結局、ずっとタヌキ寝入りをしていた。みんなの寝息が聞こえてきたころ、ようやく目を開いて起き上がる。
惨めだ。
こんな風にこそこそして、恥ずかしくないのか。
ドン底まで落ち込んだマッスォは、今にも死んでしまいたくなった。きっとそこにロープと梁があれば実行していただろう。ひどい自己嫌悪にさいなまれ、マッスォは頭を抱える。
もう終わりだ、なにもかも。破滅するしかない。
せめて絶望の道行きくらいは付き合おう。それがケジメというものだ。
そんなとき、暗闇からマッスォを呼ぶ声が聞こえてきた。
「ぱぱー、おしっこですー」
ダラウォが寝ぼけた声でマッスォの毛布を引っ張っている。こんな幼児にまで意地を張っても仕方がない。それに、ダラウォだけは血の繋がった実の息子だ。
「……仕方ないな。おいで、ダラちゃん」
「はやくですー」
さすがに小部屋の中で排泄はできない。マッスォはダラウォを連れて小部屋の外へ向かった。
モンスター避けの結界は、小部屋を出てもある程度は有効だ。近くの行き止まりまでやって来ると、マッスォはダラウォの下着を下ろして放尿の手伝いをしてやった。
「ほら、ダラちゃん、しーってして」
「はいですー」
ちょろちょろとおしっこをしながら、ダラウォはまた空気を読まない発言をした。
「ぱぱはなんでみんなとなかよくしないですかー?」
やはり魔の三歳児は核心を容赦なく突いてくる。しかし、こんな幼児に意地を張っても仕方がない。
下の世話をしながら、マッスォは自嘲の笑みを浮かべた。
「仲良くすると、自分がダメな人間だって思い知るからだよ」
「そうですーぱぱはだめだめですーごみくずいかのふにゃちんやろうですー」
一体どこでそんな言葉を覚えてきたのか、ダラウォは無邪気にマッスォを罵倒した。
だよなあ……と、自分でも思う。サザウェの夫、という肩書きを失えば、もうイゾノ家に居場所なんてない。だから離婚なんて切り出したのだ。
我慢できなかった。これ以上この家にいたら、自分の尊厳がすり減っていくばかりだと思った。
尊厳なんて上等なものは元からないに等しかったが、それでもマッスォとて人間だ。どれだけ自分を嫌っても、その一点だけは捨てられずにいた。
ちっぽけなプライドだ。恥ずかしいくらい小さなプライドが、マッスォをあんな暴挙に駆り立てたのだ。
用を足したダラウォの下着を履かせながら、離婚したらもうダラウォにも会えないんだなあ……とさみしくなる。唯一血の繋がった自分の息子。ただひとり家族だと言える息子。
「でもどれだけごみかすでもぱぱはぼくのぱぱですー」
ひし、と足に抱きついてきたダラウォに、マッスォの涙腺がゆるむ。その背中をなでながら、
「……そうだね、ダラちゃん……」
「あとままもおじいちゃんもおばあちゃんもかっつぇにいちゃんもわかーめねえちゃんもダマもかぞくですー」
そう、マッスォにとっては他人でも、ダラウォにとっては家族なのだ。ちゃんと血が繋がっている。そこだけは実の息子とマッスォの違うところだ。
「ダラちゃん、パパは家族じゃないんだよ。ひとりだけのけものなんだよ」
「なんでですかー? みんながいじわるするですかー?」
「……そうじゃないんだ。みんなやさしくしてくれる。いいひとばっかりだ。けど、パパはダメだから、みんなと仲良くするのが苦手なんだよ」
「みんないいこなのになんでぱぱだけダメなこなんですかー?」
「……どうしてだろう。自分でも分からない。わからないからダメなんだろうな。けど、いい子の中に悪い子が入っていっちゃダメだろう? だから、パパは家族にはなれない」
「なんでですかーだれがきめたですかーぱぱはダメダメだけどわるいこじゃないですー」
その言葉に、マッスォは虚をつかれたような顔をした。
誰が決めたのか。それは……自分が勝手にそう思っているだけだ。みんなはそんなこと一言も言ったことはない。マッスォがそういう考えに凝り固まって、自分は異質な悪だと決めてかかって、イゾノ家の面々と一線を引いていたのだ。
フィーネの言う通りだ。壁を作っていたのは自分だった。他のみんなは他人行儀なマッスォを見て、歯がゆく思っただろう。だから必要以上に気を使って、輪の中に入れるようにした。
それをマッスォがひねくれた受け取り方をして、余計に意固地になるという悪循環が生まれていた。
イゾノ家のひとびとは善良だ。自分なんかが関わっていい家族ではないと、そう思っていた。
そう思って、こころを閉ざしてカラにこもっていた。
しかし、それはイゾノ家のメンバーの好意を無碍にするという、より悪いことをしているだけではないか?
差し伸べられた手を振り払うことが、どれだけ相手をかなしませるか、考えたことはあったか?
ひとりよがりだったのは自分だ。
歩み寄ろうとしなかったのは自分だ。
……やっと自覚して、まず感じたのは恥ずかしさだった。
こんな幼児に言われて始めて気づくだなんて、思春期のガキ以外だ。どこまでダメなんだ自分は。
「おじいちゃんもおばあちゃんもにいちゃんもねえちゃんもままもばぱもいっしょがいいですーみんななかよしがいいですー」
三歳児の純粋すぎる言葉が胸に刺さる。
「ぼくみんなだいすきですー、ぱぱはみんなのこときらいですかー?」
「……いや、嫌いなんじゃない。嫌いじゃないんだ。むしろ好きだからこんな気持ちになるんだ」
答えはこんなにもシンプルだった。好きか嫌いか、それだけでいいのだ。それを難しく考えすぎて、ドツボにはまって、素直になれなかった。
自分は、イゾノ家のみんなが好きだ。
めちゃくちゃで、うるさくて、善良で、貧乏で、ひとの話を聞かず、頑固で、乱暴で、後先考えていなくて、前に進むことしか考えていない、そんなイゾノ家のことを愛してやまないのだ。
マッスォはダラウォに笑いかけて、言葉を重ねた。
「パパは、みんなのことが大好きだよ」
すると、ダラウォの顔が目に見えて明るくなった。
「よかったですーみんなだいすきどうしでなかよしですー」
「そうだよ、パパだって仲良くできるんだ」
こころを開くことをおそれなければ、差し伸べられた手を今度こそ取ることができる。
家族になれるのだ。
この誇るべき一家の一員として。
「じゃあなかなおりですーみんなしんぱいしてたですーごめんなさいするですー」
「……そうだね、ダラちゃん……僕もそろそろ、殻にこもるのはやめるよ。約束するよ、ダラちゃん」
そう言って、マッスォはダラウォを強く抱き締めた。
「ぱぱいたいですー」
「……うん……うん……ごめんね、ダラちゃん……」
「ぱぱないてるですかーいたいところあるですかー?」
「……そんなことないよ……大丈夫だよ……」
ずびずびと鼻をすすり、マッスォは、大丈夫、と自分に言い聞かせた。
こわがることなんてない。
きっと受け入れてもらえる。
今さら、なんてもう考えない。
変わらなくては。このひねくれた自分を変えなくては。
そうすれば、自分も胸を張ってイゾノ家の一員として生きていけるのだ。
こんなにうれしいことはない。
「ぱぱ、ぱぱ、ぼくねむたいですー」
「……そうだね、戻ろうか」
息子に涙を見せないように抱き上げると、マッスォは小部屋に戻って行った。まだみんな眠っている。
ダラウォを寝かしつけると、マッスォも毛布にくるまった。家族の寝息が聞こえる。
そう思うと、だんだんと意識が薄れていった。
そうして、マッスォは久しぶりに深い眠りについた。
イゾノ家の寝息の中に、新しいいびきが加わるのだった。