目次
ブックマーク
応援する
いいね!
コメント
シェア
通報
第10話 あふれる涙

 そこは、駅から十分ほど歩いたところにあるワンルームマンションだった。


「どうぞ。狭くて恥ずかしいけど」


「いえ、そんなことないですよ。おじゃまします」


 たしかに、叔父さんのマンションとは規模が違うけれど、シンプルで清潔感が漂う部屋は、彼の人柄を表しているようで感じがいい。


「あの、これ」


 僕は、買って来たケーキの箱を、ビニールの手提げ袋から出して差し出す。


「笹垣さん、甘いものがお好きかどうかわからないですけど、デザートにどうかと思って」


 サバランと、見た目が美しいダークチェリーのタルトにしたのだが。


「えっ、ケーキ? 大好きだよ。


 気を遣ってくれなくてよかったのに……。でも、ありがとう」


 にっこり笑った彼が、ぐらりと揺れた。……と思ったら、揺れたのは僕だったらしい。



「晴臣くん!」


 ガシッと両方の二の腕を掴まれて、余計に僕はクラクラする。ああそんな、いきなり……。


「大丈夫?」


「あ……風邪薬、飲んで来たんですけど」


 薬の効果は全然現れず、むしろ体調は悪化している気がする。


「とりあえず、少し横になったほうがいいよ」


「でも」


 初めて部屋を訪ねて、いきなりそんな、失礼では……。


「いいから、上脱いで」


「え……」


 彼は、羽織っていたパーカーを脱がせて、僕を部屋の奥へと連れて行く。




「す、すいません」


 彼は有無を言わせず、僕をベッドに寝かせた。シーツや枕からは、柔軟剤のいい香りがしている。


 彼は優しい笑顔で言う。


「気にしなくていいよ。僕はこれから料理に取りかかるけど、出来上がったら起こすから、それまで休んでいて」


「ホントにすいません」


「いいからいいから」


 彼はそう言ってキッチンに向かったけれど、僕は自分が情けなくてしかたがない。こんな大事な日に、こんなことになるなんて。



 僕は料理は出来ないけれど、そばでお手伝いしたり、彼の料理するところを見たり、そうしながら、楽しい会話を交わしたりしたかった。それなのに、すっかり迷惑をかけてしまって……。


 あまりに情けなくて涙が出て来た。泣いてはいけないと焦れば焦るほど、涙があふれて止まらない。




 必死に涙を拭っていると、それに気づいた彼が、こちらにやって来た。やはり、同じ部屋にいて気づかれないようにするのは無理だったか。


「晴臣くん?」


「あ……すいません」


「大丈夫? どこか辛いの?」


「いえ……」


「休日診療の病院を探して行こうか」


「いえ、そんな、大丈夫です」


 すっかり心配と迷惑をかけてしまっている。そう思うと、またも涙がこみ上げる。


「晴臣くん……」


「自分が、情けなくて。せっかく、笹垣さんが、あぁ……」


 みっともないと思いつつ、泣きながら言いつのる。せっかく招いてくれたのに、申し訳なくて、どうしていいかわからない。



 すると、彼の手が、僕の頭に伸びて来た。彼が、そっと髪を撫でてくれる。


「そんなに自分を責めなくていいんだよ。料理くらい、これから何度でもごちそうするし。


 それに、さっきは無理に来てもらって悪かったと思ったけど、やっぱり来てもらってよかったよ」


「え?」


「こんなときに一人にさせておくのは心配だから」


 な、なんだって? それってどういう……。そ、それにっ、頭なでなでして「これから何度でもごちそうする」って……。


 言葉の意味を考えて、体中がカッと熱くなる。彼が、僕の頬に手を当てながら心配そうに言った。


「熱、出て来てる? やっぱり病院に行ったほうが……」


 違う違う。原因はあなたです。




 彼が、自分を責めなくていいと言ってくれたおかげもあって、なんとか涙も止まり、気持ちも落ち着いて、僕は、お言葉に甘えて、彼のベッドで休ませてもらうことにした。


 それにしても。


 彼が、とても優しい人だということはよくわかっているけれど、さっきの数々の発言や態度をどう受け止めればいいのだろう。


 僕があまりにも情けなく、子供みたいに泣きじゃくってしまったから、慰めるつもりで言ってくれたのかもしれないが、それにしてもだ。


 頭なでなでとか、一人にさせておくのは心配だとか、ほっぺにタッチとか、普通、そんなことを友達に対してするものだろうか。僕がガキだから、深い意味などなくやっているのかもしれないが、だけど、あんなふうにされたら勘違いしてしまう……。


 ダメだダメだ。彼の恋愛対象は女性なんだから、うっかりバカなことを口にして、いつかみたいにキモいと言われて、それで関係が終わってしまったら、辛すぎて、生きていけなくなってしまう……。



 そんなことを考えながら、僕は少し眠った。




 ふと目覚めると、部屋は薄暗くなっていて、灯りの点いたキッチンで立ち働いている彼の姿が見える。とてもいい匂いがしている。


 ベッドの上で上体を起こすと、物音に、彼がこちらを向いた。そして、近づいて来ながら言う。


「気分はどう?」


「あぁ、はい。なんとか」


 本当は、さっきとあまり変わっていないけれど。彼が、ベッドにかがみ込みながら、僕の顔を覗き込んだ。


 あぁもう。きれいな瞳に見つめられて、僕は思わずうつむく。



 彼は微笑む。


「本当は、鶏の唐揚げを作る予定だったんだけど、今日の晴臣くんの体調にはヘビーかと思って、クリームシチューに変更したんだよ」


「すいません。でも、すごくいい匂い」


「シチュー好き?」


「はい、大好きです」


「食べられそう?」


「多分……」


「そう。シチューなら、後から温め直して食べられるし、たくさん作ったから、なんなら持って帰ってもらってもいいし」


「うれしい。ありがとうございます」




 鶏肉と根菜類がたっぷり入ったクリームシチューも、人参とリンゴのサラダも、とてもおいしかったけれど、やはり体調のせいで、あまり食べられなかった。


 デザートのケーキも、彼はせっかくだからと言って、タルトのほうを食べてくれたけれど、僕は遠慮した。



「あーおいしかった、ごちそうさま。このタルト、すごくおいしいから、晴臣くんも後で食べるといいよ」


 そう言ってから、彼は僕を見た。


「あのさ」


「……はい」


「思ったんだけど、晴臣くん、今日はこのまま、うちに泊まったら?」


「えっ!?」


「一人暮らしだし、どうしても帰らなきゃならないってわけじゃないだろ? その体調で、これから電車に乗って帰るのは心配だよ」


「でも……」



 彼は微笑む。


「遠慮ならいらないよ。僕だって一人暮らしだし、コンビニもドラッグストアもすぐ近くにあるから、必要なものは、後で僕が買って来るよ。


 あっ、でも……」


 突然何かに気づいたように、彼が、ちらりと部屋の奥を見た。


「なんですか?」


「予備の布団がないんだった」


「あっ……。じゃあ、やっぱり帰ります」



 だが、彼は言った。


「もしも君がイヤじゃなければ、一緒にベッドで寝てもいいかな。ちょっと窮屈かもしれないけど、晴臣くん細いし、一応セミダブルだから」


「えっ。そ、それは……」


 一つのベッドで、彼と一緒に寝るだとっ!?


「……やっぱりイヤだよね」


「イヤじゃないですイヤじゃないです全然イヤじゃないですっ。でっ、でも、笹垣さんに風邪がうつったら困ります」


 すると、彼は笑って言った。


「大丈夫だよ。ウィルス性の風邪ってわけじゃないんだろ?」


「はぁ、寝冷えしたっていうか」


 事実とは若干、いや、まったく違うけれど、ウィルスに感染したわけではないのは確かだ。多分。


「それならうつらないさ」


 よくわからないが、そういうものなのだろうか? いや、うつるかうつらないかという問題ではなくっ。


 だが彼は、すべての問題はクリアしたとばかりに言い放った。


「じゃあそういうことで。パジャマは僕の洗い替えのがあるし、後片付けをしたら、替えのパンツとか靴下とか、風邪薬も買って来るから」


 いつの間にか、今夜僕が泊まることが決定事項になっている……。

コメント(0)
この作品に、最初のコメントを書いてみませんか?