入院して半年が過ぎた頃。ついに、退院の日が決まった。
毎日毎日眺めた窓の外の大きな木には、淡いピンク色の花が咲いている。いつまで経っても変化がないな……と思っていた大きな木は桜の木だったようだ。
まるで私の退院を祝うかのように、桜の花びらが舞い散っていた。
「………」
緘黙症は完治していない。日比野先生は長期戦だと言っていた。
話せないから仕事復帰も難しいかも。最近はそのようなことも考えている。
しばらく花びらを眺めていると、二重の扉の鍵が開く音がした。
そして、ゆっくりと扉が開く。
「黒磯さん、おはよう」
「……」
部屋に入ってきた日比野先生はペコっと、小さく頭を下げた。
「ここにいるのも、あと1週間だね」
「……」
あと1週間。
実は今、私の中に少しの不安がある。
日比野先生はこの半年間、隙間時間を見つけては私の元に来てくれていた。
仕事が休みの日も含めて、毎日毎日……1日も欠かさずに、だ。
1人暮らしのアパート。
仕事復帰はできない。
日比野先生もいない。
ゆえに……誰とも会わない。
正直、退院して1人で過ごす時間が訪れることが……すこしだけ不安だった。
「疲れたでしょ、ここでの生活も」
「……」
そう言いながら先生は椅子に座る。すこしだけ微笑んでいる先生の顔を見ると、急に涙が溢れ出てきた。
「え?」
全然止まらず、次第に嗚咽まで漏れ始める。先生は私に両腕を伸ばし、心配そうに顔を覗き込んだ。
「黒磯さん? どうしたの」
「……」
不安。
日比野先生、不安……。
しかし、その言葉は出てこない。
「……」
何も言えずに泣き続けていると、先生はベッドに移動して私を抱き締めた。
「黒磯さん……」
優しく温かい手付きに益々涙が零れる。先生はそのまま私の頬に触れ、耳元で囁いた。
「ねぇ、黒磯さん。僕の読み違いなら無視して欲しいんだけど……良かったら、退院後うちに来ない?」
「……」
「退院させるけど、本当は心配なんだ。黒磯さん自身も、独りは寂しいんじゃない……?」
「……」
想像していなかった言葉に驚いた。
日比野先生の家……?
許されるなら、行きたい。
率直にそう思った。
でも、そんなのどう考えても先生の迷惑になる。
「……」
先生の腕を叩いて、少し離れてもらう。
そして枕元のノートを手に取り、文字を書いた。
【さびしい、不安。でも、先生の迷惑になる】
「……」
その文字を見て先生は吹き出すように笑った。
「迷惑なんてないよ。どの道、黒磯さんが今泣いていなくても、僕は最初からそういう提案をするつもりだったから」
「……」
もう一度ペンを持って、ノートにまた、思いを書く。
【いま家には何人ですか】
【私みたいな人は何人いますか】
「……」
文字を見た先生はフリーズをしてしまった。
「……え、待って。もしかして僕、受け持った患者をみんな家に連れて帰っているとでも思われてる?」
「……」
その言葉に、首を傾げてみる。すると先生も同じように首を傾げた。
正直、そう思っていた。
患者以外には冷たく酷いことを言う人だけど、患者には優しいのだろうと。
だから、私にも優しく接してくれているのだと思っていた。
しかし……。
先生の表情を見るに、何か違うみたい。
「勘弁してよ、黒磯さん……僕は君だから、そう提案しているんだ。これまでの差し入れだってそう。君だけだよ、黒磯さん」
「……」
「勘違いしないで。誰にでも優しいと思ったら大間違いだ」
真剣な眼差しに、思わず心臓が飛び跳ねる。
日比野先生は私が手に持っていたノートを取り上げ、また優しく抱き締めた。
「……家に他の人はいない。僕と、猫がいるだけ。気兼ねしなくていい。お金も気にしなくていい。黒磯さんは何も気にせず、安心して療養をしてくれたらいいんだ」
「……」
何も良くない。
それは、駄目でしょう。
そう思い首を横に振る。
この入院でどのくらい費用が掛かるかまだ分からないけれど、仕事しかしていなかった分、貯蓄はある。
だから……働けなくても、暫くは生きていけると思う。
ノート取り上げられたから、何も伝えられないけれど。
「……黒磯さん、聞いて」
耳元で囁かれ、体が固まる。
先生は消えそうなくらい小さな声で、言葉を継いだ。
「もう一度言うね。寂しくて不安なら、僕の元へおいで。まったく迷惑ではないし、僕も君のことが心配だから、近くにいてくれると安心する。気兼ねしなくていいし、君が働けない間のお金も心配しなくて良いんだから」
「……」
何度聞いても、魅力的な提案。
だけど、偶然私が勤めていた会社の産業医だっただけの日比野先生。
赤の他人にそこまで甘えられない。
「……」
首を振りながら取り上げられたノートに再度手を伸ばし、文字を書く。
【嬉しい。でも甘えられません。ひとりでがんばります】
それを読んだ先生は、大きな溜息をついた。
「……はぁ。君って、頑固だね」
「……」
「僕が良いと言っているんだ。素直になったらどうだ?」
頭を撫でられ、止まっていた涙がまた零れ始める。
素直……か……。
先生の顔をジッと見つめて、小さく1回頷いてみる。
すると、優しく微笑んでくれた。
そして私の頬に左手をそっと添え、先生は言葉を継ぐ。
「お金の件だけど。どうしても気になるって言うなら、君は僕の家族になればいい」
「……」
「僕はいつかそうしたいと思うし、そうすれば君が気にすることは何もない」
「……」
想像を遥かに超えた先生の言葉。
しかし、それを理解するのに、すこし時間がかかった。
「……」
呆然と先生の顔を眺めて首を傾げると、私の頬に添えられた左手で唇に触れられる。
優しく形をなぞられ、すこしくすぐったい。
「もう二度と死にたいなんて思わせたくないし、僕は君の支えになりたい。あのとき死なずに生きていて良かったって、そう思って欲しいんだ。だからさ、君が一度諦めたその人生。僕の元でやり直してみない?」
「……」
「というか。黒磯さんのこと、僕に守らせて欲しい」
この人……なんて優しい瞳をしているのだろうか。
冷酷なんて呼ばれている日比野先生から想像もできない様子に、自分の目も耳も疑った。
「……」
驚きすぎて無表情のまま固まっていると、先生は頬を少しだけ赤らめながら怪訝そうな顔をした。
「……一応、告白なんだけど」
「……」
一応、告白だったらしい。
「……」
最初嫌いだった、日比野先生。
あんなに嫌いだったのに。
今では傍にいて欲しい人の1人になっている。
傍にいると、安心できる人。
先生の傍にいることが許されるのなら……傍にいたい。
そう思い、そんな先生に向かって私は、もう一度小さく頷いてみた。
「傍に……いたい…」
同時に自然と出てきた言葉。
「……黒磯さん、良く言えました」
それを聞いた先生は嬉しそうに微笑みながら、私にそっとキスをした。