「もう、やめてくれよ。僕、那由多さんがそういう人だなんて思わなかったよ」
「じゃぁ、どういう人だと思ってたの? もっとおしとやかで大人しい、そんな理想の女の子みたいに思ってたわけ? は、笑わせるわ」
「そ、そうじゃないけど……」
神楽君は指をもじもじさせながら、口を尖らせる。
くそう、なんていちいち動作の可愛らしい男! 男にしておくのが勿体無いわ!
「と、ところで那由多さんはこんな所で何してるの?」
誤魔化すように神楽君が話題を代えて、私もそっちの方に意識を戻す。
「あんたをつけて来たに決まってるじゃない」
「え…… ストーカーだったの、那由多さん」
神楽君の顔が引きつる。
あぁ、そう言えばそうか。私がやってる事ってもろストーカーじゃん。
そうか、ストーカーか。
将来の夢。立派なストーカーになる事。
ははは、なかなか格好いいじゃないの。
「んなわけないでしょ」
と私は自分のその考えもろとも否定して、神楽君の襟首を掴む。
そして思いっきり顔を近づける。
それはもう、このまま押し倒してキスしてやろうかってくらいの勢いで。
「あんたの正体を突き止めるために決まってんでしょ?」
「ちょ、那由多さん、顔が、近い」
眼を白黒させながらあたふたと慌てふためくその姿のなんて可愛らしい事!
ほんとにこのまま食べちゃいたいわと思いつつも、私は掴んでいた襟を放してやり、
「さぁ、白状しなさい。あんたは何者? 幽霊? 魔法使い? それとも、狸?」
「な、なに言ってるんだよ、那由多さん。普通に考えてよ。そんな、幽霊も魔法使いも存在しないし、狸だって人を化かしたりなんかしないよ」
「それは普通に考えればのハナシでしょ? あんたはどう考えても普通じゃないじゃない。人の目の前でいきなり霧みたいに消えるわ、そこにはなかったはずの部屋を出すわ、おまけにマンションの部屋数を変えてしまうわ。いったい、どうやったらそんな芸当ができるわけ?」
「ちょっと待ってよ。全部那由多さんの思い込みだよ、僕は関係ないよ」
そう体いっぱいに否定する神楽君の襟首を、私はもう一度掴んでやる。今度はさっきよりももっと顔を近づけて、息もかかるくらいの距離で、
「そんな言い訳が通用すると思ってんの?」
できるだけ低い声で言ってやった。
神楽君からは何かハーブのような良い香りがして、私はしばらくの間この状態のままにしてやろうと思った。
「だ、だから顔が近い――」
「答えなさい!」
神楽君は「ひぃっ」と叫び、襟首を掴む私の手を無理やり引き剥がしにかかる。
こんちくしょう。逃がしてなるものか。
思った私は、
「これならどうだ!」
思いっきり、神楽君にキスしてやった。それはもう押し倒して馬乗りになってやろうってくらいの勢いで、神楽君の息を止めて窒息死させるくらいの力を込めて。
思ったとおり神楽君はしばらくして顔を真赤にして暴れだした。
仕方がない、これくらいにしてやろう。
「ぷはっ!」
私は神楽君の唇から自分の唇を離すと、胸いっぱいに息を吸った。神楽君も息苦しかっただろうけど、私も息苦しかった。これぞ痛み分け。まぁ、鼻で息してただろうから死ぬ事はなかっただろうけど。
神楽君は肩で息をしながら、涙目で私を睨む。
むぅ、その苦しそうな顔もなんて可愛らしいんだろう!
「さぁ、白状する気になった?」
「じょ、冗談じゃないよ!」
神楽君はそう叫ぶとばっと立ち上がり、突き当たりの部屋へ駆け出していった。
むむ、私から逃げようなんて百年早い。自慢じゃないけど、私は足が速い。それはもう、運動会では必ずリレーのアンカーになるくらいには速いのだ。
私は神楽君のあとを追っかける。
神楽君との距離はどんどん縮まるばかり。とことん神楽君は運動神経が鈍いんだなと思いつつ、同時に考えたのは運動神経ってどこにあるんだろうってことだった。
「ほら、捕まえた!」
私は神楽君の背中に思いっきり飛び込んでやった。すると神楽君は「うわっ!」と叫んで前のめりに倒れ、顔面をしたたかに廊下に打ち付けてしまう。
これには流石の私もしまったと思った。
「あ、ごめん、やりすぎたね」
私は心配になって、神楽君を助け起こす。
「いててて……」
神楽君の鼻先は擦れて剥けており、痛そうだった。
「ごめん、ごめんね」
私は神楽君の腕を優しく掴んで、心の底から謝った。
ここまでするつもりはなかった。自分がとことん嫌になる。
だけど――
「な、なに、どうしたの、那由多さん!?」
私の眼は、何故か神楽君の鼻先の傷に向けられていた。
そして思わず顔を近づけ、その傷をぺろりと舐めていた。
口いっぱいに、神楽君の鉄のような味の血が広がる。
怪我をしているのを見ると舐めたくなるのは小さい頃からの癖だったけど、他人の傷を舐めたのはこれが初めてだった。
我ながら恥ずかしい事をしてしまったものだ。
火が出るくらい顔が真赤になっていくのを感じていると、神楽君はくすくす笑う。
「ちょ、なに、いったい?」
「ごめん、ごめん。ちょっと、犬みたいだなって思って」
「ば、馬鹿にしないでよ、私は人間よ? 痛そうだったから舐めてあげただけじゃない」
「でもね、那由多さん。那由多さんってやっぱり強引すぎるんだよ。人のあとをつけてきたり、いきなりキスしてきたり、背中から押し倒してきて謝るかと思えば、怪我したところを舐めてきたり。それって、普通じゃないよね」
「――うん、ごめんなさい」
「僕が相手じゃなかったら、とっくに警察に通報されてたと思うよ?」
「……そうだね」
まったく、私はなんて馬鹿なことをしてしまったんだろう。こんなつもりじゃなかったのに。
「那由多さんは、僕の事が好きなの?」
その言葉に、私は無言で頷く。それは本当の事だったし、加えて言うなら、実はこれが始めての恋愛だったりする。生まれて初めて好きになった相手がどう考えても普通じゃなくて、もっとよく知りたいと思ったが為にこんなことをしてしまったわけなのだけれど、今更こんなに後悔するだなんて。まさに、後悔先に立たずだ。
「僕も、那由多さんのこと好きだよ」
その一言が、私の胸に大きく響く。
「ほ、ホントに?」
私は思わず、聞き返していた。
「うん。僕と付き合ってくれる?」
その言葉が、まさかこんなに嬉しいものだったなんて思ってもみなかった。あぁ、もう、この感情はどうしたらいいの? どう表現すればいい? あぁ、そうか、こういう時こそ!
「神楽君!」
私は神楽君の首に腕を回し、抱きしめるように、もう一度神楽君にキスをした。
今度は神楽君は逃げようとしなかった。それどころか、私の背中に腕を回し、抱きしめてくれる。
それからしばらくキスを交わしつづけたあと、顔を離した神楽君の第一声はこうだった。
「那由多さんって、胸大きいんだね」
私は思わず、神楽君の顔を力いっぱい殴っていた。