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11.退院


 入院して半年が過ぎた頃。ついに、退院の日が決まった。


 毎日毎日眺めた窓の外の大きな木には、淡いピンク色の花が咲いている。いつまで経っても変化がないな……と思っていた大きな木は桜の木だったようだ。


 まるで私の退院を祝うかのように、桜の花びらが舞い散っていた。



「………」



 緘黙症は完治していない。日比野先生は長期戦だと言っていた。

 話せないから仕事復帰も難しいかも。最近はそのようなことも考えている。


 しばらく花びらを眺めていると、二重の扉の鍵が開く音がした。

 そして、ゆっくりと扉が開く。


「黒磯さん、おはよう」

「……」


 部屋に入ってきた日比野先生はペコっと、小さく頭を下げた。


「ここにいるのも、あと1週間だね」

「……」


 あと1週間。

 実は今、私の中に少しの不安がある。


 日比野先生はこの半年間、隙間時間を見つけては私の元に来てくれていた。

 仕事が休みの日も含めて、毎日毎日……1日も欠かさずに、だ。



 1人暮らしのアパート。

 仕事復帰はできない。

 日比野先生もいない。

 ゆえに……誰とも会わない。


 正直、退院して1人で過ごす時間が訪れることが……すこしだけ不安だった。



「疲れたでしょ、ここでの生活も」

「……」


 そう言いながら先生は椅子に座る。すこしだけ微笑んでいる先生の顔を見ると、急に涙が溢れ出てきた。


「え?」


 全然止まらず、次第に嗚咽まで漏れ始める。先生は私に両腕を伸ばし、心配そうに顔を覗き込んだ。



「黒磯さん? どうしたの」

「……」


 不安。

 日比野先生、不安……。


 しかし、その言葉は出てこない。



「……」


 何も言えずに泣き続けていると、先生はベッドに移動して私を抱き締めた。


「黒磯さん……」


 優しく温かい手付きに益々涙が零れる。先生はそのまま私の頬に触れ、耳元で囁いた。



「ねぇ、黒磯さん。僕の読み違いなら無視して欲しいんだけど……良かったら、退院後うちに来ない?」

「……」

「退院させるけど、本当は心配なんだ。黒磯さん自身も、独りは寂しいんじゃない……?」

「……」


 想像していなかった言葉に驚いた。


 日比野先生の家……?


 許されるなら、行きたい。

 率直にそう思った。


 でも、そんなのどう考えても先生の迷惑になる。


「……」


 先生の腕を叩いて、少し離れてもらう。

 そして枕元のノートを手に取り、文字を書いた。


【さびしい、不安。でも、先生の迷惑になる】


「……」


 その文字を見て先生は吹き出すように笑った。


「迷惑なんてないよ。どの道、黒磯さんが今泣いていなくても、僕は最初からそういう提案をするつもりだったから」

「……」


 もう一度ペンを持って、ノートにまた、思いを書く。


【いま家には何人ですか】

【私みたいな人は何人いますか】


「……」


 文字を見た先生はフリーズをしてしまった。


「……え、待って。もしかして僕、受け持った患者をみんな家に連れて帰っているとでも思われてる?」

「……」


 その言葉に、首を傾げてみる。すると先生も同じように首を傾げた。


 正直、そう思っていた。

 患者以外には冷たく酷いことを言う人だけど、患者には優しいのだろうと。


 だから、私にも優しく接してくれているのだと思っていた。


 しかし……。

 先生の表情を見るに、何か違うみたい。


「勘弁してよ、黒磯さん……僕は君だから、そう提案しているんだ。これまでの差し入れだってそう。君だけだよ、黒磯さん」

「……」

「勘違いしないで。誰にでも優しいと思ったら大間違いだ」


 真剣な眼差しに、思わず心臓が飛び跳ねる。

 日比野先生は私が手に持っていたノートを取り上げ、また優しく抱き締めた。


「……家に他の人はいない。僕と、猫がいるだけ。気兼ねしなくていい。お金も気にしなくていい。黒磯さんは何も気にせず、安心して療養をしてくれたらいいんだ」

「……」


 何も良くない。

 それは、駄目でしょう。


 そう思い首を横に振る。


 この入院でどのくらい費用が掛かるかまだ分からないけれど、仕事しかしていなかった分、貯蓄はある。

 だから……働けなくても、暫くは生きていけると思う。



 ノート取り上げられたから、何も伝えられないけれど。


「……黒磯さん、聞いて」


 耳元で囁かれ、体が固まる。

 先生は消えそうなくらい小さな声で、言葉を継いだ。


「もう一度言うね。寂しくて不安なら、僕の元へおいで。まったく迷惑ではないし、僕も君のことが心配だから、近くにいてくれると安心する。気兼ねしなくていいし、君が働けない間のお金も心配しなくて良いんだから」

「……」


 何度聞いても、魅力的な提案。

 だけど、偶然私が勤めていた会社の産業医だっただけの日比野先生。


 赤の他人にそこまで甘えられない。


「……」


 首を振りながら取り上げられたノートに再度手を伸ばし、文字を書く。


【嬉しい。でも甘えられません。ひとりでがんばります】


 それを読んだ先生は、大きな溜息をついた。


「……はぁ。君って、頑固だね」

「……」

「僕が良いと言っているんだ。素直になったらどうだ?」


 頭を撫でられ、止まっていた涙がまた零れ始める。

 素直……か……。


 先生の顔をジッと見つめて、小さく1回頷いてみる。

 すると、優しく微笑んでくれた。


 そして私の頬に左手をそっと添え、先生は言葉を継ぐ。



「お金の件だけど。どうしても気になるって言うなら、君は僕の家族になればいい」

「……」

「僕はいつかそうしたいと思うし、そうすれば君が気にすることは何もない」

「……」


 想像を遥かに超えた先生の言葉。

 しかし、それを理解するのに、すこし時間がかかった。


「……」


 呆然と先生の顔を眺めて首を傾げると、私の頬に添えられた左手で唇に触れられる。

 優しく形をなぞられ、すこしくすぐったい。


「もう二度と死にたいなんて思わせたくないし、僕は君の支えになりたい。あのとき死なずに生きていて良かったって、そう思って欲しいんだ。だからさ、君が一度諦めたその人生。僕の元でやり直してみない?」

「……」

「というか。黒磯さんのこと、僕に守らせて欲しい」


 この人……なんて優しい瞳をしているのだろうか。

 冷酷なんて呼ばれている日比野先生から想像もできない様子に、自分の目も耳も疑った。


「……」


 驚きすぎて無表情のまま固まっていると、先生は頬を少しだけ赤らめながら怪訝そうな顔をした。


「……一応、告白なんだけど」

「……」


 一応、告白だったらしい。


「……」


 最初嫌いだった、日比野先生。


 あんなに嫌いだったのに。

 今では傍にいて欲しい人の1人になっている。


 傍にいると、安心できる人。

 先生の傍にいることが許されるのなら……傍にいたい。


 そう思い、そんな先生に向かって私は、もう一度小さく頷いてみた。


「傍に……いたい…」


 同時に自然と出てきた言葉。


「……黒磯さん、良く言えました」


 それを聞いた先生は嬉しそうに微笑みながら、私にそっとキスをした。





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