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第15話 誕生日

 朝の駅のホームは、通勤通学客でごった返している。少しは話が出来るかと思ったのに、数分もしないうちに、すぐに電車がやって来た。


「もう来ちゃった」


 彼が苦笑する。人が見ていなければ、手ぐらい握りたいところだけれど、そんな勇気はない。


「お仕事がんばってね」


「ありがとう。じゃあ」


 人の流れに沿って、彼は電車の中へと吸い込まれて行った。目で追っていると、車両の奥まで行った彼は、こちら側を向いて、吊革を掴んで立った。


 僕たちは、ガラス越しに見つめ合う。やっぱり別れは切ない。


 ドアが閉まり、ゆっくりと電車が動き出す。一生懸命に手を振ったけれど、あっという間に電車は走り去ってしまった。



 僕は抜け殻のような気持ちになって、とぼとぼと自分が乗る電車のホームに向かったのだった。




 二日ぶりにマンションに戻った僕は、空気を入れ替えるために、ベランダに面したサッシを開いた。そよそよと気持ちいい風が入って来る。



 僕は、街並みを見下ろしながら考える。


 二日前にここを出るときは、初めて彼の部屋を訪ねることにとても緊張していたし、体調も悪かった。でも、今は風邪も治ったし、なんと大好きな人と恋人同士になったのだ。


 もうヘタレでぼっちの僕じゃない。いや、相変わらずヘタレではあるけれど、とにかく、とても素敵な恋人がいる僕なのだ。


 なんなら一生恋人なんか出来ないんじゃないかと思って、半ばあきらめていたけれど、奇跡って起こるものなのだ。いやー参った。


 そう言えば、彼と一緒にいた間は、空写真のことなどすっかり忘れていた。今日は久しぶりに撮ることにしよう。




 僕は、ずっと彼のことや、彼と一緒に過ごした二日間のことを考えながら、掃除や洗濯をしたり、買い出しに行ったり、一応(?)空の写真を撮ったりして一日を過ごした。一人でいても、ずっと幸せだった。



 夕方以降は、もう仕事は終わったのか、今頃何をしているのだろうかなどとと思いつつ、じゃまになってはいけないと思い、自分からは連絡出来ずにいたのだが、夜になって、彼からメッセージが来た。


―― 今、帰りの電車の中だよ。やっと連絡する時間が出来た。今日は一日何してた?


―― お仕事お疲れ様。ずっと仁さんのことを考えながら、掃除したりコンビニに行ったり。


―― 夕飯は何食べたの?


―― 握り寿司とカプレーゼ。


―― 面白い組み合わせ。トマト好きなの?


―― うん。スーパーのお惣菜でプチトマトのやつ。仁さんは夕飯食べたの?


―― 上司と定食屋で生姜焼き定食。


―― お酒は?


―― 付き合いでビールを一杯だけ。いい気分。晴臣くんの顔が見たいな。



 えっ? それって自撮りを送ってほしいということだろうか。あんまり自撮りは得意じゃないのだが、彼の望みとあらば致し方ない。


―― ちょっと待ってて。今撮るから。


 いい感じに撮れる自信がないけれど。少しはマシに撮れるように、今度自撮りアプリを入れようかな。


 などと思いつつ、急いで撮る。イマイチな気はするが、どうせ実物を知られているのだからと思い送信。


 少しの間があってから返信が来た。


―― すごくかわいい。好きだよ。



 そう言ってくれるのはうれしいけれど、全然かわいくないのに、やっぱり酔っているんだろうか。あんまりお酒は強くないのかも。


 仁さんも自撮りを送ってと書き込もうとしたが、またすぐにメッセージが来た。


―― 駅に着いたから、また後で。



 ちぇっ。まあいいか。


 こんなやり取りが出来るなんて、やっぱりめちゃくちゃ幸せだ。恋人がいるってこういうことなのか……。




「えっ、文化の日なんだね」


 それは、十月も後半に入った週末に、カフェでランチを食べていたときのことだ。彼の誕生日がもうすぐで、それは十一月三日なのだという。


「そう。だから毎年、誕生日は休日なんだ」


「へえ、そうなんだ。それで、その日は、何か予定はあるの?」


「それが、なんにもなくてさ。学生時代は友達がみんなで祝ってくれたけど、お互いに仕事が忙しくてだんだん疎遠になっちゃって、今じゃ『おめでとう』のメッセージが来るぐらいだよ」


 彼は、なぜかとてもうれしそうに言う。


「でも、家族の人は?」


「いや、うちはちょっと複雑でさ」


「え?」


「別にたいした話じゃないんだけど、両親は、僕が中学生のときに離婚していてね。それぞれ再婚して子供もいるから、僕はどちらとも、今はあんまり交流がないんだ」


 それは、初めて聞いた、彼の家庭の話だった。ずいぶん辛い思いや寂しい思いもしたのではないかと、僕は切ない気持ちになる。


 だが、やっぱり彼は、にこにこしながら言った。


「だからさ、その日は晴臣くんと過ごせたらうれしいんだけど」


「あっ、もちろんだよ。僕もその日は一緒にいたい」


 好きな人の誕生日を一緒に祝いたいのは当然だけれど、彼には、ほかの人と過ごす予定があるのではないかと心配していたのだ。


「やった」


 そう言った後、彼は楽しそうに笑う。



 知り合った頃、彼は大人の余裕があって、しっかりしている人だと思っていた。だが、付き合ううちに、彼のかわいい部分や無邪気な部分も垣間見られるようになって、そのたび僕は、彼のことがますます好きになる。



 アイスコーヒーをストローで飲んでから、彼が言った。


「楽しみだな。その日はどんなふうにして過ごそうか」


「僕は一緒にいられるだけで十分だけど、仁さんの誕生日だから、仁さんが好きなようにしてほしい」


「そう。じゃあ、ちょっと考えてみるよ」


「うん」


「ところで、晴臣くんの誕生日はいつ?」


「5月6日」


「なんだ、もうとっくに過ぎちゃってるね」


「うん」



 その日は実家に帰って、両親と一緒にケーキを食べたのだった。叔父さんのマンションで暮らすようになってから、まだそれほど経っていなくて、父に嫌味を言われながら食べたケーキは、あまりおいしくなかった。



 そんなことを思い出していると、彼が言った。


「じゃあ、来年の誕生日は今から予約しておくよ。その日は、僕と一緒にお祝いしよう」


「あ……」


 うれし過ぎて、すぐには言葉が出て来ない。


「あっ、晴臣くん、来年二十歳じゃん。記念すべき日だね。


 でも、そんな大切な日は、ご両親もお祝いするのを楽しみにしているかも。当日は遠慮したほうがいいかな」


 母はともかく、父はそんなことはないだろう。僕は言う。


「実家には別の日に帰るよ。


 僕が誕生日に一緒に過ごしたいのは仁さんだし、仁さんがお祝いしてくれたら、今までで最高な誕生日になるよ。だから、お願い」


  思わず両手を合わせると、彼は微笑んだ。


「そうだね。そうしよう」



 ああ、幸せ過ぎて怖いくらいだ。今度の彼の誕生日も楽しみだけれど、来年の誕生日の予約までしてくれたことが、たまらなくうれしい。


 つまり、彼はそれまで僕と一緒にいてくれるつもりだということだ。僕はもちろん、その先もずっとずっと一緒にいたいと思っているけれど。

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