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最終章『さらば江戸城』

翌日、天璋院と本寿院が大奥を去る日がやってきた。

廊下を歩いていた瀧山は、そのまま本寿院のもとへ向かった。

本寿院は、法好院の介添えを受けながら、支度されていた駕籠の中へ入った。傍らには、見送りに来ている瀧山が控えていた。

「瀧山」

「はい」

すると本寿院は、細々とした声で、

「まさか大奥が無くなるなど、思うても見なかった。そなたは、筆頭御年寄として、大奥の最期を見届けるのじゃ」

「無論にございます」

いつでも動じぬ瀧山の姿を見て、本寿院は涙を堪えながら、

「最後まで、そなたは芯の強いおなごじゃな」

「……」

「瀧山様、長い間、お世話になりました……」

法好院は三つ指を立てて、瀧山に挨拶を述べた。

「法好院様こそ、乳母として亡き家定公を幼き頃よりお育てになられ、今日に至るまで徳川に仕えていただきました。上臈御年寄として、本寿院様や家定公を影ながらお支えにもなって……」

「これからも、本寿院様のことは私にお任せくださりませ」

大きく頷いた瀧山は、本寿院に向かって諭すように、

「本寿院様、天璋院様と嫁姑、くれぐれも仲良くなさいますように」

「分かっておる」

本寿院は一言呟いた。

「お元気で……」

「そなたもな……」

そんな二人の様子を見ながらも、法好院はためらいながら駕籠を閉めた。

やがて法好院を先頭に、本寿院を乗せた駕籠が去っていき、瀧山は深々と平伏して見送った。


その後、瀧山は天璋院の部屋を訪れた。すると瀧山は、目の前の光景に驚いた。

「これは……」

部屋中には、天璋院が着用した何枚もの打掛が一つひとつ衣桁に掛けられており、家財道具もまた丁寧に並べられていたのだ。そこへ、天璋院が入ってきた。

「瀧山か」

「天璋院様、これは……」

「城を明け渡すのじゃ。大奥で使っていたものは、全てここに残していこうと思うてな。それに、薩長軍がこの部屋を見たとき、大奥がいかに徳川の権威において要とも言えるところであったかを、見せつけてやりたいのじゃ」

「左様でございましたか」

「なあ……瀧山」

「……?」

「そなたとまた会える日は、来るであろうか。今日が、今生の別れになるような気がしてならぬ……」

天璋院はしみじみとそう呟いた。

「必ずまた、会える日が来ましょう」

瀧山は優しく微笑んで答えた。

「そうだと良いが……」

すると瀧山は着座して、改まったように三つ指を立てると、

「天璋院様。私が、本日まで筆頭御年寄の職を全うできたのは、他の誰でもなく、天璋院様のおかげと思うております。このご恩は、決して一生忘れませぬ」

「瀧山……」

「私は、あなた様のお側でお仕えでき、こうして最後を見送ることができるのは、何よりの誉と思うております」

「……」

「誠に、ありがとう存じました……」

瀧山は深々と頭を下げた。

「……」

「どうかこれからも、徳川家をお守りくださいませ」

瀧山はもう一度頭を上げると、天璋院も目線を合わせるように着座し、

「言うに及ばずじゃ。私とて、まだやらねばならぬことは、たくさんあると思うておる。これからの徳川家は、私が守ってまいる」

「天璋院様……」

「そなたは、これからどうするのじゃ?」

「部屋子の仲野を養子に致し、仲野の故郷の伝手を頼ろうかと」

「そうか……新たな道を開いたのじゃな」

「はい……」

そこへ、幾島が入ってきた。

「天璋院様、お駕籠の支度が整いましてございます」

「すぐに参る」

「幾島殿、天璋院様のこと、何卒よしなに……」

瀧山にそう言われると、幾島は目を細くして、

「心得ております」

瀧山は大きく頷いた。


江戸城の平川門では、幾島を先頭にし、天璋院を乗せた駕籠の一行が進んでいった。すると突然、駕籠の中から、

「止めてくれぬか」

と、天璋院の声がし、列が止まった。幾島は駆け寄って、駕籠を開けた。

「天璋院様、如何なされました?」

「最後に、城を見ておきたくてな」

「……」

天璋院と幾島は、その場から見える江戸城の外観を見上げるように眺めた。二人の目には、涙が浮かんでいる。

「さらばじゃ……」

天璋院は、いつまでも城を眺めていた。

四月十日。天璋院と本寿院は、御三卿の一つである一橋家の屋敷に移り住んだ。本寿院は、天璋院と実成院と共に、いくつかの屋敷を渡った後、明治十年、千駄ヶ谷邸に移り、明治十六年に七十九歳の生涯を閉じるまで、悠々自適な老後を過ごした。天璋院は、元号が明治となってから、徳川家十六代当主となった家達の養育に尽力し、徳川家を支えていった。そして明治十六年、千駄ヶ谷邸で四十九歳の波乱の生涯に幕を閉じたのであった。


天璋院と本寿院が去ったこの日は、梅原も大奥を去る日であった。

瀧山の部屋には、宿下がりの支度をした梅原が最後の挨拶に来ていた。染嶋と仲野が、側に控えている。

「本日まで瀧山様にお仕えできたこと、梅原生涯の誉と致します」

「よう仕えてくれた。これからは、呉服問屋を切り盛りしていくのじゃ。いずれそなたが女将になる日も来るであろう。商人としての新しい道を歩むのじゃ」

だが梅原は、名残惜しそうに、

「最後まで……大奥を見届けるまでお仕えできぬことが、何より悔しゅうございます」

「最後は、私どもに任せるのじゃ」

「そうですよ、梅原殿」

染嶋と仲野がそれぞれ言ったが、梅原は複雑だった。

「……」

「そなたは、まだ若い。妻となり、母となり、これからおなごとしての幸せを感じるよう生きてほしい。そなたが幸せになってさえくれば、私も安堵できる」

「瀧山様……」

「そなたの人生、まだまだ長いであろう。私は、もはや過去の人になる。前を見て、これから来る新しい時代を生きてほしい」

「瀧山様ッ……瀧山様……」

梅原は長年尽くしてきた主人に勢いよく抱き着き、涙を流した。それはまさに、激しい慟哭であった。

「梅原……」

瀧山の目にも涙が浮かび、染嶋と仲野ももらい泣きをしている。


梅原が去っていった後、瀧山は染嶋と仲野を従えて長局を訪れた。

かつて大奥に勤めていた女中たちが、日常生活を送る場所であった長局だったが、全ての女中が去っていった今、そこには荷物一つなく、広々としていた。

「長局が、このように静かになるなど、思いもかけませんでした」

染嶋は部屋を眺めながらそう呟いた。

「女中たちの住まいであったからの、この長局は」

「このような様を見ると、大奥が無くなることを思い知らされますな……」

仲野も物珍しそうに部屋を眺めていた。

「そうじゃな……」

そこへ、足音が聞こえ、瀧山たちは振り返った。やってきたの初老の女中は、御祐筆の竹川であった。

「竹川……」

竹川は三つ指を立てると、

「お言いつけの通り、大奥日記全て、焼き払いましてございます」

「ご苦労であった」

「誠、よろしかったのでございましょうか。大奥の記録全てを処分致すなど」

竹川は訝しそうに尋ねた。

「大奥は無くなるのじゃ。大奥の故事をしたためたものなど、もはや残す必要もないであろう」

「左様でございますな」

「竹川、そなたはこれからどうするのじゃ?」

「長いこと、大奥で起こりしことを記録する御祐筆を務めておりました故、子どもたちが書を習える場を拵えようかと」

「書の師範になると言うことか」

「はい」

「それは良きお考えかと」

「ぜひ習うてみたいものでございます」

染嶋と仲野も続けてそう言った。

「では、私もこれにて」

微笑んだ竹川は、そう言うと平伏して去っていった。瀧山、染嶋、仲野は竹川の姿を見送った。


呉服問屋『富橋屋』の店では、建右衛門、おあつ、五助、その他手代や女中たちが、いつものように働いていた。大奥を去った梅原が、実家へ戻ってきたのはその時だった。

誰よりも早く梅原が戻ってきたことに気づいた五助は、思わず驚いて、

「お嬢さんッ……」

その声に一同は梅原のほうを振り向いた。

「ただいま、帰りました……」

「おうめ……」

建右衛門は驚いていた。おあつは、駆け寄って抱きしめると、

「よく戻って来た……何事もないか……?」

「城明け渡しとなって、私も御役御免になって……」

「それで良いんだ。お前は、この富橋屋の跡取り娘なんだから。無事なら、何よりだ……」

「お父つぁん……」

「さ、あんたも喜八さん手伝っておいでよ」

おあつがそう言うと、梅原は周囲を見渡して、

「そういえば、喜八さんは?」

「手伝いに行かしたんだよ。和泉屋さんの立て直しの」

「和泉屋さんって、あの両替商の」

「喜八に会いてえんだろ」

建右衛門にそう言われた梅原は、少し考えると、五助に対して、

「……五助、案内しておくれッ」

「へいッ、喜んで」

梅原は、五助と共に元気に飛び出していった。両親は、お互いの顔を見ながら微笑んだ。


両替処『和泉屋』の店では、権太夫が壊れた道具を片づけており、建右衛門から遣いとして出された喜八が手伝っていた。また、正吉と長兵衛は、額に鉢巻を巻いて室内の修繕に追われていた。

「大旦那、大事ございませぬか」

喜八が心配そうに声をかけると、

「これぐらいの、大したことない」

と、権太夫は平気そうに言っていたが、険しい顔で腰を押さえ始めた。

「少し休まれては?」

「大丈夫じゃ」

そこへ、五助に案内された梅原が入ってきた。その姿を見て、喜八は驚いたように、

「お嬢さん……」

「これからは、富橋屋の娘として生きていきます。喜八さん、私をずっと生涯かけて……支えてくれませんか。私と夫婦になってください」

「当たり前ですよ……。俺は、初めからそのつもりで……」

「喜八さん……」

梅原と喜八は、強く抱き合った。五助、権太夫、正吉、長兵衛は唖然顔でその様子を見ていた。すると奥から、おさと、鶴岡、おはるが崩れた箪笥を運んできた。

「大旦那様、これはここに置いておきます……」

と、おさとは梅原と喜八の姿を見て、同じように唖然となると、

「どういうことだい、これは……」

我に返った梅原と喜八は、慌てて体を離した。

「お見苦しいところをお見せしました……」

梅原が慌ててそう言うと、鶴岡が怪訝そうに、

「梅原殿……?」

「鶴岡様ッ……」

梅原は思わず声を上げた。

「おみねさん、お知り合いかい?」

おさとが鶴岡に尋ねると、

「梅原殿は、大奥筆頭御年寄の瀧山様にお仕えしていた部屋子だったのです」

梅原も不思議そうな顔で、鶴岡に対して、

「どうして、鶴岡様がここへ……」

「これからは、大工長兵衛の女房・おみねとして生きる道を選んだのです。娘のおはるも、こんなに大きくなって……」

梅原は長兵衛とおはるを見ると、しみじみと、

「夫と子がおいでになるとは聞いてはおりましたが、この人たちが……」

「ええ」

「帰る当てがあるというのは、この事だったのですね。鶴岡様も、お幸せそうで良うございました」

するとおはるは、不思議そうに母親に向かって、

「鶴岡って、おっかさんのこと?」

梅原はおはるに目線を合わせると説明をした。

「そうだよ。鶴岡様は、大奥で御客応答っていう役をされていたの」

「その、御客応答っていうのは、どういうお役目なのです?」

長兵衛が尋ねると、梅原は続けて、

「諸大名のお使者や、大奥に泊まられる際の上様への接待役を担うております。瀧山様も、鶴岡様の才覚を買っておられました」

そんな梅原の説明を聞いたおさとは、驚いたように、

「おみねさん、あんたそんな偉いお役職だったのかい」

「御客応答鶴岡は、もうこの世にはいないのです。今の私は、おみねでございます」

苦笑して鶴岡は、そう答えた。

「鶴岡様……」

「おみねとお呼びください」

鶴岡は微笑んで言うと、梅原は言いなれないように、

「おみねさん……」

「梅原殿は、何とお呼びすれば?」

「おうめと、呼んでいただければ」

「では、おうめちゃん」

「何だか、恥ずかしゅうございますね」

鶴岡と梅原は笑い合った。そんな二人を見て、正吉と権太夫は嬉しそうに、

「これぞ、新しい門出って奴だな」

「同じ大奥に勤めていた者同士が、うちの立て直しの中で会えたのも、何かの縁というものじゃな」

正吉は改まったように声を張って、

「よし、日が暮れるまで、もうひと踏ん張りやるか」

「はいよ、お前さん」

と、おさとも声を張って答えた。

「おうめちゃん、手伝って」

「はい、おみねさん」

と、梅原と鶴岡は未だ慣れない名前で呼び合うと、道具を運ぶために、おさと、おはると共に奥へ行った。権太夫、喜八、五助、長兵衛、正吉は、そんな様子を微笑ましく見ていた。


その夜、江戸城大奥の瀧山の部屋では、瀧山が一人、茶を飲みながら夜空を眺めていた。そこへ、染嶋がやってきた。

「最後の夜にございますな」

「そうじゃな……」

「大奥最後の夜……そのような日が来るなど、思うてもおりませんでした」

「染嶋……」

「はい?」

すると瀧山は、深呼吸をして足を崩すと、

「せめて今晩だけでも、叔母上と呼んでもよろしゅうございましょうか」

染嶋は笑って、

「ならば私も、姪のおたきと呼べば良いか」

「はい……」

叔母と姪の顔になった二人は、これまでの緊張が全て溶けたように、肩を並べていた。

「おたき、そなたは私にとって、自慢の姪子じゃ。この情勢の中、よくぞこの大奥を守り抜いた。そなたが筆頭御年寄でなければ、どうなっていたか……。私は、そなたを誇りに思う」

「叔母上……。私のお側に、ずっと仕え、見守って頂いたからこそ、筆頭御年寄が全うできたのでございます。叔母上だけではございませぬ。亡き村瀬、そして仲野や梅原。お付きの中臈や部屋子を始め、天璋院様や静寛院様、この大奥のおなごたちがいたからこそ、今の私がいるのです」

「そうじゃな……」

すると、そこへ仲野がやってきた。その後ろには、天璋院付き中臈の一人であるませもいた。

「こちらにおいででしたか」

「お二人で何を話されていたのです?」

瀧山は驚いたように、ませを見ると、

「ませ……そういえば、天璋院様の一行の中に、そなたいなかったな」

「天璋院様からのご命を受けたのです。大奥最後の日は、叔母である瀧山の側にいるようにと」

瀧山は苦笑して、

「天璋院様らしい、お心遣いじゃな」

「では、そなたは明日、天璋院様の元に戻るのか」

「はい」

染嶋が尋ねると、ませは大きく頷いた。

「姪であるそなたが、天璋院様のお側にいてくれるのは、何より心強い」

「天璋院様のことは、このませにお任せください、叔母上」

「初めてかもしれぬの、この三代の親類が揃うのは」

染嶋は瀧山とませを見て、しんみりと呟いた。

「左様にございますな」

と、瀧山は頷くと、仲野を見て、

「それに、養子となった娘もおります故」

「私は、瀧山様を何とお呼びすればよろしいのでしょうか」

仲野が不思議そうに尋ねると、横から染嶋が、

「母上……で良いのではないか?」

「そうじゃな……。母上で良い」

瀧山にそう言われ、仲野は慣れないように瀧山に向かって、

「母上様……」

「慣れるまで時間がかかるやもしれぬ」

と、瀧山は言ったが、染嶋は微笑みながら、

「いや、すぐに慣れるであろう」

大奥に最後まで残り、親戚として顔を揃えた瀧山、染嶋、仲野、ませは笑い合っていた。この日が、大奥にとって最後の夜となった。


そして、翌、四月十一日。城を明け渡す日がやってきた。

ませが天璋院の元へ戻っていき、叔母である染嶋と養女となった仲野と共に残った瀧山は、二人を後ろに控えて、御鈴廊下を歩いていた。

御錠口の前まで来ると、瀧山は自ら錠を開け、両側から染嶋と仲野が襖を開けた。三人は、廊下に続く中奥に足を踏み入れた。

瀧山はもう一度振り返ると、

「さらばじゃ、大奥……」

と、呟いて、自らの手で襖を閉めた。これが、瀧山にとって大奥との今生の別れとなったのだ。

瀧山たちが大奥を去った後、入れ替わるように、薩長軍が江戸城入りを果たした。

海江田を中心とした薩長軍が入ってくると、次々に乱暴に襖を開けていった。

途中、天璋院の部屋の襖を開けると、海江田たちは鮮やかに飾られている打掛や家財道具を見て、呆然となっていた。


江戸城を去っていった瀧山、染嶋、仲野は、その足で墓地を訪れ、村瀬の墓参りに来ていた。

「村瀬。そなたが生きていたら、どうなっていたであろうか……。そなたのことは忘れぬ。安らかに、ゆっくり休むのじゃ」

そこへ、一人の若き僧侶がやってきた。僧侶は瀧山に気づくと、一礼をした。

瀧山はその僧侶とは初対面であったが、すぐに誰か分かった。

「そなた。もしや、市村富十郎殿か……」

「はい。今は剃髪いたしまして、妙斎みょうさいと名乗りまする」

「左様か……」

「瀧山様。私に生きるようにと、ご赦免頂きましたこと、決して忘れませぬ。助けて頂いたこの命、村瀬様とお腹の子の分まで、生きようと思います……」

「私たちは、本日をもって江戸を立つ。村瀬のこと、頼みます」

「はい……」

瀧山、染嶋、仲野は去っていき、富十郎は深々と頭を下げて見送った。


旅の道中を、瀧山、染嶋、仲野は歩いていた。

川口宿かわぐちやどまで、まだ大分あるの」

「旅の道は、まだ長うございますよ、母上様」

「この婆の命が持つかの」

染嶋は小さな歩幅を瀧山や仲野に合わせながら呟いた。

「叔母上、何を仰います」

「川口宿に着きましたら、しばらくゆっくりお休みください。今日に至るまで、大奥のために尽くしてこられたのですから」

一人若い仲野は元気そうに足を進めるつもりでいた。

「そうじゃな」

と、瀧山は娘を見守る母のような顔で仲野を見た。

「休むことも、お役目の一つであることを忘れておった。なあ、おたき」

「はい」

「この先に、茶屋があります。そこで少し、骨休み致しましょう」

「そうじゃの、おきぬ」

仲野は少し先を進んでいたが、足を止めて踵を返した。

「え……?」

「そなたの元の名であろう。叔母上はおけい、私はおたき、そなたはおきぬ。これからは、その名で新しく生きることに致しましょう」

瀧山がそう言うと、染嶋と仲野は元気な声で、

「そうじゃな」

「はいッ……」

瀧山は笑顔で頷いた。旅の道中を、瀧山、染嶋、仲野はいつまでも歩いていった。

こうして、江戸幕府二百六十年の歴史は幕を閉じたのである。大奥最後の筆頭御年寄であった瀧山は、部屋子の仲野を養子とし、仲野の生家がある現在の埼玉県川口市で、その余生を過ごしたと言われている。仲野が後に婿養子を迎えたことで、瀧山の名字を名乗らせ、瀧山家という新たな家を作った。そして、叔母の染嶋が亡くなった僅か一年後の明治九年、瀧山は後を追うように七十一歳の生涯を終えた。人生を徳川に捧げ、千人とも言われる大奥の頭に君臨した瀧山の人生は、決して平坦なものではなかったが、大奥の最期を見届けた瀧山は、まさに大奥の鑑であり、その功績は、後の時代にも語り継がれているのである。

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