ごごご、と開かれた扉の向こうは、松明の光でぼんやりと照らされていた。ちょっとした広間くらいの広さがあり、外同様の石造りだ。
そこにいたフロアボスは、身の丈3メートルはあるトロールだった。緑色の肌に豚鼻、棍棒を携えて、うろうろと熊のように辺りを歩き回っている。
トロールはマッスォたちを見つけると、ぎろりとにらみつけて激しく鼻を鳴らし、棍棒を振り回した。地面が揺れ、土埃が舞う。
「びゃああああああ!!」
すかさず入ってきた扉の向こうへ逃げようとしたマッスォの襟首を引っつかむと、サザウェは叱責するような檄を飛ばした。
「なにやってるの、あなた! こいつを倒さないと進めないのよ!」
「そんなこと言ったって……!」
果たしてダンジョン初心者のイゾノ家でなんとかなるものなのだろうか? こんな獰猛かつ巨大なモンスターを相手にして?
無理だ。絶対無理。
絶望するマッスォを置いて、ナミーへが指示を発する。
「よし! 母さんとワカーメが魔法で援護しつつ、カッツェがかく乱、サザウェとマッスォくん、ワシで近接戦闘! いいな!」
『おー!』
こうなったらもう、やぶれかぶれで戦うしかない。メンバーが配置につこうとした、その時だった。
ふしゃー!と威嚇の声を上げたダマが、その巨体で飛びかかり、一気にトロールを押し倒す。そして、そのまま喉笛を食いちぎってしまった。
ぶおおおおお!と悲鳴を上げるトロールに、ダマは容赦なく牙や爪を立てる。肉や骨が引きちぎられる音、噴水のように辺りに飛び散る紫色の体液、ハラワタが引きずり出され、脳漿がぶちまけられた。
しかし、もちろんモザイクがかかっているのでその点は安心である。
とっくに絶命したトロールの死体を食い漁り終えたダマは、白い毛皮を紫色にして舌なめずりをしながら、にゃーん、と呑気に鳴いた。
あまりにもあっけなく片付いてしまって、いざ!という気概でいたイゾノ家のみんなは、ぽかーんとしている。
「……あー、なんだか一瞬でしたね……」
あれだけビビり散らしていたマッスォも今は、すーん、としている。
「もう、ダマさえいればいいんじゃ……」
「そんなことないですーみんないっしょがいいってダマもいってますー」
召喚士であるダラウォが言うと、呼応するようにダマも、にゃーん、と鳴いた。その口からは、にちゃあ、と紫色の体液がしたたっている。
「ええっ!? まだ続くのかい!?」
ここで引き返してくれるものだと思っていたマッスォが、声をひっくり返して言った。サザウェはその言葉にマッスォの背中をばしん!と叩き、
「当たり前でしょ! さあ、どんどん行くわよー!」
腕まくりをするサザウェの肩をつんつんとつつくのはカッツェだ。へへへ、といたずらめいた笑顔でないしょ話のようにささやく。
「その前にお宝を……」
「これカッツェ、その前にひと休みですよ」
すかさずフィーネがたしなめるが、カッツェは聞こうともせずに部屋の奥に置いてあった宝箱の罠を解除し始める。サザウェはあきれた様子で、
「まったく、あんたはガメツイんだから!」
「へへへ、でもこれがダンジョンの醍醐味だろ? さーて、どんなお宝が隠されてるのかなー?」
「それもそうね……しめしめ」
すっかり態度を変えるサザウェも大概現金だ。罠を解除して覗き込んだ宝箱の中身は……
「わあ、すごい!」
カッツェが声を上げる。そこには金の短剣や髪飾り、ネックレスなどが入っていた。おおよそイゾノ家とは縁のないものだ。
お宝を手にしてはしゃぐカッツェをしりめに、サザウェは眉間に皺を寄せてうなった。
「けど、これじゃあ金貨10枚くらいにしかならないわ」
「そうねえ、第一階層だとこんなものってことかしら」
フィーネも悩ましげな表情でつぶやいた。これさいわいとマッスォが声を上げる。
「そ、そうですよ! だからもう引き返して……」
「うむ! ここから先へ進めばより多くの財宝が手に入るというわけだ!」
マッスォの声を遮って、ナミーへが言い放った。正直もう帰りたかったマッスォは、密かにげんなりと肩を落とす。
「進めば進むだけ財宝は増える! みんな、どんどん行くぞー!」
『おー!』
第一階層を制覇してほくほく顔の面々は、威勢よくこぶしを挙げた。
マッスォだけがこの先行き不透明な探索に乗り気になれないでいる。
手に入る報酬が増えるということは、それだけダンジョンの難易度も高くなっていくということだ。今までの探索はお遊戯に過ぎない。あくまでも物見遊山の客相手の遊びでしかないのだ。
見物に来ただけの客は第一階層で満足して引き返すだろう。しかし、イゾノ家は生活がかかっているのだ。当然、第二階層へと進むことを選ぶ。より深くへ潜ろうとするだろう。
だからといってダンジョンが手加減などしてくれるはずもなく、敵はどんどん強力になっていく。たとえダマがいたとしても、いずれ限界は来るだろう。
そのとき、どうすればいいか? 撤退の進言を素直に聞き入れてくれるだろうか?
……残念ながら、その可能性は低い。
イゾノ家のことだ、無茶をして前進して全滅、ということにもなりかねない。冷静でいるのはマッスォだけだ、みんな目先の財宝に目がくらんで熱くなっている。
これは一種のギャンブルだ。ぎりぎりまで粘って、勝ち取れる分だけを勝ち取る。欲をかいてはいけない。引き際が肝心なのだ。
そして、その引き際を見誤れば負ける。この場合、負けるということは全員死ぬということになる。全滅すれば、余程の物好きが深部に潜ってきて蘇生魔法をかけてくれない限りは、一家そろって骨を晒すばかりだ。
そうならないためにも、マッスォがストッパーにならなければならない。なにせ一家の命運がかかっているのだ、マッスォだけは最後まで理性を保った行動を取らなければならなかった。
だが……
「ほら、あなた! 少し進んだら休憩できる小部屋があるみたいよ! そこまでがんばりましょう!」
「引き続き、罠はお任せあれー」
「ねえ、今度はどんな財宝があるのかしら?」
「きっともっとすごいのが山ほどあるぞ! 最奥部まで行けば、借金どころか家計もなんとかなる!」
「それはありがたいことですねえ。もう少しだけ先に進んで休憩にしましょう」
「そうだな母さん! よーし、次は第二階層だ!」
一家はぞろぞろと部屋の奥にあった扉を開いて長い階段を下り始めた。最後尾をゆくマッスォは、絶望を通り越して幽鬼のような相貌でぶつぶつとつぶやいている。
「……だれも僕の言葉になんて耳を貸してくれない……このままじゃ一家全滅だ……僕が止めないと……けどみんな僕の言うことを聞いてくれない……ああもうおしまいだ……ここで一家心中だ……僕が止めないといけないのに……でも……」
どこまでも堂々巡りだった。家庭での発言権がないことがよもやこんな事態を招くことになるなんて。こんなことなら、普段からもっと強く出ていればよかった。
いや、そんなこと、マッスォという男にできるはずがない。水の合わない家に入婿として入って、偉そうになどできるはずがなかった。
そもそも、サザウェと結婚したことが間違いだったのだ。こんなことになるなんて思ってもみなかった。結婚とは、家庭とは、もっと素晴らしいものだと思っていたのに。
しかし、子供まで作っておいて無責任なことはできない。責任を取るとしたら、この一家心中に付き合うことくらいしか思いつかなかった。
そうやってぐるぐるとひとりで考え込んでいると、やがて階段も終わりが見えてくる。
ここから先は第二階層だ。果たしてどんな脅威が待ち受けているのやら、とマッスォは戦々恐々とするのだった。