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第1話


   1


 わしわしと辺りに騒音が鳴り響いていた。

 家のすぐ後ろまで迫る山の木々から聴こえてくるのは、アブラゼミやクマゼミなど、数え切れないくらい沢山のセミの鳴く声だ。

 春まで住んでいた家の周りにも、夏になれば沢山のセミが出てきたけれど、こんなに大きな音になるほどじゃなかった。

 目覚まし時計よりも早く目が覚めてしまうほどに、その鳴く声はとてもうるさい。


 僕は眠たい目を擦りながら起き上がると、あくびを一つしてから服を着替えた。


 新しく建て直したおばあちゃん家の二階のひと部屋、そこが僕の部屋だった。


 時刻は午前6時過ぎ。

 遅れて鳴り出した目覚まし時計を止めてから、僕はとぼとぼと一階に下りる。


 台所に顔を出すと、おばあちゃんとお母さんは朝ご飯の準備に取り掛かっていた。


「おはよう」

 僕が挨拶すると、

かけるちゃん、おはよう」

「おはよう、翔」

 と二人も返事する。


 それから遅れて降りてきたおねえちゃんと一緒に縁側に出ると、お父さんが古臭いラジカセ(カセットなんて聞いたことがない)を準備して待っていた。


「起きたな、二人とも。遅いぞ」

 お父さんはにやりと笑った。


「お父さんが早すぎるのよ」

 おねえちゃんが口を尖らせていうと、お父さんは「ははは」と笑い、

「さて、じゃあはじめるか」

 言ってラジオをつける。


 歪んだスピーカーから、NHKのラジオ体操が大きな音で鳴り始めた。


 これだけ大きな音で鳴らしてもご近所さんから文句を言われないのは、ここが一番近いお隣さんの家まで歩いても、十分くらいかかる距離がある、田舎の片隅だからだ。


 見渡す限り、山、山、山。


 去年の冬におじいちゃんが死んじゃったのをきっかけに、僕らの家族はおばあちゃんと一緒に住むために、こんな田舎まで引っ越してきたのだ。


 僕もおねえちゃんも当たり前のように引っ越しに反対したけれど、でも結局その願いをお父さんもお母さんも聞いてはくれなかった。


 お父さんもお母さんも元々はこの田舎に住んでいたから、いつかはこうして戻ってくるつもりだったらしい。


 お父さんは今、この田舎を盛り上げるんだと言って、町のイベント会社に転職して働いている。


 僕もおねえちゃんもその所為で学校を転校させられて、いい迷惑だった。


 まだ仲のいい友達もできてないし(おねえちゃんは早くも友達ができたらしい)、何より、登下校がいつもお母さんの車になるから、せっかくクラスメイトに遊びに誘われても、気軽に遊びに行くこともできなかった。


 おまけに、夏休みに入ってからというもの、僕はこの何もない田舎の片隅の家で、本を読むか、テレビを見るか、そうでなければゲームをするくらいしかやることがなかった。


 ほしい本やお菓子を買いに行こうにも、一番近いコンビニですら車で十数分、小さな寂れた商店街まで行くにも三十分くらいかかるほど遠い。


 お母さんに車を出してもらうこともできるけれど、

「また? いったい何を買うつもり?」

 そう聞かれるのが面倒くさくて、なかなかお願いする気にもなれなかった。


 お父さんやおねえちゃんとの日課であるラジオ体操が終わり、家族皆で朝ご飯を食べる。


 おばあちゃん家に引っ越してきてから、うちの朝ご飯は和食になった。

 お米に味噌汁、そして焼き魚と煮物。

 朝からこんなに食べられないし、僕はパンの方が好きだった。

 けど、文句は言わない。おばあちゃんがせっかく作ってくれたからだ。


 おねえちゃんは三日に一回は文句を言っているけれど、お母さんはその全部を容赦なく「はいはい」ですませていた。


 朝ご飯を食べ終わると、お父さんは会社に出掛ける。


「じゃぁ、行ってきます」

「いってらっしゃい」


 お父さんを見送って自分の部屋に戻ろうとしたところで、居間からおねえちゃんが出てきた。


 靴を履き、玄関扉を開けようとしたところで、

「どこへ行くの?」

 と僕はおねえちゃんにたずねた。


 おねえちゃんは眉間にしわを寄せながら、

「友達の家だけど」

「自転車で?」

「……何よ。文句ある?」

「ううん、別に」

 僕の答えに、おねえちゃんはフンっと鼻を鳴らすと、大股で家から出て行った。





 つまらない、つまらない、つまらない!


 僕はいつものように、自分の部屋でゴロゴロしながら何度も読み返した本を開いてみたり、居間でテレビを見たりゲームをしたりしていたけれど、そんな毎日にも嫌気がさしていた。


 おばあちゃんとお母さんは畑仕事に出ていて、家の中は今、僕一人だ。

 いっそ僕も二人のところへ行ってお手伝いしようかなと思ったけれど、それもそれで面倒くさかった。


 夏休みの宿題でもしようかと机にプリントの山を開いてみたけれど、全然問題を解く気にもなれないまま、ただ時間だけが過ぎていった。


 あ~あ、退屈だなぁ……

 そう言えば、自由研究なんてのも宿題の中にあったっけ。

 お父さんと話をして、このあたりの昆虫採集をしようってことになったんだったよなぁ。

 結局まだセミくらいしか捕まえてないけど、そうだ。どうせならカブトムシとかクワガタを捕まえたいな。こんな田舎なんだから、きっと大きいやつがいるに違いない。

 そうだ、そうしよう!


 僕はプリントの山を片付けると、虫かごと虫取り網を持って外に出た。


 畑仕事中のおばあちゃんとお母さんに声を掛けると、

「あぁ、カブトムシならお寺さんの境内に昔、よくいたよ」

 とおばあちゃんが教えてくれた。


 お寺さんとは、おばあちゃん家の近くの山にある、荒れ寺のことだ。

 昔はお坊さんが住んでいたらしいけれど、数十年前から誰も住まなくなって、だんだん荒れていったのだ。

 それを悲しく思ったおじいちゃんが、何年か前にある人に頼んで、お寺の境内や周りの木々の剪定を頼んだらしい。

 だけど、僕はどうにもその人が苦手だった。


 たぶん、この時間だとあの人もこの上にいるはずだ。

 そう思いながら、僕は石段を見上げた。


 おばあちゃんは「悪い人じゃないから大丈夫」と言っていたけれど、やっぱり怖いものは怖い。


 僕はしばらく悩んだ挙句、意を決して石段を駆け上がった。


 長い石段を上り切ると、そこには小さな境内が広がっている。


 すぐ目の前には草や蔦、苔に覆われた古い本堂。

 右側に目を向ければ、昔お坊さんが住んでいたらしい小さな家があった。

 ぱっと見、幽霊とか妖怪が出てきそうな雰囲気だ。

 でも、今のところ僕は幽霊も妖怪も見たことはない。

 そんなもの、現実に居るはずがない。


 僕は何となく、あの人の姿を探して辺りを見回す。


 木々に覆われた本堂の周りを歩いていると、がさがさと音がして、すぐ近くの藪からその人が姿を現した。


 まん丸い大きな眼。

 への字に曲がった大きな口。

 長い髪を頭の上でお団子のように結んだ、変な髪型。

 そして、お父さんなんて目じゃないくらいに太い腕や脚。


 まるで何かのスポーツ選手みたいにがっしりとした体形のそのおじさんは、金剛さんという名前だった。


 背丈はお父さんよりちょっと大きいくらい。

 肩幅も広く、ムキムキの筋肉に薄汚れたシャツを着て、切り落とした枝や幹をその肩に担いでいる。


 金剛さんは僕の姿に気づくと、その大きな眼をさらに大きくして僕をじっと見つめてきた。


 そのあまりの迫力に立ちすくんでいた僕に、金剛さんは低い声で、

「……あまり奥には行くなよ」

 そう言い残して、石段を下りていった。





 ……結局、僕はカブトムシもクワガタムシも見つけることができなかった。


 代わりにいたのは、何だか気持ち悪いムカデみたいな虫と蟻、そしてカナブン。


 もうちょっと探してみようと思ったのだけれど、大きなスズメバチの姿が見えたので、逃げるようにして帰ってきた。


 高く昇った太陽の日差しがとても暑くて、だらだらと汗が噴き出してくる。


 畑に目を向けると、そこにはもうおばあちゃんもお母さんも居なかった。

 どうやら家に戻ったらしい。


 僕は玄関先に虫かごと網を置くと、ドアノブに手をかけた。


 ふと脇を見れば、一本のホウキが立てかけられている。

 魔女が乗っていそうな感じの、あのホウキだ。


 こんなホウキ、うちにあったかなぁ?

 思いながら、僕は玄関の扉を開けた。


 お母さんとおばあちゃんの長靴と、それから――このサンダルは誰のものだろう。

 見覚えのないその履物に、僕は首を傾げる。

 おねえちゃん? でも、こんなサンダル持ってたっけ……?


 僕は靴を脱ぐと廊下を抜け、台所へ向かった。

 そこにはおばあちゃんとお母さんがいて、お昼ご飯の準備をしている。


「ただいまぁ」

 そう声をかけると、二人とも振り向いて「おかえりなさい」と返事した。


「ちょうど良かった。翔、ちょっとお茶準備してくれない?」

「お茶? いいよ」


 僕はコップを三つ用意すると、それらにお茶を注ぎ、テーブルの上に並べていく。


「あぁ、違うの」

 とお母さんに言われて、僕は「え?」と首を傾げた。


「縁側よ」

「縁側?」

「そう」

「どうして?」


 そこでお母さんはふふっと笑い、

「行けばわかるわ」

 そう言ってお母さんは、お茶の注がれたコップが二つのったトレーを、僕に渡してきた。


 わけもわからないまま、僕は縁側までお茶を運ぶ。


 居間を抜けて縁側に出ると、そこには開け放たれた掃き出し窓に腰掛ける、ひとりの女の人の姿があった。


「――あ」

 思わず出た僕の声に、女の人は振り向く。


「あ、翔くん。久し振りですね、元気にしてましたか?」


 そう言って、真帆ねぇはにっこりと微笑んだ。

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