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第3話:神の試練を終えし者

 広大な空間に、カイは静かに立っていた。


 ここまで歩んできた途方もない年月―― 一万二千年・十二界。


 ……人として生まれたはずの自分が、神々の領域へ達するため、無数の試練を乗り越えてたどり着いた、最後の場所。


 周囲には微かな光が揺れ、彼を導くように集まっては消え、また現れている。その光が彼の内面に呼応し、今やカイは自らの心と宇宙が一体化したような感覚を得ていた。


(これが、悟りというものか……)


 思えば一界ごとに、限界の先を要求され、力も精神も幾度と砕け散り、絶望を知り尽くした。そしてそのたびに「ここから絶対に出る」と再び自らの肉体と精神を繋ぎ止め、立ち上がってきた。


 その過程で恐れや迷いを超え、心は既に人間としての自覚はなかった。


「ついに……終わるのか」


 自身の呟きが広い空間に吸い込まれていく。果てしない孤独に耐え、幾多の世界の知恵と万物の力を手にしてきたが、今も胸に残るのは、静かな高揚と、深い、深い静寂だけだった。


 この空間には、最初から誰も存在しない。神の試練の全てを終えた自分を、見届ける者もいなければ、もはや試されることもない。


 自分自身だけがここにいる――そんな感覚が、魂の奥底からこみ上げる。


 すると、彼の頭にいつか聞いたあの冷ややかな声が、悠久の時を越え、再び響いた。


『よくぞここまで来た。君は、神としての資格を得た』


 たったその一言を聞いた瞬間、カイの胸にすさまじい達成感が満ちた。人間だった頃の記憶も、抱いていたであろう夢や希望すら遥か彼方へと消え去るほどの長い年月を越え、ついに修練を成し遂げたのだ。


「……人類で最もストレス耐性があったというのも今なら頷けるな」


 自分がこれまでに辿った年月を振り返ろうとするが、あまりに膨大な時間が重なり合った途方もないレイヤーが続いている。


 自分の見た目はまったく変化していないが、数々の試練を超え、肉体も精神も人間を超えたことは確かだった。


『では君を地上に送り返そう。しかし……』


声が続ける。カイは、静かに次の言葉を待つ。


『君が今のまま地上に戻れば、突如神が降臨したことを人間たちが驚き、恐怖し、世界がパニックに陥る危険性がある』


「……確かに」


 カイは、今の自分がどれだけの影響力を持つのかを理解していた。これほどの能力を自覚したまま元の世界に戻ったとしたら、世界が混乱するというのは容易に想像できる。


『よって、ここでの記憶は封じることにする。ただし、修行で得た力はすべて維持される』


「記憶は封じるけど、力は残す……と?」


『そうだ。そして、状況に応じて君は、自らが何者であるかを徐々に思い出していくことになる。その過程で世界も君の力に順応していくだろう』


 そう告げられた瞬間、空間がゆっくりと変化し始め、彼の視界は白い光に包まれていく。その光は穏やかで、すべてを包み込み、あらゆる存在の根源に触れるような温かさを帯びていた。


 その光の中で、カイは「人間」という存在がもはや遠い記憶のように感じられ、彼自身が果てしない生命の流れと一つになっていることを悟る。己が世界の一部であり、世界そのものであるという感覚。すべての命と共鳴し、神の心を宿す者として、これから自分が何を為すべきかが、自然と浮かび上がってきたが、同時に全てを忘れていく感覚に包まれた。


『では、行くがいい――新たな神の資格者よ』


 戻った先には、自分の帰りを待つ者たちがいるだろう。彼らはこの世界に何を求め、どんな救いを願っているのだろうか。



 ——気づくと、カイは古びた学校の部室に立っていた。頭が少しぼんやりしている。


 たしか異世界のような場所に行ったはずだが、そこで何があったのか、思い出そうとするが何も浮かんでこない。ただ、ぼんやりとした疲労感だけが残っていた。


(わからないが、何かとてつもなく長い時間だったような気もする)


「おい、佐藤!」


 突然の声に、カイはビクリと反応した。振り返ると、そこには不良グループが立っていた。クラスのいじめっ子たちで、リーダー格の石田がニヤニヤしながらこちらを睨んでいる。


「何だよお前、スマホもなくして、たった数秒で戻ってくるとか、ふざけてんのか?」


「肝試しやれって言ったよなぁ? 配信もしてねぇじゃねぇかよ、佐藤ぉ」


 取り巻きたちが次々と口々に責め立てる。彼らは配信のためにスマホを持たせてカイを部室に放り込んだのだが、彼がすぐに戻ってきた上、スマホをなくしてしまったことに苛立っているようだった。


 カイは状況がまったく理解できず、ただ呆然と立ち尽くしていた。いじめっ子たちが周囲を取り囲み、じわじわと距離を詰めてくる。


「おい佐藤、お前さあ……何か言うこと、あんだろ?」


 石田が凶悪な笑みを浮かべ、カイの肩を乱暴に掴む。その瞬間、カイは体がガチガチに緊張し、恐怖に息を呑んだ。過去に何度もやられてきた「いじめの始まり」だ。反撃できるわけもなく、また何をされるのかもわからないまま、ただ耐えるしかない。


「配信できねぇんだったら、俺たちのストレス発散くらいは付き合えよ!」


 そう言って石田が拳を握り、カイの顔面に振り下ろした。カイは思わず目を閉じ、強烈な痛みが来るのを覚悟した――しかし。


「……あ゛っ!?」


 悲鳴を上げたのは石田だった。拳がカイに触れた瞬間、彼の顔が苦痛に歪み、その手を引っ込める。握りしめた拳をさすりながら、石田は驚きと苛立ちが混じった表情を浮かべた。


「な、何だよこれ……おい、お前、何かやったのか?」


 カイはただ呆然と石田を見返す。何もしていない。ただ、殴られるつもりで目を閉じていただけなのだ。


「くっそ、ふざけやがって……!」


 取り巻きも参加し、いつものようにカイを殴る蹴るしようとしたが、誰もが彼に触れた瞬間、まるで火傷をしたかのように悲鳴を上げ、各々が驚愕した表情を浮かべている。


「おい、どうなってんだよこいつ……」

「なんで俺らが痛ぇんだよ!?」


「……なぁ、お前、何かやってんのか?」


 石田が険しい顔でカイを睨む。だがカイはただ頭を振るだけで、何もわからない。むしろ、殴られた感触すらなく、どうして自分が平気なのか理解できなかった。


「くそっ、使えねぇし、気味悪ぃし……」


 いじめっ子たちが徐々に後ずさりし始め、カイに対して触れないように距離を取るようになっていく。彼らの表情から、苛立ちが恐怖に変わっているのがわかる。


「……今日はこれくらいで勘弁してやるよ」


 石田が吐き捨てるように言い、取り巻きたちを引き連れて部室から出て行った。カイは部室のドアが閉まる音を聞きながら、ただ呆然とその場に立ち尽くした。


 自分に触れた人間が、何もしていないのに苦しむ――。カイは、これまでの「普通の自分」では到底説明がつかないことが起きているのを感じていた。


 リンチを受けるどころか、逆にいじめっ子たちが怯えたように去って行く様子に、不思議な感覚がこみ上げてきた。


「……一体、どうなってるんだ」


 そう呟いて、カイは自分の両手を見下ろした。


 ——何かが変だ、ボクはいったい、どうなってしまったんだ。

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