「そういえば、アイシス。例のハーキュリーズの賢者がどうなったんだ。鉄拳のエイレネとやり合って、あのまま撤退したのか?」
「うん、そうみたいだ。しかし、奇妙な報告がひとつあった」
帝国の支援と偽って内部からの崩壊を企てたハーキュリーズの勢力は、その死体すらひとつも残さず帝都から姿を消した。間違いなく殺害したはずの敵兵までもがいなくなるといった事態は、死体が自ら歩いたのではないかと囁かれた。
「死体が歩いた……ってか。そいつは確かに奇妙な話だ。本当は死んでいなかったか、あるいは別の何かによって処理されたか。お前はどう思う?」
「正直なところ分からない。でも、可能性が高いのは賢者。カラノスがなんらかの手段で回収したと考えてる。それ以外はまだ見当もつかない」
だろうなとオーエンも納得する。カラノスはあまりにも快楽主義的で、自分のやりたい事をやりたいようにする男だ。もし相応の理由があるとするのなら、帝都中の死体を回収するのは可能だと判断できる。問題はひとつ、エイレネの相手をしながらどうやって死体を回収して撤退したのか?
「ふむ……。まあ、今さら騎士をやめた俺たちには関係ないかもしれないが、少し気になるよな。これから世界は風向きをどう変えていくんだか」
「それも含めて、旅とは楽しむものじゃないかな。私は期待してる」
絶対に良くなるとは言えない。もしかすると単純に楽しむ事ができない日がやってくるかもしれない。今回はモリガンの願いを支持して己が剣を捧ぐ事もしたが、今後が本当に彼女の願い通りに進めば良いし、進まない事も考慮する必要がある。ウィスカ帝国の大きな後退で世界の情勢もまた変化したのだ。
今では列強の頂点としてナミルが名乗りをあげ、アルインは変わらず自分達の利益主義の中立を貫く予定だ。ハーキュリーズは沈黙しているが、エイレネによって大打撃を受けた事も理由のひとつになっている。
「そういえば、お前は貧民街出身だったか。どんな生活だったんだ?」
「さあ。辛い記憶はあまりないな。ただ……皆が私に期待したから、必死になって剣を振ったよ。楽しいとは思わなかったけど嫌じゃなかった」
切っ掛けはもう覚えていない。剣の才能があって、それが周りに認められるから選んだ。騎士となったときは、これで正しいと思った。一度目は皇帝の為に剣を捧げ、二度目は皇女のために剣を捧げた。
そして全てが終わった今は、誰の為でもなく自分のために剣を捧げた。これから目指すのは、誰かの騎士としてのアイシス・ブリオングロードではない。自分の信じる騎士としてのアイシス・ブリオングロードとして世界を旅するのだ。
「心残りがあるとしたら、貧民街の人たちには何もしてあげられなかったな。彼らがいなければ、私の才能が見出される事もなかったんだから」
「……それなら安心してもいいと思うぞ。元々リーアムは貧民街に対しての人道的措置の実行についてはよく考えていた。彼らは別に国家転覆を狙う輩というわけでもなかったから、出来る限り帝都を治安良くしたいとは話してたんだよ」
貧民街の人間による国家転覆など行えるはずもなく、臆病だったリーアムも貧民街については敵視をした事がない。むしろ税を投入して彼らが人並みの生活に戻れるよう取り計らないながら、帝都内部での不満の声を少しでも小さくしようと努力はした。結局、まだうまくはいっていないが、第三皇子が玉座に就いたことから、それも今後の目玉として機能するはずだとオーエンは熱く語った。
「政治が好きだな、オーエンは。やはり帝都が似合ってたかな?」
「まさか。こんな片腕じゃ、お前のように命を狙われておしまいさ。俺はお前以上に恨みを買う相手が多い。だったら旅に出る方が性に合ってる」
与えられている爵位のために、命を狙われて日々を不安に過ごすなど考えられない。片腕ではリーアム以上に怯えて過ごす事になる。だったら安全は保証されなくとも、命を狙われるといった危険から遠ざかった方が心は穏やかだ。
なにより傍には頼りになる相棒までいる。恐れる事など何もあるものか。今はとにかく楽しみたいという気持ちを胸に抱き、流れる帝都の景色を眺めた。
「それに、なんだろう。滅多と帝都を出る事もなかったから、もし戻ってくるとしても、これがひとつの良い息抜きになる。お前と一緒だと退屈しない」
必要ない苦労もするだろう。雨に降られてずぶ濡れになり、はねた泥で汚れる事だってある。暑い日には汗で蒸れて気持ちが悪かったり、寒い日には凍えて眠る夜もある。それもこれからは良い思い出に繋がるのなら悪い気はしなかった。
「改めて、これからよろしく頼むよ、アイシス。────相棒として」
「もちろん。こちらこそよろしく、オーエン。目いっぱい楽しもう」
アイシスは前を向き、とても明るい表情を浮かべた。
自分の為に邁進すると決めた彼女の横顔はとても輝いて見える。
「(自分のために剣を捧ぐ、か。それも面白いよな。でも俺には性に合わない。参謀ってのは常に二番手、三番手にいるものだ。だとしたら俺は誰の為に剣を捧ぐべきかな。────まあ、お前のために頭を使うのも悪くない)」
隣で楽しそうに鼻歌を歌う、かつての規律主義的な騎士団長様の姿はない。今はどこにでもいる普通の少女に見える剣の天才を傍に、男はくすっと笑った。