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いつものように、セミの鳴く声で目が覚めた。
時計を見ると、午前六時前。
僕はゆっくりとベッドから起き上がると、大きく伸びをしてあくびを一つした。
昨日はあのあと、たくさんのカブトムシやクワガタムシを持って帰ったことでお母さんに怒られてしまった。
「そんなに沢山どうするの! 一匹か二匹にして、あとは全部逃がしなさい!」
真帆ねぇと二人で「せっかく捕まえたのに」と抗議したけれど、当然のように「ダメです!」と言って許してはもらえなかった。
仕方がないのでカブトムシとクワガタムシを一匹ずつ、別々の虫かご(昔おねぇちゃんが使っていたのがまだあった)に入れて縁側の隅の日陰に置いておくことにした。
それから約束通り、真帆ねぇは居間で僕の宿題を手伝ってくれたのだけれど、夕方になって帰ってきたおねぇちゃんが真帆ねぇを見た途端、
「あ、真帆ねぇ!」
とひと叫びして、そこからずっと真帆ねぇにくっついてしゃべり続けていたので、いつの間にか僕は一人で昨日の分の宿題を終わらせていた。
親戚だからちょっと顔が似ているせいもあるんだろうけど、中学生になって背の伸びたおねぇちゃんと、もともと少し小柄な真帆ねぇが二人並んでいると、まるで本当の姉妹のようだった。
たぶん、おねぇちゃんもそんな感じで真帆ねぇのことが好きなんだと思う。
僕はなんだか真帆ねぇを取られたような気がして、ちょっと面白くなかった。
だけどそんなこと、恥ずかしくて言えるはずもない。
真帆ねぇは明日まで泊まっていくらしく、それを聞いたおねぇちゃんは両手を挙げて喜んでいた。
一緒に晩ご飯を食べている最中もおねえちゃんは真帆ねぇと話し続けていたけれど、それに飽き足らず、お風呂まで一緒に入ったばかりか自分の部屋で寝てくれとせがんで、結局その夜は二人ともずっとおしゃべりし続けていた。
いったい、何をそんなに話すことがあるんだろう、不思議でならない。
そんな夜が明けて、僕は服を着替えるとやっぱりいつものように、一階におりる。
台所で朝ご飯の準備をしているおばあちゃんとお母さんに、
「おはよう」
と僕が挨拶すると、
「翔ちゃん、おはよう」
「おはよう、翔」
と二人も変わらず返事する。
一つ違ったのは、おねえちゃんがなかなか降りてこないことだった。
お父さんに言われておねぇちゃんの部屋まで起こしに行ったのだけれど、おねえちゃんも真帆ねぇもよほど夜遅くまで起きていたのか、何度声を掛けても全然起きてくれなかった。
それをお父さんに伝えると、お父さんはため息を吐きながら、
「仕方がない、俺がたたき起こしてくるか」
そう言って、二階へ上がっていった。
僕はお父さんがおねぇちゃんたちを起こしに行っている間、ぼんやりと縁側に腰かけて空を見ていた。
今日もいい天気で、暑い一日になるんだろうなぁ、と思っていると、
「おい」
突然、どこからか声がして僕ははっと我に返る。
「おい、小僧」
また呼ぶ声がして辺りを見回すと、玄関前の道路の方に人影が見えて、僕は思わず目を見張った。
そこにはあの金剛さんが立っていて、じっと僕を睨みつけていたのだ。
金剛さんは手をひらひらさせて僕を呼ぶ。
僕は恐る恐る庭に降りると、金剛さんの方に近寄った。
でも、怖いから家の敷地からは絶対に出ない。
「な、なんですか……?」
勇気を振り絞って聞くと、金剛さんはへの字の口を開いて、
「ミコは居るか」
そう、たずねてきた。
「ミ、ミコ……?」
誰だろう。そんな名前の人、僕は知らない。
「い、いません。うちに、そんな人はいません」
恐怖を感じながら答えると、金剛さんはぎょろりとした目でじっと僕を睨みながら、
「そんなはずはない」
と眉間に大きなしわを寄せる。
「ほ、ほんとです。そんな名前の人、うちにはいません」
もう一度そう口にした途端、金剛さんは何かに納得したように、
「違う、ミコは名前じゃない。あいつの名前はマホだ」
マホ……真帆ねぇちゃんのこと?
「……ま、まだ……寝てます」
なんだろう。真帆ねぇちゃんに、いったいどんな用事があるんだろう。
金剛さんは僕の返事に「ふむ」と小さく唸ると、
「そうか」
そう言い残して、のそのそとどこかへ行ってしまった。
お父さんがおねぇちゃんを連れて降りてきたのは、それからすぐの事だった。
真帆ねぇはテコでも起きようとせず、まだおねぇちゃんの部屋で眠り続けているという。
お父さんに金剛さんが真帆ねぇちゃんに会いに来たことを伝えると、
「それで、金剛さんはなんて?」
「寝てますって答えたら、そうか、って言って、帰っていっちゃった」
「ふうん。まぁ、たぶんまた来るだろう。その時は真帆に知らせてあげなさい」
お父さんは何かを知っているようだったけれど、それ以上は何も言わなかった。
ただラジカセの電源を入れて、まだ寝ぼけ眼のおねぇちゃんと一緒に、三人でラジオ体操をするだけだった。
さすがに一晩中喋り続ければ飽きてきたのか、おねぇちゃんも昨日ほど真帆ねぇにべったりはしていなかった。
とは言っても、やっぱり真帆ねぇが居るのがよほど嬉しいのか、今日は大して文句も言わず、遊びに行こうともせず、家の中で真帆ねぇと並んでテレビを観ている。
僕たちが朝ご飯を食べ終わってから、真帆ねぇはようやく目が覚めたのか、一階に下りてきた。
寝ぐせだらけの髪のまま、半分寝ぼけたような表情で朝ご飯を食べ、ふらふらと洗面所へ行ったかと思うと、戻ってきたときには昨日のように、きっちりと身だしなみを整えていた。
今、お母さんとおばあちゃんはちょっと遠くのスーパーまで買い出しに出掛けている。
真帆ねぇも「私も一緒に行きましょうか?」と訊いたのだけれど、お母さんが「こっちは大丈夫だから、真帆ちゃんは二人の面倒を見ててくれる?」と言って出ていったので、僕たち三人は特に何もすることなく、居間でだらだら過ごしていた。
あれからまた金剛さんが真帆ねぇを訪ねてくるかと思っていたのだけれど、午前十一時を過ぎた今になっても、まだ来ていない。
当然僕は真帆ねぇに金剛さんが来たことを伝えたけれど、真帆ねぇもお父さんと同じように、
「まぁ、また来るでしょう」
と特に金剛さんに会いに行こうともしなかった。
なんとものんびりした時間を過ごしていると、おもむろに真帆ねぇは立ち上がり、
「ちょっとおトイレに行ってきますね」
と言い残して廊下に出ていった。
僕は寝ているセロの背中を撫でながら、「うん」と答えてその背中を見送る。
居間に残された僕とおねぇちゃんは、夏休み映画特集と題された番組を眺めながら、真帆ねぇが戻ってくるのを待った。
何度も観たことのあるそのアニメ映画は、先の展開を知っている所為もあって、そんなに面白いとは感じなかった。
何となく無駄な時間を過ごしているような気がして落ち着かない。
かといって、どこかへ遊びに行こうにも車がないと行けないし、その車は今、お母さんとお婆ちゃんが買い出しに出掛けているのでここにはない。
まぁ、車があってもお母さんが連れて行ってくれるとは思えないんだけれど。
退屈だなぁ、と思っていると、「ねぇ、翔」と不意におねぇちゃんが話しかけてきた。
「なに?」
答えると、おねぇちゃんはテレビに顔を向けたまま、
「真帆ねぇちゃんのお店、行きたくない?」
「え? なんで?」
「だって、小さい頃に何度か遊びに行ったっきりじゃん? たまには遊びに行きたいでしょ?」
「そう?」
正直なところ、その時の僕は今よりもずっと小さかったのでよく覚えていない。
確かに行ってみたいけれど、それを口にするのが何となく恥ずかしくて、僕は興味ないふうを装ってそう返事した。
おねぇちゃんはそこで僕に顔を向けて、
「この夏休み中に、遊びに行ってみない?」
真面目な顔で、そう言った。
「行くって、どうやって? お母さんに車出してもらうの? 結構遠くだから、お母さん、嫌がるんじゃないかなぁ」
たぶん、高速道路を使っても行くだけで二時間くらいかかるんじゃなかっただろうか。
「そこはさ、二人でお願いしてみようよ。お父さんの休みの日とかだったら、街に買い物がてら連れてってくれるんじゃないかな」
「どうだろう」
僕は首を傾げながら、
「だって、普通に買い物に行くだけだったら三次の方が近いじゃん。わざわざ遠出してまで連れて行ってくれるかなぁ」
「だから、そこをお願いするんでしょ? 真帆ねぇがこの家まで来ることはあって、私たちが真帆ねぇの家に行くことなんて滅多にないんだよ? たまには逆があってもいいと思わない?」
「それは、そうだけど……」
と僕が言いよどんでいると、ぱたぱたと足音がして真帆ねぇが戻ってきた。
真帆ねぇは僕とおねぇちゃんが向き合って話をしているのに気づき、
「どうかしましたか?」
と小首を傾げながら居間に入り腰を下ろした。
そう言えば、真帆ねぇ自身はどうやってここまで来たんだろう。
昨年までは加奈ねぇの運転する車で来ていたみたいだけど、今年はその加奈ねぇが居ない。
そもそも、家の駐車場にもお父さんとお母さんの車以外、とまってはいなかった。
最寄りの駅からだってそれなりの遠さだし、いったい、どうやって?
「ねぇ、真帆ねぇ」
「はい?」
「真帆ねぇは、どうやってここまで来たの? 誰かに送ってもらったの? それとも電車とか?」
そう訊ねると、真帆ねぇはニヤリと笑んで、
「空を飛んできました」
と予想外の言葉を返してきた。
僕もおねぇちゃんも、思わず顔を見合わせる。
「空って、飛行機で?」
おねぇちゃんの質問に、真帆ねぇは口元を手で隠しながら、
「まぁ、そのようなものです。ぷぷっ!」
と、何故か噴き出すように小さく笑った。
何だろう、よくわからないけれど、もしかしてからかわれてる?
何とも腑に落ちない僕をよそに、おねぇちゃんは真帆ねぇの腕に手をやり、
「ねぇ、今度真帆ねぇのお店に遊びに行っていい?」
目をキラキラさせながら言って、その顔を覗き込む。
真帆ねぇは口元に笑みを浮かべたまま、
「えぇ、もちろん。いつでも遊びに来てください」
「やった! じゃぁ、じゃぁ、この夏は? 例えば、お盆過ぎくらいに!」
「大丈夫ですよ。お待ちしてますね」
真帆ねぇのその言葉に、おねぇちゃんはぴょんぴょん跳ねるようにして笑顔で喜んでいた。
僕はそんなおねぇちゃんを、小さな子供みたいだなぁと思いながら眺めていたのだけれど、
「――もちろん、翔くんも一緒にどうぞ」
真帆ねぇにそう囁かれて、思わず顔が真っ赤になるのを隠すように、セロの背中を撫で続けた。