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第8話 電話

 食事も終わりに近づいた頃、彼がしみじみと言った。


「あー、今日は楽しかったなあ」


「僕も、すごく楽しかったです」


 だが、別れの時間が迫っているのかと思うと、とても切ない。そこで、僕は思い切って切り出した。


「あの……」


「うん?」


「ホントに、すごくすごく楽しかったです。それで、あの……」


「何?」


 彼が優しい目で僕を見ている。


「よかったら、また会ってもらえますか?」


 ネットで知り合った人とのオフ会は、一回きりというのがけっこう多いらしいが、それでは寂しすぎる。出来ることなら、これから先も……。


 彼が言った。


「ぜひ。僕もまた晴臣くんに会いたいな」


「……ホントですか?」


「もちろん。家も近いみたいだから、また食事でも」


「あ……うれしい」


 あまりにうれしくて、ちょっと、いや、かなり泣きそうだ。確実に、今まで生きて来た中で、今が一番幸せだ。


 涙に揺れる視界の向こうで、彼が微笑んでいる。




 食事の後、途中の乗換駅まで、一緒に電車に乗った。運よく空いていた座席に並んで座る。


 夜になり、向かい側の窓のガラスに二人の姿が映っている。会話を交わすことはなかったけれど、僕は、ずっとガラスに映った彼を見つめ続けた。



 やがて、彼が降りる駅に電車が滑り込んだ。彼が立ち上がる。


 あぁ、まだ離れたくない。出口まで送るために、一緒に立ち上がろうとした僕を制して、彼が言った。


「ここでいいよ。今日はホントにありがとう。また連絡するよ」


「はい……」


 またも泣きそうな気持になりながら、僕は彼を見上げる。僕を見る、なんて優しくて素敵な笑顔……。



 ついに電車のドアが開き、もう一度、僕に微笑みかけてから、彼は出口に向かう。


「じゃあまた」


「また……」


 僕は、彼を目で追う。電車を降りるとき、彼はこちらを見て、ちょっと手で合図をしてから、電車の外に消えた。


 ドアが閉まり、僕の気持ちを置き去りにしたまま、電車は動き出す。あぁ、人生で一番素敵な日が終わってしまった。


 「また食事でも」と言ってくれたし、連絡するとも言ってくれたけれど、本当だろうか。本当に、また僕と会ってくれるのだろうか。



 寂しい気持ちになってうなだれていると、ポケットでスマホが震えた。取り出して見ると、彼からメッセージが来ている。


 開くと、「送るの忘れてたよ」という言葉とともに、何枚もの写真が。それは、今日小此木山で撮った写真の数々だった。


 一番初めに神社の前で撮ってもらった僕と、彼とツーショットで撮ってもらった僕は、見るからに緊張してガチガチになっているのがわかる。彼の笑顔はパーフェクトに素敵だけれど。


 中には、いつの間に撮られていたのか、空にスマホを向ける僕の横顔や後ろ姿などもあって、ドキッとした。



 僕もフォルダを開いて、彼を撮った写真を送ることにする。ズームアップで撮ったものは送らないけれど、それ以外のものと、迷いに迷った挙句、彼越しの空の写真も送った。


―― 今日一日の素敵な笹垣さんです。



 彼が送ってくれた写真も、自分で撮ったものも、全部が一生の宝物だ。




 長くてリアルな夢を見ていたような気分でマンションに帰り、シャワーを浴びで、今日撮った空の写真を投稿しようとSNSを開くと、一足先に、彼が今日撮った小此木山の写真を投稿していた。


 それは、帰りにケーブルカーから降りたときに撮っていた、此木神社の写真だ。僕も、頂上から撮った山並み越しの空の写真を何枚か投稿する。


 こういうのって、いわゆる「匂わせ」っていうやつなのではないか。などと思いながら。


 彼の写真に「いいね」する。あえてコメントは書かない。


 だって、それを読んだ人に、一緒に行ったことがわかってしまっては困るから。いや、別に困ることはないけれど、二人だけの大切な秘密にしておきたい、みたいな。


 気持ちを伝えたい気もしたけれど、しつこいと思われたくなかったので、今日のところはそれだけにした。数分後、僕の写真にも、彼が「いいね」してくれた。


 やはりコメントがないのは、僕と同じ気持ちだからだろうか。それとも、まさか僕と一緒に行ったことを、別の意味で知られたくないとか?


 いやいや、彼はそんな人じゃない、はずだ。




 それからの数日、僕は抜け殻のようになって過ごした。掃除と、空写真を撮ることはしていたけれど、たとえて言うなら、祭りの後の寂しさのような。


 頭の中は、相変わらず彼のことでいっぱいで、ずっと連絡が来るのを待っていたけれど、一向に来る気配はないし、自分からは出来ない。


 やっぱり、いろいろ言ってくれたのは社交辞令で、彼はもう、僕のことなんか忘れてしまったのかなあ、などと思っていたのだが。




 水曜日の夕方、突然彼から電話が来た。


「突然ごめんね」


「いえ」


「今日は外回りの後、直帰出来るんだけど、仕事のほうはもう終わって、今、大溝中央駅にいるんだ」


「えっ」


 それは、マンションの最寄り駅から、ほんの一つ先の駅だ。


「急で悪いけど、もし時間があったら、ご飯でもどうかと思って」


「あっ、ありますあります。時間、めっちゃあります」


 驚いたのとうれしいのとで、声のトーンが高くなる。


「じゃあ、これから出て来られる?」


「行きます行きます、すぐ行きます」




 三十分後に駅の改札で待ち合わせることを決めて電話を切ってから、僕はあわてる。


 何を着て行けばいいんだ? 小此木山に行ったときは、前もって新しい服を用意していたけれど、あのときと同じものを着て行くわけにはいかないし……。



 クローゼットを引っ掻き回して、手持ちの服の中では、比較的マシだと思われるものを選び出して、急いで着替える。一応デニムも、この前とは別のものにする。


 こんなんで大丈夫だろうか。ダサくて一緒に歩くのが恥ずかしいと思われたら困るけれど、今はこれしかないのだ。


 洗面台の鏡で服装をチェックしてから、髪も整える。バッチリというわけにはいかないが、今日のところはしかたがない。


 迂闊だった。また会いたいと強く思っていたわりに、次に会うときに何を着て行くかなんてまったく考えていなかった。


 近々、また服を買いに行かなくては。そう思いながら、僕は急いでマンションを出た。




 あぁ……。改札の向こうで、僕を見つけて笑顔になって手を上げた彼を見て、僕の胸がきゅんきゅんしまくる。


 仕事終わりの彼はスーツを着ていて、それがまたスマートで垢ぬけていて、たまらなく素敵なのだ。まったく、どこまで僕の心をわしづかみにするのか。



「晴臣くん」


「あっ、この前はありがとうございました」


「こちらこそ。急に呼び出しちゃってごめんね」


「いえ。電話もらって、すごくうれしかったです」


「それならよかった」


 僕たちは、駅の出口に向かって歩き出す。


「何食べようか。晴臣くん、何が食べたい?」


「えぇと……」


 彼と食べるなら、なんでもうれしいのだが。真剣に考えていると、彼が言った。


「肉と魚、どっちがいい?」


「うーん、肉かな」


「じゃあさ、豚カツなんてどう?」


「あっ、好きです」


「おいしい豚カツ屋があるんだけど、そこはどうかな」


「笹垣さんの行きつけのお店なんですか?」


「行きつけってほどじゃないけど、前に外回りの途中で昼に食べて、おいしかったから」


「そこ、行きたいです!」


「じゃあそうしよう」


 彼がにっこり笑う。ああもうホントに、なんて素敵な笑顔なんだろう。

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