、会う前から、もう楽しかったな」
朝起きたときから、これから始まることを考えると、ワクワクが止まらなかった。
「そう」
彼はにこにこしている。
「仁さんは? 何が楽しかった?」
「そうだね、僕も全部楽しかったよ。一緒に新幹線に乗ったのもよかったな」
「僕、新幹線なんて修学旅行以来」
「そう。僕は叔母さんの家に行くときや、出張でも何度か乗ったけど、仕事で乗ってもあんまり楽しくないからね。
でも、今日は楽しかった。座席の晴臣くんの写真も撮ったし」
僕は、ふと思い出す。
「そう言えば、SNSに窓辺に置いたお弁当の写真があったね」
「ああ、出張のときの。そう言えば、SNSはずっと放置したままだな」
「僕も。でも、仁さんと出会って、やり取りした大切な場所だから、あのまま置いておく。気が向いたら、また投稿するかもしれないし」
「そうだね。僕もそうしよう」
そこで、もう一つ思い出したことを打ち明ける。
「あのね、実は僕、最初に見た猫カフェの写真、スマホに保存してあるんだ」
「へえ、そうなんだ」
「そういうのって、キモい?」
「そんなことない。うれしいよ」
「それならよかった」
あれこそ、記念すべき大切な一枚だ。初めて彼の存在を知って、一目ぼれした麗しい笑顔の彼の写真。
今もときどき、そっと見返す、真子さんが撮った猫と彼のツーショット。
「あーあ」
僕は嘆息した。
「どうしたの?」
「明日の今頃は、もう東京に戻っているんだよね。なんだか、あっという間だなあと思って」
「明日の夜は、僕の部屋に泊まる?」
「……うん。そうか、一人のマンションに帰るのは寂しいと思ったけど」
彼が微笑む。
「明日の夜も一緒に過ごして、朝マンションに帰ればいいよ」
「そうだね」
それならば、寂しくはないだろう。彼が、天井に目を向けて言った。
「明日はどこに行くんだっけ」
「ええと、月影湖とストーンミュージアム」
「月影湖では遊覧船に乗ろう。ストーンミュージアムも面白そうだね」
「うん」
ストーンミュージアムというのは、天然石の博物館らしい。
その後も、ぽつりぽつりと言葉を交わしていたけれど、いつの間にか眠ってしまった。
「晴臣くん」
耳元で、彼の声がする。
「晴臣くん、そろそろ起きようか」
眠い目をこすりながら開けると、隣の布団の上で起き上がった彼が、微笑みを浮かべてこちらを見ている。
「あ……おはよう」
「おはよう。ゆっくりでいいけど、もうそろそろ朝ご飯に行こう」
朝食は、大広間で食べることになっているのだ。
「うん」
上体を起こすと、浴衣はすべてはだけてしまって、帯だけがお腹に巻かれた状態になっていた。彼が、くすっと笑う。
「セクシーだね。ちょっとそそられる」
僕は、あわてて浴衣の襟を掻き合わせる。彼がニヤニヤしながら言った。
「時間があれば押し倒したいところだけど、いろいろ予定があるし、お腹も空いているしね」
浴衣のまま大広間に行くと、たくさん並んだ座卓に部屋番号のプレートが置いてあって、純和風の朝食が準備されていた。ご飯と味噌汁に、アジの開きと納豆と焼きのりと漬け物。
「こういう朝食は久しぶりだな」
「自分では、なかなか朝からアジの開きは食べないよね」
網の上に小ぶりなアジの開きがのせてあって、固形燃料に火を点けて自分で焼くのだ。叔父さんのマンションで魚を焼くのは気が進まないし、そうでなくても、やっぱり自分から進んで干物は食べない。
「晴臣くん、納豆は平気?」
「うん、まあ。進んで食べはしないけど」
「僕もそう。でも、せっかくだから」
そう言って、彼は納豆にカラシとタレを入れて混ぜ始める。せっかくだから、僕も。
ご飯に納豆をのせて、その上から焼きのりで巻いて、ぱくっと口に入れる。
「うん、おいひー」
彼が微笑む。
「アジも焼けたみたいだね」