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第38話「賢者カラノス」

 滲む狂気。目の前にいる男が、アーシャは心底嫌いだった。強者とは常に余裕がある。弱者を踏みにじるのは強者のする事ではない。だから、敵も味方も関係なく、なによりただ快楽的に殺人行為に勤しむ男の無遠慮な行いが気に入らない。はやく死ねと呪いさえする。


「失せよ。吾はてめえなんかと遊ぶ気はねえ」


「そうか? だけど嫌でも相手する事になると思うぜ、俺は」


 騒然としているのは帝都の北門だけではない。耳をすませば、あちこちから戦いの音が響いてくる。剣がぶつかり合い、炎が燃えあがり、悲鳴と怒号の混じった声が聞こえる。まだナミルの民も進撃しきっていないのに、だ。


「……ッ!? まさかてめえ、最初から帝都を────!」


「そのまさかだよ、アーシャ。帝国は前から邪魔だったからなぁ」


 既に帝都は内部から崩壊を始めている。ハーキュリーズはウィスカ帝国を裏切った。助けるつもりなど元よりなく、ナミルの民が出張ってくると分かった時点で、どちらを沈めるかは決まったようなものだった。


「まあ、俺たちは皇帝なんぞに興味はない。この帝都を制圧できればそれでいい。だけど、あんたが来るとあっちゃあ、話は別だ。違うか?」


「そうじゃのう。てめえらにくれてやるには惜しい国じゃ」


 どちらも帝都は譲れない。特にアーシャは、帝国の存続が望ましかった。ナミルという砂漠地帯は発展において後れを取っているのも事実。モリガンが実効的支配に置きさえしたら、ナミルも大きな援助が期待できた。


「(問題はコイツじゃ。帝都に現れるまではいいが、此方の目的は第三皇子の保護と皇帝および第一、第二皇子の確保。うまく行くとええがのう)」


槍を構えて臨戦態勢を取る。賢者相手は本気で戦わねば命はない。


「アーシャ、これは何が起きているんですか!?」


 呼ばれて振り返れば、アイシスとクイヴァが走ってやってきた。


「なんじゃ、てめえら。馬はどうした」


「それが……大岩が飛んできて、躱すのに精いっぱいで」


 そういう事か、と男を睨む。彼は素っ頓狂な顔で自分を指さす。


「俺、何か悪い事しちゃったかい? そりゃすまんね。じゃあお詫びに通っていいよ、別嬪さんには手を出さないのが俺の主義なんだ」


「待てコラ、吾にはすぐ喧嘩売ってきたじゃろが。吾は可愛くないんか」


 道を譲ろうとする男にキレるも、彼は何食わぬ顔でそっと道から退く。


「可愛いとキレイは違うだろ。俺はキレイな人の方が好みなのさ。……まあ、あんたは顔は可愛いと思うが、残念ながら可愛げはないんだよなぁ」


「よーし、そこを動くなよ。吾が殺してやる」


 クイヴァは男の底知れない瞳にぞわっとして尋ねる。


「アーシャ。さっきから君が喧嘩を売られている相手が……」


「おう、あれがハーキュリーズの賢者。名をカラノス」


 カラノスがニコッと笑って手を小さく振った。


「ぜひ覚えて帰ってくれよな。生きてたら……っつっても、あんたらが死ぬ事はなさそうだが。ほらほら、皇帝を捕まえたいなら急げよ。マクリール公ならさっさと行っちまったぜ。獲物は取られたくないだろ?」


 行け、と言われてアイシスとクイヴァは顔を見合わせる。今は先を急ぐ他ない。でけなれば、オーエンが皇帝を逃がしてしまう。


「行きましょう。ここで取り逃がせば水の泡です」


「ああ、そうだね。急ごう!」


 皇宮を目指して走り出す。ちょうど、横を通り過ぎようとした瞬間、アーシャは突然、それまで隠されていたカラノスの殺気にハッとする。眼鏡の奥で笑う瞳は、アイシスたちを追いかけた。懐に手を伸ばして、彼女たちを仕留めようとナイフを取り出した、そのとき────。


「しゃらくさいのう、小僧が」


「チッ、あんたがいると上手く行かねえな……」


 美しければ襲わないなど嘘だ。感情の読めない男の飄々とした立ち振る舞いに騙されて、ひとまず言葉を鵜呑みにすれば首が飛ぶことになる。


「アーシャ!? 大丈夫ですか!?」


「うるさい、行け! 今のてめえにコイツは相手できん!」


「……っ、わかりました! では後で会いましょう!」


 アーシャを残して大通りを走る。決して振り返らない。仲間を信じて、今はただ突っ切るのみ。どこもかしこも、帝国とハーキュリーズの兵が争っていて彼女たちを妨害している暇はなく、皇宮までの道程はあっさりとしたものだ。


 何人かの襲撃はあったものの、アイシスとクイヴァの敵ではない。嫌と言うほど味わったナミル式の訓練によって彼女たちは以前にも増して強くなった。


「クイヴァ、地図は頭に入っていますか?」


「もちろんだとも、マ・シェリ。謁見室に行こう、隠し通路がある」


 いざというときの避難経路。限られた人間のみが知る道であり、クイヴァもまた、アイシスと同様に皇帝に重用された優秀な騎士のひとりだ。まさか裏切られているなどとは、到底頭にもなかったはずだと彼女は笑う。


「謁見室の玉座の下に隠されてるから、君は皇帝を追うんだ。私は手筈通り、第三皇子が避難しているはずだから迎えに行ってくるよ」


「えぇ。どうか、ご武運を。後で会いましょう、クイヴァ」

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