朝の駅のホームは、通勤通学客でごった返している。少しは話が出来るかと思ったのに、数分もしないうちに、すぐに電車がやって来た。
「もう来ちゃった」
彼が苦笑する。人が見ていなければ、手ぐらい握りたいところだけれど、そんな勇気はない。
「お仕事がんばってね」
「ありがとう。じゃあ」
人の流れに沿って、彼は電車の中へと吸い込まれて行った。目で追っていると、車両の奥まで行った彼は、こちら側を向いて、吊革を掴んで立った。
僕たちは、ガラス越しに見つめ合う。やっぱり別れは切ない。
ドアが閉まり、ゆっくりと電車が動き出す。一生懸命に手を振ったけれど、あっという間に電車は走り去ってしまった。
僕は抜け殻のような気持ちになって、とぼとぼと自分が乗る電車のホームに向かったのだった。
二日ぶりにマンションに戻った僕は、空気を入れ替えるために、ベランダに面したサッシを開いた。そよそよと気持ちいい風が入って来る。
僕は、街並みを見下ろしながら考える。
二日前にここを出るときは、初めて彼の部屋を訪ねることにとても緊張していたし、体調も悪かった。でも、今は風邪も治ったし、なんと大好きな人と恋人同士になったのだ。
もうヘタレでぼっちの僕じゃない。いや、相変わらずヘタレではあるけれど、とにかく、とても素敵な恋人がいる僕なのだ。
なんなら一生恋人なんか出来ないんじゃないかと思って、半ばあきらめていたけれど、奇跡って起こるものなのだ。いやー参った。
そう言えば、彼と一緒にいた間は、空写真のことなどすっかり忘れていた。今日は久しぶりに撮ることにしよう。
僕は、ずっと彼のことや、彼と一緒に過ごした二日間のことを考えながら、掃除や洗濯をしたり、買い出しに行ったり、一応(?)空の写真を撮ったりして一日を過ごした。一人でいても、ずっと幸せだった。
夕方以降は、もう仕事は終わったのか、今頃何をしているのだろうかなどとと思いつつ、じゃまになってはいけないと思い、自分からは連絡出来ずにいたのだが、夜になって、彼からメッセージが来た。
―― 今、帰りの電車の中だよ。やっと連絡する時間が出来た。今日は一日何してた?
―― お仕事お疲れ様。ずっと仁さんのことを考えながら、掃除したりコンビニに行ったり。
―― 夕飯は何食べたの?
―― 握り寿司とカプレーゼ。
―― 面白い組み合わせ。トマト好きなの?
―― うん。スーパーのお惣菜でプチトマトのやつ。仁さんは夕飯食べたの?
―― 上司と定食屋で生姜焼き定食。
―― お酒は?
―― 付き合いでビールを一杯だけ。いい気分。晴臣くんの顔が見たいな。
えっ? それって自撮りを送ってほしいということだろうか。あんまり自撮りは得意じゃないのだが、彼の望みとあらば致し方ない。
―― ちょっと待ってて。今撮るから。
いい感じに撮れる自信がないけれど。少しはマシに撮れるように、今度自撮りアプリを入れようかな。
などと思いつつ、急いで撮る。イマイチな気はするが、どうせ実物を知られているのだからと思い送信。
少しの間があってから返信が来た。
―― すごくかわいい。好きだよ。
そう言ってくれるのはうれしいけれど、全然かわいくないのに、やっぱり酔っているんだろうか。あんまりお酒は強くないのかも。
仁さんも自撮りを送ってと書き込もうとしたが、またすぐにメッセージが来た。
―― 駅に着いたから、また後で。
ちぇっ。まあいいか。
こんなやり取りが出来るなんて、やっぱりめちゃくちゃ幸せだ。恋人がいるってこういうことなのか……。
「えっ、文化の日なんだね」
それは、十月も後半に入った週末に、カフェでランチを食べていたときのことだ。彼の誕生日がもうすぐで、それは十一月三日なのだという。
「そう。だから毎年、誕生日は休日なんだ」
「へえ、そうなんだ。それで、その日は、何か予定はあるの?」
「それが、なんにもなくてさ。学生時代は友達がみんなで祝ってくれたけど、お互いに仕事が忙しくてだんだん疎遠になっちゃって、今じゃ『おめでとう』のメッセージが来るぐらいだよ」
彼は、なぜかとてもうれしそうに言う。
「でも、家族の人は?」
「いや、うちはちょっと複雑でさ」
「え?」
「別にたいした話じゃないんだけど、両親は、僕が中学生のときに離婚していてね。それぞれ再婚して子供もいるから、僕はどちらとも、今はあんまり交流がないんだ」
それは、初めて聞いた、彼の家庭の話だった。ずいぶん辛い思いや寂しい思いもしたのではないかと、僕は切ない気持ちになる。
だが、やっぱり彼は、にこにこしながら言った。
「だからさ、その日は晴臣くんと過ごせたらうれしいんだけど」
「あっ、もちろんだよ。僕もその日は一緒にいたい」
好きな人の誕生日を一緒に祝いたいのは当然だけれど、彼には、ほかの人と過ごす予定があるのではないかと心配していたのだ。
「やった」
そう言った後、彼は楽しそうに笑う。
知り合った頃、彼は大人の余裕があって、しっかりしている人だと思っていた。だが、付き合ううちに、彼のかわいい部分や無邪気な部分も垣間見られるようになって、そのたび僕は、彼のことがますます好きになる。
アイスコーヒーをストローで飲んでから、彼が言った。
「楽しみだな。その日はどんなふうにして過ごそうか」
「僕は一緒にいられるだけで十分だけど、仁さんの誕生日だから、仁さんが好きなようにしてほしい」
「そう。じゃあ、ちょっと考えてみるよ」
「うん」
「ところで、晴臣くんの誕生日はいつ?」
「5月6日」
「なんだ、もうとっくに過ぎちゃってるね」
「うん」
その日は実家に帰って、両親と一緒にケーキを食べたのだった。叔父さんのマンションで暮らすようになってから、まだそれほど経っていなくて、父に嫌味を言われながら食べたケーキは、あまりおいしくなかった。
そんなことを思い出していると、彼が言った。
「じゃあ、来年の誕生日は今から予約しておくよ。その日は、僕と一緒にお祝いしよう」
「あ……」
うれし過ぎて、すぐには言葉が出て来ない。
「あっ、晴臣くん、来年二十歳じゃん。記念すべき日だね。
でも、そんな大切な日は、ご両親もお祝いするのを楽しみにしているかも。当日は遠慮したほうがいいかな」
母はともかく、父はそんなことはないだろう。僕は言う。
「実家には別の日に帰るよ。
僕が誕生日に一緒に過ごしたいのは仁さんだし、仁さんがお祝いしてくれたら、今までで最高な誕生日になるよ。だから、お願い」
思わず両手を合わせると、彼は微笑んだ。
「そうだね。そうしよう」
ああ、幸せ過ぎて怖いくらいだ。今度の彼の誕生日も楽しみだけれど、来年の誕生日の予約までしてくれたことが、たまらなくうれしい。
つまり、彼はそれまで僕と一緒にいてくれるつもりだということだ。僕はもちろん、その先もずっとずっと一緒にいたいと思っているけれど。