自宅の前に立ち止まったカイは、自然と背後や周囲の気配を探った。
(後方25メートルに徒歩で一人、左15メートルに停まっている車内に二人、右40メートル先のビルの屋上に一人……敵意はない、公安の尾行かな)
気配だけでなく、遠くで砂利を踏む重たい靴音、車内から微かに聞こえる無線の雑音まで、彼の鋭い感覚は捉えていた。空気のわずかな流れから、ビルの屋上にいる人物が体をわずかに動かす気配まで感じ取れる。
カイはダンジョンで戦った時、かつて千年の修練を積んだ記憶が蘇ったことを思い出していた。その修練には、基礎体力づくり以上の何かが含まれていたはずだが、詳細まではまだ思い出せない。
しかし、自分の肉体が常人離れしていることや、集中すれば周囲の音、匂い、空気のわずかな変化さえも把握できるようになていることをハッキリと自覚出来るようになった。
その感覚はドアを開ける前から、母親は不在で、代わりにあの男がリビングにいることも既に感じ取っていた。
「——動物的な勘って、やつなのかな」
リビングに入ると、やはり男がいた。母親の内縁の夫、飯田健司。カイに理不尽な憎悪をぶつけ、厳しく当たり続ける相手だ。
「おい、またこんな遅くまで遊びやがって!」
カイを睨む飯田の顔には憎々しさが滲んでいた。痩せこけた体に不精髭、やや薄汚れたタトゥー入りの腕、黄色く染めた髪といい、半グレそのものの風貌で、まともな大人にはとても見えない。
「ダンジョンに行ってたんだ」
「なにぃ?!お前マジで行ったのか?で?稼げたのか?」
「いや、初めてだったから何も」
「ちっ!使えねぇ。で、お前の等級はなんだった?どうせE級だろ」
「……0級」
「0級?のび太くんかよお前は……で?配信したんだろ?名前は本名で登録したのか?」
「……うん」
言葉を返すと、飯田はスマートフォンでカイの名前を検索し、チャンネルを見つける。
「どれどれ……登録者数は……35万人!?なんだこれ……初めてで35万ってありえないだろ」
彼はアーカイブ映像を見始め、ミカエルを助け、武王を倒した直後で配信が強制終了する場面に固まっていた。驚愕に目を見開き、言葉を失っている飯田にカイは一言、静かに言い放った。
「言われた通り行ったよ」
「あ、あぁ……偉かったな」
「じゃあ、あんたも働けよ、明日から」
「え?」
冷静な表情で見つめ返すカイに、飯田は一瞬、息を飲んでたじろいだ。その視線には、ダンジョンをくぐり抜けて少し自信をつけたカイの冷静さと決意が宿っている。
男は狼狽えながら小声で答える。
「いえ、はい、明日、職安に行きます」
彼は「ちょっと買い物に行く」と言い残し、足早に部屋を去っていった。
カイはリビングのソファに腰を下ろし、自分のチャンネルを見直した。
「35万人か……全然実感が湧かないな」
登録者が急増したのは、リスナーたちがSNSで拡散したからだろう。外見がひ弱な高校生が、S級クラスの化け物を倒すというエンタメ性抜群の光景に、多くの人々が興味を持ったのだ。映像の中の自分を見つめるうちに、カイはようやく現状の自分を実感し始めていた。
そして共に戦ったリサの姿にも目を奪われる。
「リサさん、ほんとに可愛いよな……」
その時、スマホが鳴り、SNSの通知を開くとリサからのメッセージが届いた。
リサは新しい武器の威力を自慢し、カイに感謝を伝えてくれる。そのやり取りはカイの心を温かく包み込んだ。
カイにとって、今回のダンジョンで手に入れた何よりの宝物は「リサとの出会い」だった。
友人のいなかったカイにとって、彼女の存在は何よりも心を満たしてくれるものだ。
そのやり取りが終わると、ふと見慣れない番号からメッセージが届いた。
【君が新しい
驚きながらも、単なるいたずらでないことを直感したカイが窓の外を眺めると、自分そっくりの人影が尾行者を引きつけて走り去っていくのが見えた。
(……どういうことだ?)
その時、再びスマホが振動し通知が来る。
【うまくいったかなー?いまなら誰にもつけられずに話せるからミルコ広場まで来てくれるかい?】
カイは警戒しつつも興味を引かれ、指定された場所に向かった。そこには一人の女性が立っていた。
彼女は赤いジャケットに銀色の長い髪を風に揺らしながら、鋭い視線で周囲を見渡していた。油断なく周囲を確認する目つきに、何かに気を配っている様子が伺える。カイに気づくと、彼女は軽く微笑んだ。
「やっと会えたねぇ……
「そうだけど……あなたは?」
「私は
彼女の目には冷静さと鋭さが光り、並々ならぬ実力を持つ者の自信が見て取れた。
「ところでさぁ……」アヤメは声を低くし、不敵に微笑んだ。
「君が国に飼われるつもりがないなら、いくつか試してみたいことがあるんだけどぉ」
彼女が指を鳴らすと、周囲の地面から短剣が次々と飛び出し、カイを囲むように降り注いだ。
カイは即座に反応し、落ち着いて足元を見回し、軽やかにステップを踏んで短剣をかわしていく。
そして周囲を見渡しながら冷静に告げる。
「他にもしかけた罠があるね。あの上にカメラ、それに動力源も」
アヤメは息を呑み、驚愕と共に目を輝かせた。
「こんなに即座に見破るとは……君、相当面白いわぁ!」
カイは戸惑いながらも、彼女に興味を抱き始める。
「……で、何のためにこんなことを?」
「君はまだ知らないかもしれないけど、ダンジョンはエンタメや冒険の場所じゃないんだぁ。そこには深い意思が存在しているの……あなたも感じたでしょお?カイ君」
「ダンジョンに意思があるって……噂のこと?」
アヤメは真剣にうなずきつつ、「君が見たものは、ほんの一部に過ぎない……」と低く付け加えた。
その言葉に、カイは背筋がゾクッとするような緊張を覚えた。
その時、アヤメの視線が急にカイの後方に向かう。カイも気配を察して振り返ったが、遠くにいくつかの黒い影が見え隠れしている。
「悪いけどぉ、今日はここまで。また今度話そうねぇ、カイ君」
アヤメは軽くウインクをすると、黒い影と逆方向に向かって素早く姿を消した。彼女の消えた方向には、尾行者らしき黒い影が続いていく。
カイはその様子を見送り、思わずつぶやいた。
(なんか、大きなことに巻き込まれつつある……気がするだけど)
アヤメの存在、そしてダンジョンの「本当の姿」への興味と不安が入り混じる中で、カイは静かに帰路に就いた。