「危機は脱出されました。呼吸も、脈拍も、正常に戻っています」
ベッドに寝かされているイーサンの体を慎重に改めて、医師は国王に太鼓判を打った。
一方、ベッドのそばに置かれた椅子には、青ざめた顔をして、椅子にもたれかかる聖女クラリッサの姿があった。
「聖女殿、この度は本当に助かった。感謝する。あなたもお疲れのようだ。今日はゆっくり休むといい」
「……もったいないお言葉でございます、国王陛下」
クラリッサは最後の努力で立ち上がり、国王に向かって、お辞儀をした。
しかし、それが精一杯だった。
国王と医師が退出した後、クラリッサは、意識を手放したのだった。
* * *
「……クラリッサ様、気がつかれましたか」
クラリッサが目を覚ますと、そこは簡素な家具が置かれた、神殿にある聖女の部屋だった。
付き添ってくれていた護衛騎士が水の入ったコップを手渡してくれる。
「今日は、治療はお休みです。国王陛下から許可ももらっています。せめて一日、ゆっくりと休んで、お体の回復に務めてください。……わかっているでしょう、クラリッサ様。準備はもうできています。あなたの命令があれば、今すぐにでも、あなたを王都から逃がすことができるのですよ」
クラリッサは水を飲むと、そっと首を振った。
「わかっているわ。でも……もう少し待って。イーサンを、この状態のままにしておけないわ」
「クラリッサ様、時間はあまりないのですよ? それはあなた自身もご承知のはず。あなたの体は、長年の酷使で、もう回復が見込めないほど、魔力が枯渇しています。このままでは、大きな聖魔法をあと一回使っただけで、あなたはもう、死んでしまうかもしれない。だから、その前に……」
クラリッサはじっと騎士を見つめた。
「わかっているわ。信じて。だからこそ、もう一度、イーサンに会いたいの。協力してちょうだい。最後のお願いよ。イーサンに会ったら、その後は、もう、あなたの言うことを聞く。約束するわ」
クラリッサの青い瞳は、瞬く間に透明な水で覆われていく。
それはまるで、美しい海のよう。
確かに美しい。
しかし、その海にあるのは、静かな
騎士は苦しげに顔を背けた。
「承知いたしました。聖女様。あなたのお望みのままに」
もう一度、イーサン王子に回復魔法をかけたい、という聖女クラリッサの願いは即座に許可された。
イーサンの寝室に案内されながら、クラリッサは、周囲の光景を新たな視線で眺めていた。
いつも何気なく通り過ぎていた、王宮の回廊。
白と金で統一された、何て美しい場所だったことだろう。
行き交う紳士淑女達。
幸せそうに着飾った可愛い子ども達が庭に駆け降りようとして、叱られている。
遠い日の、イーサンと自分の姿が重なった。
「聖女様」
「聖女様」
気軽に声をかけてくれる人々に、クラリッサは微笑みかける。
緑の映える庭園は、手入れが行き届いている。
もっと時間を作って、庭園の散策を楽しめたらよかったな。
胸の痛みをこらえながら、クラリッサは微笑み続けた。
最後にもう一度、神殿に行って、お世話になった皆に挨拶しておきたかった。
それから、神殿で、治療を待っているたくさんの人々———。
もっと何かができたかもしれない、という苦しい想いとともに、湧き上がってくるのは、自分を支えてくれた人々への、感謝の想いだった。
護衛騎士が、クラリッサの荷物を持って、背後に従ってくれている。
「聖女様、おわかりですね? 今日で、最後です。殿下の治療を終えた後は、そのまま———。着替えのお衣装も、ここに用意してあります」
護衛騎士の低い声に、クラリッサは、うなづく。
「わかっているわ」
イーサン王子の寝室の前には、二人の騎士が立っていた、
クラリッサの姿を見ると、敬礼をして、ドアを開けてくれた。
クラリッサは、イーサン王子の寝室に入った。
* * *
「イーサン王子殿下?」
クラリッサは、窓際に置かれたソファに座っているイーサンに、そっと声をかけた。
起き上がれるようになったのは、いい兆候だ。
「イーサン王子殿下、聖女クラリッサでございます。最後の治療に参りました」
しかし、イーサンの返事はない。
不審に思ったクラリッサは、失礼します、と断ってから、急いでイーサンの手を取る。
自分の魔力を流して、イーサンの中を探ったクラリッサは、衝撃のあまり声を上げた。
「嘘よ……!」
護衛騎士が、慌ててクラリッサに駆け寄り、そっと口をふさぐ。
「聖女様、しっ、危険です。落ち着いてください」
「イーサンが」
クラリッサが震えながら、なんとか話そうと言葉を探していた。
「イーサンが、いないの。イーサンの心は空っぽだわ。これは抜け殻。イーサンはどこかに行ってしまった。イーサン……イーサン! ……イーサン!!!」
クラリッサは、ぼんやりと自分を見つめるイーサンを思わず抱きしめた。
不思議そうな顔をしたイーサンだったが、やがて目を閉じると、まるで安心した子どものように、クラリッサの肩に自分の頭を預けたのだった。
* * *
イーサン王子の部屋で、聖女クラリッサは、最後の決断をした。
聖女には、秘密があった。
それは、国王一人しか知らないこと。
それゆえに、聖女は人々を回復魔法で癒す以外に、密かに国王のために働き続けていたのだった。
クラリッサは、大聖女のみが使える、とされる『最大の聖魔法』を使う能力を持っていた。
「時を戻す魔法を、使いましょう」
クラリッサは、心を決めて言った。
「回復魔法は、イーサンの体は癒せても、イーサンの心は取り戻せない。時を戻す魔法を使って、王妃様がイーサンに毒薬を飲ませる少し前まで、時を戻すの。イーサンが王妃様と十分な時間を取れれば、運命は変わるかもしれない」
クラリッサはイーサンの机から小さな紙を二枚取ると、ペンを取って、流麗な筆致で、文章を書いた。
一枚には、ただ『母君を助けよ』と書き、イーサンの手に握らせた。
もう一枚にはもう少し長い文章を書く。
『聖女クラリッサの護衛騎士カエンよ、目覚めたら、クラリッサを連れて逃げよ。辺境の街シストへ行け』
「この紙を握っていて。あなたは次に意識が戻った時、このことを覚えていないわ。だから、書いておくの。わたくしを連れて、逃げなさい。わたくしはおそらく、もう魔法は一生使えない。生きていたらラッキーよ。魔力が枯渇して、死んでしまうかもしれない。どちらにしても、わたくしを連れて、逃げなさい。いいわね?」
護衛騎士は呆然として、クラリッサを見つめる。
「時を戻す? それでは、もし、成功したら、王子は……」
「魔法をかけた相手の記憶からは、わたくしの存在は全て失われるの。だから、イーサンはわたくしのことは一切、覚えていないでしょう。でも、いいのよ」
クラリッサは、淡く微笑むと、無言でソファに座っているイーサンにかがみ込んで、そっと額にキスをした。
「イーサン。お元気で。あなたと過ごした子ども時代は、最高だったわ」
やんちゃな赤髪の男の子が、舌足らずに呼んだ「クラリス」は、クラリッサの秘密の愛称になった。
クラリッサとイーサンだけが知っている、宝物だ。
いたずらっぽい表情で笑い、クラリッサはイーサンの正面に立った。
クラリッサの両手が、迷いなくイーサンの肩にかかる。
まばゆい光が部屋中に溢れ、そして、一切の音が消えた。