そこは、駅から十分ほど歩いたところにあるワンルームマンションだった。
「どうぞ。狭くて恥ずかしいけど」
「いえ、そんなことないですよ。おじゃまします」
たしかに、叔父さんのマンションとは規模が違うけれど、シンプルで清潔感が漂う部屋は、彼の人柄を表しているようで感じがいい。
「あの、これ」
僕は、買って来たケーキの箱を、ビニールの手提げ袋から出して差し出す。
「笹垣さん、甘いものがお好きかどうかわからないですけど、デザートにどうかと思って」
サバランと、見た目が美しいダークチェリーのタルトにしたのだが。
「えっ、ケーキ? 大好きだよ。
気を遣ってくれなくてよかったのに……。でも、ありがとう」
にっこり笑った彼が、ぐらりと揺れた。……と思ったら、揺れたのは僕だったらしい。
「晴臣くん!」
ガシッと両方の二の腕を掴まれて、余計に僕はクラクラする。ああそんな、いきなり……。
「大丈夫?」
「あ……風邪薬、飲んで来たんですけど」
薬の効果は全然現れず、むしろ体調は悪化している気がする。
「とりあえず、少し横になったほうがいいよ」
「でも」
初めて部屋を訪ねて、いきなりそんな、失礼では……。
「いいから、上脱いで」
「え……」
彼は、羽織っていたパーカーを脱がせて、僕を部屋の奥へと連れて行く。
「す、すいません」
彼は有無を言わせず、僕をベッドに寝かせた。シーツや枕からは、柔軟剤のいい香りがしている。
彼は優しい笑顔で言う。
「気にしなくていいよ。僕はこれから料理に取りかかるけど、出来上がったら起こすから、それまで休んでいて」
「ホントにすいません」
「いいからいいから」
彼はそう言ってキッチンに向かったけれど、僕は自分が情けなくてしかたがない。こんな大事な日に、こんなことになるなんて。
僕は料理は出来ないけれど、そばでお手伝いしたり、彼の料理するところを見たり、そうしながら、楽しい会話を交わしたりしたかった。それなのに、すっかり迷惑をかけてしまって……。
あまりに情けなくて涙が出て来た。泣いてはいけないと焦れば焦るほど、涙があふれて止まらない。
必死に涙を拭っていると、それに気づいた彼が、こちらにやって来た。やはり、同じ部屋にいて気づかれないようにするのは無理だったか。
「晴臣くん?」
「あ……すいません」
「大丈夫? どこか辛いの?」
「いえ……」
「休日診療の病院を探して行こうか」
「いえ、そんな、大丈夫です」
すっかり心配と迷惑をかけてしまっている。そう思うと、またも涙がこみ上げる。
「晴臣くん……」
「自分が、情けなくて。せっかく、笹垣さんが、あぁ……」
みっともないと思いつつ、泣きながら言いつのる。せっかく招いてくれたのに、申し訳なくて、どうしていいかわからない。
すると、彼の手が、僕の頭に伸びて来た。彼が、そっと髪を撫でてくれる。
「そんなに自分を責めなくていいんだよ。料理くらい、これから何度でもごちそうするし。
それに、さっきは無理に来てもらって悪かったと思ったけど、やっぱり来てもらってよかったよ」
「え?」
「こんなときに一人にさせておくのは心配だから」
な、なんだって? それってどういう……。そ、それにっ、頭なでなでして「これから何度でもごちそうする」って……。
言葉の意味を考えて、体中がカッと熱くなる。彼が、僕の頬に手を当てながら心配そうに言った。
「熱、出て来てる? やっぱり病院に行ったほうが……」
違う違う。原因はあなたです。
彼が、自分を責めなくていいと言ってくれたおかげもあって、なんとか涙も止まり、気持ちも落ち着いて、僕は、お言葉に甘えて、彼のベッドで休ませてもらうことにした。
それにしても。
彼が、とても優しい人だということはよくわかっているけれど、さっきの数々の発言や態度をどう受け止めればいいのだろう。
僕があまりにも情けなく、子供みたいに泣きじゃくってしまったから、慰めるつもりで言ってくれたのかもしれないが、それにしてもだ。
頭なでなでとか、一人にさせておくのは心配だとか、ほっぺにタッチとか、普通、そんなことを友達に対してするものだろうか。僕がガキだから、深い意味などなくやっているのかもしれないが、だけど、あんなふうにされたら勘違いしてしまう……。
ダメだダメだ。彼の恋愛対象は女性なんだから、うっかりバカなことを口にして、いつかみたいにキモいと言われて、それで関係が終わってしまったら、辛すぎて、生きていけなくなってしまう……。
そんなことを考えながら、僕は少し眠った。
ふと目覚めると、部屋は薄暗くなっていて、灯りの点いたキッチンで立ち働いている彼の姿が見える。とてもいい匂いがしている。
ベッドの上で上体を起こすと、物音に、彼がこちらを向いた。そして、近づいて来ながら言う。
「気分はどう?」
「あぁ、はい。なんとか」
本当は、さっきとあまり変わっていないけれど。彼が、ベッドにかがみ込みながら、僕の顔を覗き込んだ。
あぁもう。きれいな瞳に見つめられて、僕は思わずうつむく。
彼は微笑む。
「本当は、鶏の唐揚げを作る予定だったんだけど、今日の晴臣くんの体調にはヘビーかと思って、クリームシチューに変更したんだよ」
「すいません。でも、すごくいい匂い」
「シチュー好き?」
「はい、大好きです」
「食べられそう?」
「多分……」
「そう。シチューなら、後から温め直して食べられるし、たくさん作ったから、なんなら持って帰ってもらってもいいし」
「うれしい。ありがとうございます」
鶏肉と根菜類がたっぷり入ったクリームシチューも、人参とリンゴのサラダも、とてもおいしかったけれど、やはり体調のせいで、あまり食べられなかった。
デザートのケーキも、彼はせっかくだからと言って、タルトのほうを食べてくれたけれど、僕は遠慮した。
「あーおいしかった、ごちそうさま。このタルト、すごくおいしいから、晴臣くんも後で食べるといいよ」
そう言ってから、彼は僕を見た。
「あのさ」
「……はい」
「思ったんだけど、晴臣くん、今日はこのまま、うちに泊まったら?」
「えっ!?」
「一人暮らしだし、どうしても帰らなきゃならないってわけじゃないだろ? その体調で、これから電車に乗って帰るのは心配だよ」
「でも……」
彼は微笑む。
「遠慮ならいらないよ。僕だって一人暮らしだし、コンビニもドラッグストアもすぐ近くにあるから、必要なものは、後で僕が買って来るよ。
あっ、でも……」
突然何かに気づいたように、彼が、ちらりと部屋の奥を見た。
「なんですか?」
「予備の布団がないんだった」
「あっ……。じゃあ、やっぱり帰ります」
だが、彼は言った。
「もしも君がイヤじゃなければ、一緒にベッドで寝てもいいかな。ちょっと窮屈かもしれないけど、晴臣くん細いし、一応セミダブルだから」
「えっ。そ、それは……」
一つのベッドで、彼と一緒に寝るだとっ!?
「……やっぱりイヤだよね」
「イヤじゃないですイヤじゃないです全然イヤじゃないですっ。でっ、でも、笹垣さんに風邪がうつったら困ります」
すると、彼は笑って言った。
「大丈夫だよ。ウィルス性の風邪ってわけじゃないんだろ?」
「はぁ、寝冷えしたっていうか」
事実とは若干、いや、まったく違うけれど、ウィルスに感染したわけではないのは確かだ。多分。
「それならうつらないさ」
よくわからないが、そういうものなのだろうか? いや、うつるかうつらないかという問題ではなくっ。
だが彼は、すべての問題はクリアしたとばかりに言い放った。
「じゃあそういうことで。パジャマは僕の洗い替えのがあるし、後片付けをしたら、替えのパンツとか靴下とか、風邪薬も買って来るから」
いつの間にか、今夜僕が泊まることが決定事項になっている……。