朝目が覚めると、彼は出かけた後だった。起きられないかもしれないとは言ったけれど、それでも一応、起きるつもりでいたのに。
本当に疲れていたのだなあと実感する。ふと昨夜のバスルームでのことを思い出し、顔が熱くなる。
あんな大胆な彼も初めてだったけれど、それに対する自分の反応も初めてだった。まさか、あんな恥ずかしいことを……。
しばらくの間、ベッドの中でぐずぐずした後、ようやく起き上がると、もうそろそろ9時だ。彼が出かけた後も、1時間以上眠りこけていたのか……。
テーブルに置手紙がある。
―― トースターにパンがセットしてあるし、冷蔵庫にスープとサラダがあるから、スープはチンして食べて。
お昼は冷凍庫に炊き込みご飯とグラタンとカレーがあるから、どれでも好きなものをサラダと一緒に食べて。
冷蔵庫に入っているものも、なんでも食べても飲んでもいいからね。 仁
僕は思わずにやける。置手紙も、その内容もうれしいけれど、初めて見た彼の字が意外とかわいかったのだ。
この手紙、取っておこう。また一つ、新たな宝物ができた。
その日は一日、彼が用意してくれたものを食べて、部屋でゴロゴロした。まるで自分の部屋みたいに、ベッドに寝転んでスマホを見たり、うとうとしたり。
それはそれで、なんだか幸せだ。こういうことも、恋人がいなければできないわけだし。
夜になった。叔父さんのマンションの僕の部屋にはテレビがないので、実に久しぶりにテレビのニュースを見ていると、スマホが震えた。
―― 遅くなってごめん。今から、前に一緒に行った豚カツ屋のお弁当買って帰るよ。
すぐに返信する。
―― いいけど、今からお弁当買えるの?
豚カツ屋はやっているだろうけれど、この時間にお弁当なんてあるんだろうか。すると、返信が来た。
―― 昼間のうちに予約しておいたんだよ。
なるほど、さすがは優秀なビジネスマン。
―― そうなんだ。楽しみ!
―― じゃあ後で。
へえ、うれしいな。彼と食べるなら、コンビニのお弁当だってカップラーメンだって十分にうれしいのに、わざわざ特別なお弁当を予約して買って来てきてくれるなんて。
あー、やっぱり幸せだ。毎日毎日、幸せが目白押しだ……。
数十分後、玄関のチャイムが鳴った。
「おかえりなさい」
駆け寄ってドアを開けた僕を見て、彼が微笑む。
「ただいま、かわいいくまさん」
今日は彼が買ってくれたテディベアの部屋着を着ているのだ。僕は、通勤カバンとお弁当の入った手提げを受け取りながら言う。
「おかえりなさい、優秀なビジネスマンさん」
彼がきょとんとする。
「何それ」
「豚カツ屋さんのお弁当を予約して買って来るなんて、優秀なビジネスマンの仕事だなあと思って」
僕の言葉に、彼があははと笑った。
「このお弁当、まだあったかいね」
ほのかにいい匂いのする弁当を手提げから取り出してテーブルに置く。すると、彼が言った。
「受け取りに行く時間を指定すると、それに合わせて揚げてくれるんだよ」
「へえ、良心的。じゃあ僕、お茶を淹れるから、仁さんは着替えて」
せっかくだから、冷めないうちに食べなくては。
お弁当は、とてもおいしかった。食べながら、彼の会社の先輩の失敗談を聞いたり、久しぶりに見たテレビのニュースや天気予報の話をした。
今日は別々にお風呂に入り、パジャマを着てベッドに落ち着いた。
彼が、体ごとこちらに向き、僕の髪をもてあそびながら言う。
「今日は何してたの?」
「ずっとゴロゴロしてた。なんだか、自分の部屋みたいにくつろいじゃった。ご飯もおいしかったよ」
彼がふふっと笑う。
「それならよかった。今朝、ホントにぐっすり眠ってて、ちっとも目を覚まさないから……」
ちらりと見ると、先を続ける。
「よっぽど疲れたんだなあと思って、昨夜のこと、反省したよ。自分の欲望ばかり優先させて、気遣いが足りなかった」
「そんなことないよ」
彼が悲しげに目を伏せる。
「でも、君のこと、心も体も、もっと大切にしないと。君は一緒に入るのを嫌がっていたのに……」
「別に嫌がっていたわけじゃないよ。ただ恥ずかしかっただけ。それに僕、体力がないから」
「だからこそ、そういうことにもっと配慮するべきだったんだ。君のこと、大切にしたいと思っているのに……」
彼があまりにも悲しそうなので、僕は慌てていいつのる。
「仁さんは、いつも僕のこと、すごく大切にしてくれているよ。僕はそう思ってる。
昨夜だって、すごくうれしかったし、あの、すごく……よかったよ。僕も興奮し過ぎて疲れちゃっただけ」
ああ、顔が熱い。
彼が僕を見る。
「ホント?」
「ホント。ええと、仁さんの気持ち、すごく伝わったし、体でも感じた」
こんなことを言うのは初めてで、すごく恥ずかしい。だけど、彼が僕を愛してくれて、この僕の体でこんなに興奮しているのかと思うと、たまらなくうれしくて、僕も興奮したのだ。
「そうか……」
ほっとしたように、彼が微笑んでくれた。よかった……。
僕は、勇気を出して言ってみる。
「今日は、しないの?」
「……してもいいの?」
「もちろん」
「でも、昨夜、すごく激しくしたから、君の体が心配だよ」
「大丈夫だよ」
今度も勇気を出して、僕からキスをする。唇が離れた後、彼が、濡れた瞳で僕を見つめながら言った。
「うんと優しくするから」
翌朝は、いつものように出勤する彼と一緒に部屋を出て、いったんマンションに戻った。部屋の空気を入れ替え、掃除をして、夕方にはまた彼の部屋に向かう。
30日まで、僕たちはそんなふうにして過ごした。毎日、とても楽しくて幸せだった。
そして、大晦日の朝が来た。
彼は準備をして、叔母さんの家へ、僕はいったんマンションに戻ってから、実家に向かう。しばしのお別れだ。
「仁さん」
部屋を出る準備を整えた僕は、彼の胸にしがみついた。彼が、包み込むように背中に両腕を回してくれる。
「寂しいよ……」
毎日一緒に過ごすのが当たり前のようになってしまい、ほんの数日でも離れるのが辛い。彼が言った。
「僕も寂しいけど、初詣、楽しみにしているよ」
彼が東京に帰って来たら、一緒に初詣に行く約束をしているのだ。行先は、二人が初めて会った日にお参りした此木神社。
それは、どちらからともなく言い出して決まった。思い出の場所だし、僕は、此木神社はとてもご利益があると思っている。
あの日僕は、彼と「末永く仲良くできますように」とお願いしたのだ。付き合い始めて、まだ3ヶ月ほどだけれど、あのときは、まさかこんな未来が待っているとは夢にも思っていなかった。
きっと毘沙門天さんが力を貸してくれたに違いない。
顔を上げると、彼が優しくキスしてくれた。
「それに、毎日連絡するから」
「うん。僕も」
ひとしきりキスとハグを繰り返した後、僕は後ろ髪を引かれる思いで部屋を後にした。