家に帰ると、夜の九時。まあまだ健全な時間に帰って来られた。リビングの灯りがついているのが、なんだかほっとした。少なからず、灯り一つない空き家街という空間が不安だったのだろう。
ふう、と吐息を一つ。鍵を開け、がちゃりと扉を開き、ただいま、という。
するとリビングから母が飛び出してきて、臆面もなくぎゅう、と胸に押し当てて抱きしめた。息ができないのでギブアップのサインに何回か母の腕を叩くが、おそらく全く気づいていない。
「健ちゃんおかえりなさいー。お母さんずっと待ってたわよ~」
「むぐっもごっ!」
「離してほしいー? だーめ! 健ちゃん遅いからお母さん寂しかったんですー。健ちゃん成分補填しないと」
健ちゃん成分とは一体何なのか。とりあえず離してほしいことをわかっているなら離してほしい。一応杉原もお年頃なので、恥ずかしくもあるのだ。
「程々にしなさい」
「えー、
「
「はぁい」
父の説得により、母から解放される杉原。もう少しで窒息していたかもしれない。
ふう、と呼吸を整えると、改めて二人に向き直る。
「ただいま」
父と母は揃って微笑んだ。
「おかえりなさい」
自分が出かけてからの話を聞きながら、母が作っておいたシチューの香りを味わう。鶏肉のくどくない油の香りに野菜の甘い香りが混ざり合って、温かさを感じる。
杉原が行った後、すぐに舞桜は帰ったらしい。寮の門限があると言っていたが、やはり妹のことが心配だったのだろう、と父は語った。
「そういえば美桜ちゃんはどうしているかしら? きっと美人さんになっているわよねー。中学は別校舎だから会えなかったけど、あの兄妹は本当にそっくり」
シチューを温めながら呑気に語る母にとても「美桜は魔法花に侵されて顔の左半分が潰れている」などとは言えなかった。
両親は杏也の件を知ってはいるものの、実際に杏也が魔法花に侵されてから会わせたことはなかった。知る必要はない、と杉原が会わせなかったのだ。
肌に木の根が張り巡らされ、表情もろくに動かせなくなっていく姿など、知らなくていいのだ。杉原は、知りたくなかった。
「でも、健ちゃんが寮に入りたいとか言わなくてよかったわ~。健ちゃんに一日会えないだけでお母さん寂しくて死んじゃうかもしれないもの~」
「父さんがいるでしょ」
「お父さんとラブラブするのもいいけどね~」
できればそのラブラブするというのは息子のいないときにやってほしい。
「総一さんは普通にお仕事あるから。昼間は寂しいのよね」
「それは仕方ないじゃん」
「わかってるわよぉ~。だからこそみんな揃う夜の時間を大事にしたいんじゃない」
なるほどな、と杉原は納得する。
母は家族の前ではこうだし、息子が関わるところでは親バカ全開の馬鹿にしか見えないが、炊事洗濯掃除など、家事を全般こなす主婦である。その料理は絶品で、父が「君の味噌汁が飲みたい」などと古風な告白をしたのも頷けるというもの。
一人で賑やかになっていそうな母だが、ご近所さんから聞いたところによると、昼間は静からしい。洗濯やら掃除やらの物音しかしないとか。
杉原にはとてもこの母が静かにしているところなど想像はできないが、おそらくそれは話し相手がいないからだろう。家に他の誰もいない寂しさを紛らすために家事を一所懸命やっているのだとしたら、過剰なまでの愛情を注がれることにも納得はいく。
あまり、心配をかけないようにしたいな、とは思う。父と母を親バカだとは思うが疎ましく思ったことはないのだ。それに多少賑やかな方が杉原も好きだ。
「はい、シチュー温まったわよ」
「わーい」
「うふふ、健ちゃん可愛いー」
母が皿に盛りつけたシチューを持ってくる。その香り、家庭の匂いとも言えようそれに、杉原の頬も自然に緩む。
緑のブロッコリー、オレンジの人参、黄色っぽいじゃがいも。彩り豊かな野菜たちをホワイトソースが柔らかく包んで光沢を出している。
「いただきます」
「熱いからちゃんとふーふーするのよ?」
「お母さんは僕を何歳だと思ってるの」
適度に冷ましてから口に含む。鶏の旨味と野菜から出た出汁が感じられる。やっぱり母の手料理とは美味しいものだ。
そんな何気ない日常の幸福に包まれながらふと思う。
禊と実はこういう温かい料理、しばらく口にしていないんだろうなぁ、と。
各地を転々としているらしいし、水道もガスも電気も通っていない空き家で暮らしているそうだから、なかなかこういう温かい料理は食べられないだろう。
逃亡生活というのも大変そうだなぁ、と思った。そもそもまともな食事を摂っているのかも不安だ。
まあ、今日知り合ったばかりの他者を心配しても仕方ない。入学式は済んだのだし、明日から本格的に高校生活が始まる。気を引き締めていこう、と杉原はシチューを食べ進めた。
朝。自室のカーテンが防いでも尚主張が強く注いでくる日光……に起こされるほど杉原は朝に弱くない。
鏡の前に立って、一応制服に付属しているネクタイを調整していた。緑色のネクタイで、ピンには楓の形を象った魔法科高校の校章がついている。
「健ちゃーん、朝ごはんできたわよー」
階下からの母の声。杉原は今行く、と返事を返した。
学校指定の青紫のカーディガンを羽織り、鞄を持ってリビングへ急ぐ。
トーストに目玉焼き。こんがり焼かれたベーコン。簡素なコンソメスープ。杉原家の朝食洋風バージョンである。特徴的なのは目玉焼きがサニーサイドといって、焼き上がりの黄身の色が鮮やかなオレンジ色に仕上げられているところである。
席に着けば、父が既にスーツに身を包んでもさもさとトーストをかじっていた。
「おはよう、お父さん」
「おはよう」
「あらー、健ちゃんネクタイ曲がってるわよ」
「え、嘘」
ちゃんと直してきたんだけどなー、と首を傾げながら目玉焼きを乗せたトーストにかぶりつく杉原。半熟な焼き加減で黄身がとろりと垂れるか垂れないかくらいのところがちょうどいい。毎度毎度、このクオリティで仕上げる母には脱帽である。
玉ねぎによって旨味が割り増しになっているコンソメスープがなかなか後を引く味だ。母がキャベツのコールスローサラダを持ってきたので、それも口に含む。マヨネーズで和えているだけなのにマヨネーズの油っぽさとかがしつこくないのはどういうことだろう、といつも通りの疑問を抱いた。ちなみに母に聞いたところ、「お母さんの愛情よ」と語尾に音符がつく勢いで答えられたので、真相には辿り着いていない。
先に父が立ち、仕事に出ていく。それを見送って母が戻ってくる頃に、健は食べ終えた。
「ごちそうさまでした。じゃあ、いってきます」
鞄を引っ提げて、杉原も学校に向かった。
校門を潜ると、寮の方から出てきた舞桜と遭遇する。
「よ、おはよう」
「おはよう、舞桜さん」
ぽん、と頭を撫でられる。小学生の頃にもやられていた。習慣だった久しぶりのそれに感慨を覚えつつも、舞桜より頭一つ分小さい自分の背丈が気になる。早寝早起き朝ごはん、規則正しい生活を送っているはずなのだが。
あら、と後ろから声がして振り向くと、姫川がいた。
「仲がよろしいんですのね」
「幼なじみみたいな感じだからな。ってか健、ネクタイ曲がってるぞ」
あ、直してなかった、と思ったが、舞桜がささっと直してしまう。自分でやってわからなかったのだから、他者にやってもらう方が早いのかもしれない。
「あ、女子のリボンも可愛いね。あんまりしてる人見ないけど」
「あら、ありがとうございます。まあ、ネクタイやリボンは強制じゃありませんからね。それに、魔法花の侵食は首から始まりやすいというのが通説ですから」
「ふふ、姫川さん可愛い」
にこっと笑顔を向ける杉原。杉原からの言葉に虚を衝かれる姫川。そんな間に挟まれた舞桜はこつん、と杉原の額を弾く。
「お前なー、駄目だぞー、可愛いの安売りすんの」
「別に安売りしてませんよ。姫川さん可愛いじゃないですか。舞桜さんもそう思いません?」
「否定はしないが……可愛いというよりは綺麗というか、美人というか」
二人の男子から褒め倒され、褒められ慣れていないのか、頬を赤らめた姫川がそそくさとその場を去る。
「朝から女子を口説くとは、二人共なかなかやるな」
「何のことだ? 紅葉寺」
「無自覚ですのね……恐ろしい」
更にはその現場を見ていたらしい明葉と玲奈が現れる。茶化されているようだが、男子二人は何のことやらさっぱりわかっていない。
「さてと、では今度は私が口説く番だな。杉原健」
「なんですか?」
「昼休み、話がある。生徒会室で待っているぞ」
「……忘れなければ」
端から見るとなかなかなやりとりなのだが、杉原と明葉の間に流れる空気は素っ気ないものだった。
「口説くと言った割には色気のないお誘いだったな」
舞桜が余計としか思えない一言で締めくくり、各々教室へ向かうのだった。