№1 イゾノ家、赤字の家計簿
それは、ある日突然世界に現れた。
地下深くまで根ざした謎の建造物が、都のど真ん中に一夜で唐突に出現したのだ。
とある探険家が入ってみたところ、内部には凶悪なモンスターがはびこり、数々の罠が仕掛けられ、内部への侵入をかたくなに拒んでいた。
しかし、その障害を踏破した先には、まばゆいばかりのお宝が眠っていた。
そうとわかれば話は早い。ダンジョンと呼ばれるその建造物には、一攫千金を狙って多くの冒険者たちが群がった。いずれも百戦錬磨の剛の者だ。
しかし、帰ってきたものはわずかで、ほとんどのものはダンジョンの中で朽ちるばかりのしかばねと成り果てた。その代わり、生還したものは金銀財宝を手に勝利の勝どきを上げた。
謎多きダンジョンはたちまち世間の注目の的となり、都は冒険者や商人たちであふれかえった。ひとが集まるところにはさらにひとが集まる。都は今までにない賑わいを見せ、今日もあまたの冒険者たちがダンジョンへと潜っていくのだった。
「あなた!」
そして、今日も都の隅にあるイゾノ家でひと悶着があった。
館の一室で、魚の背びれと尾びれのような奇妙な髪型をした女性が家計簿らしきものを突きつけている。
「今月も赤字よ!? このままじゃ生活できないわよ!」
「そ、そんなこと言われたって……」
赤字の家計簿を前にたじたじになっているのは、マッスォ・フグータ、27歳男性である。メガネに気の弱そうな面構えの、平々凡々とした男であった。
その妻であるサザウェは、もさもさと独特な髪を揺らしながら、家計簿片手に般若の形相でマッスォに迫った。
「あなたがしっかりしないでどうするの! 大黒柱でしょう!」
「ええっ、僕がかい!?」
「あなた以外誰がいるっていうのよ!」
ヒステリックに叫ぶがままに、サザウェは赤字の家計簿を持ち前の怪力で引き裂いた。はらはらと紙片が舞う中、マッスォは深々とため息をつく。
マッスォ・フグータは入婿である。サザウェの籍はフグータであるが、義実家の厄介になっている今、実質入婿も同然だった。
子供もいるが、それでも義実家で同居というのはキツい。常に気を遣い、目立たないようにこそこそと生きている。追従し、我を出さないように。
そんな生活は心底肩身が狭かった。今もきりきりと胃が痛んでいる。
義両親はマッスォには当たりの強い態度は見せない。いつもやさしくおだやかに接してくれる。しかし、逆にそんな態度に自分が『お客さん』『よそ者』だと感じてしまうのだ。
義弟や義妹も幼いながらに気を遣ってくれていることがありありとわかる。あんな小さい子にまで気遣いしてもらって、情けなくもあった。
唯一味方になってくれるはずのサザウェでさえコレである。おそらくこれでもマッスォのことを大黒柱だと思ってくれているのだろう、しかしそのプレッシャーで毎日毎日こころが折れそうだった。
マッスォは、どうしてもここが『自分の家』と思うことができなかった。
居場所がないのだ。家庭とは本来安らかに落ち着ける場所であるはず。なのに、マッスォはいつも『ここにいたくない』と考えてしまう。ここが自分の居るべき場所とは到底思えないのだ。
義実家との同居とはこういうものであるとはわかっていて、この選択をした。だが、現実はマッスォを散々に打ちのめした。考えていた以上に息が詰まる生活だった。
逃げ出したい。この結婚は失敗だったんだ。
そう思わない日はないほどに、マッスォのこころは疲弊していた。それでも義実家から離れられないのは、ひとえにサザウェと息子への愛情ゆえだった。ただそれだけが、マッスォを支えていた。
そんな居場所がない家庭の、なにを守ればいいというのだろうか。守るべきものが分からない今、どうやってがんばればいいというのだろうか。
今にも口に出しそうになった言葉を、ぐ、と飲み込むのは、これで何度目だろう。
そうだ、自分さえ我慢すれば済む話なのだ。せめてイゾノ家に波風を立てないよう、うつむいて生きていればいいのだ。それが入婿の宿命だ。
「あなた! 聞いてるの!?」
相変わらずサザウェは鬼の形相でマッスォに詰め寄っている。これがなければ、子育ても家事もしてくれるいい嫁なのだが。
「はっ、はい!」
「このままじゃ我が家は火の車なの! あなたにがんばってもらわないと!」
「で、でも……」
「もっとしゃんとして! だいたい、最近は夜の方だって……」
「そうは言っても……」
「私、そんなに魅力ない!?」
「そんなことは……」
「じゃあどうして!? まさか浮気……!?」
「決してそんなことは!!」
即座に否定した。まさかこの鬼嫁をめとっておいて、浮気などできるはずもなく。間違いなく殺される。頭をリンゴのように握り潰されるに違いない。
「疲れてるだけだよ……僕だって、毎日仕事で……」
「じゃあもっとお給料上がってもいいわよね!? なのにどうして我が家は赤字なの!? 父さんだって定年間近で働いてるのに!」
「じゃあ、君も働けばいいんじゃないかな……?」
マッスォのその提案は、単に火に油を注いだだけだった。サザウェの表情がMAXまで険しくなる。
「仮にも貴族の娘がパートだなんて、そんな恥ずかしいことできるわけないじゃない!」
「とはいえ、今はそれくらいしか……」
「平民出身のあなたにはわからないかもしれないけど、貴族っていうのは世間体を気にしなきゃいけないの! どうしてわかってくれないの!?」
また出た。『貴族だから』『あなたは平民出身』。この身分差のある結婚を望んだのも自分だが、毎度毎度言われると見下されているような気分になる。
平民出身の入婿、その立場たるや想像以上に窮屈なものだった。
「ともかく、あなたには家長である自覚を持ってもらわないと! 私たちの生活は大黒柱のあなたにかかってるんですからね!」
義両親が強く言わない分、サザウェが言っているのだろう。それはわかる。が、やれ家長だ大黒柱だと尻を叩かれても、がんばる理由がない以上、これ以上のちからを発揮することなど不可能だった。
もう終わりにしたいな……いっそ首でもくくるか……
いわゆる抑うつ状態にまで陥ったマッスォは、そこまでことを悲観的にとらえていた。その悲愴な様子はそれこそ今すぐ首を吊りかねないものだった。
「なんとかしてこの状況を変えないと! いいわね、あなた!」
「……はい……」
家では家族に気を遣ってこそこそ生活して、鬼嫁にどやされ、必要以上のプレッシャーをかけられ。
ああ、僕は何のために生きているんだろうな……
ふと思った瞬間、なにもかも放り出したくなった。
しかし勇気がなくてそれすらもできない。
自分は一生入婿として肩身の狭い思いをしながら生きていくしかないんだ。
軽く絶望を感じながら、マッスォは肩をいからせて部屋を出ていくサザウェを見送るのだった。