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第36話「公爵の覚悟」




「話が違うだろう、どうなっている!?」


 議場で円卓を叩きつけ、木槌を握りしめる手をわなわな震わせた。皇帝リーアムは酷く不安に彩られた顔色をして、今にも倒れそうに見える。


「落ち着いてください、陛下。私も今しがた報告を受けたところです。既にナミルの軍勢が北門を目指して侵攻中だそうですが、数はたかが五百。ウィスカ帝国騎士団の名に懸けて、必ずや勝利を掴んでみせましょう」


 落ち着いた様子で胸に手を当てて、笑みさえ浮かべるオーエンは、今やリーアムの隠剣かくしつるぎとして傍に仕えた。フェルトンやアイシスといった実力者を失い、裏切られたとさえ──実際には逆だが──思っている男は、もう誰も信用できないほどに精神的に参っているのだ。支えになる人間は、常に彼の味方をし続けてきたオーエンだけになっていた。


 その彼でさえもが、実際のところ裏切っているのだが。


「では失礼いたします、陛下。いざというときは近衛隊を連れてお逃げください。既にハーキュリーズからの兵にも帝都の警備に当たって頂いております」


「……うむ。うむ、そうか。であれば余も逃げず、ここで待っていよう」


 深くお辞儀をしてからオーエンは議場を後にした。感情は冷たく、そして苛立ちばかりが強く熱された。


「(役立たずのジジイめ。甘やかしたガキ共と一緒に逃げるつもりのくせをして……。あれで若い頃は帝国随一の騎士だったとは驚きだな)」


 どれほど優れた腕であっても過去の栄光か、と呆れるほかない。民に愛想を尽かされ始めているときなのだから、多少の無理はしてでも取り戻すべきものがあるだろうと怒りすら湧く。


「公爵閣下、予定よりも早くナミル軍が迫っています。北門を突破するつもりとみられ……公爵閣下? いかがなさいますか?」


「あ。悪い、少し考え事を。帝都の門は全て閉じさせろ。連中を絶対に中に入れるなよ。北門に集まっているのなら、万が一に備えて俺も加わる」


 帝国で最も強い騎士。オーエン・マクリールの出陣とあらば、敵なしだと信じて下級騎士の男が「承知いたしました!」と意気に満ちた様子で駆けていく。だが、オーエンはそれを酷く愚かな姿だと舌打ちする。


「(ばかばかしい皇族共の争いのせいで、余計な連中まで呼び寄せてしまった。ナミルで五百なら、アルインはその六倍はいる。ハーキュリーズの協力を得ているとはいえ、かなり厄介な状況なのにヘラヘラ笑いやがって)」


 緊張感がなさすぎる。帝国はまるで勝利を当たり前のものとしているかのように信じている。神を信仰するのと似た感情なのだ。ウィスカ帝国はこれまで敗北を知らない。どのような戦場においても結果を残している。


 コノール襲撃に関しても、当初の目的であった制圧こそできなかったが、間違いなく大打撃を与えた。それが彼らの信仰心を助長した。不敗神話が如く、ウィスカ帝国の騎士団があれば向かうところ敵はない、と。


 しかしどうだ。オーエンからしてみれば、コノールの戦いは敗戦と言っていい。せめてアイシスもしくはクイヴァを仕留めていれば違ったかもしれない。だが、結局はアルイン公国軍の増援によって撤退を余儀なくされた。


 もし不敗神話が真実なら、そこで退く理由はないのだ。負けると分かっているからこその撤退。結果、コノールにはアルイン公国のみならず、いくつかの小国に加えて列強の最大勢力とも言えるナミルまでもが参入した。


「(こちらにハーキュリーズの賢者を抱き込めたはいいが、おそらくナミルの首長が出張ってくると思うと胃が痛む。戦力的には互角になるだろう)」


 うわさには聞くナミルの大英雄。たったひとりで千人を殺害した怪物。実際、記録にもある。十年以上も昔に起きた、戦争の記録だ。


「俺の悪運もここまでかもな」


 深呼吸をする。冷や汗がじわりと滲む。


 いくつもの戦場を経験した。オーエンも決して若き公爵として地位だけで出世してきたわけではない。だからこそ分かる。死期が近い。どこでどう死ぬかなど未来は分からないが、自分の死に際は弁えていた。


「閣下。冷たい顔をされております」


「……マカオン。お前も不安そうな顔だぞ」


 マクリール公爵率いる帝国第二の剣、副団長を務めるのがマカオンだ。冷静沈着で、オーエンの頼れる相棒。誰よりも信頼を置く男。そんな彼が冷静の中に不安と焦燥を抱えているのを見逃さなかった。


「分かりますか。なにせ相手は列強二国と連なっての進軍です。……いくらハーキュリーズの手を借りているとはいえ、地の利もなければ、帝都に詳しい者が何人もあちら側にいると考えれば、胸が苦しくもなります」


 まったくだとオーエンは初めて笑った。危機的な状況を憂いても何も変わらない。彼の言う通り不安で息も詰まりそうだったが、同じ気持ちの人間がいると分かっただけで、ほのかに身が軽い気がした。


「出来るだけの事はするぞ、マカオン!」


「はい、閣下。どこまでもお供します」


 羽織の裾をふわっと舞わせて、力強く歩きだす。もう怖くはない。たとえ死ぬとしても、遅いか早いか。いずれは自分もどこかで力尽きた。分かっている。だから、もう構わない。全力で帝国に忠を尽くすと誓ったから。


「俺たちが生きるか死ぬか、最後まで抗ってみようじゃないか」

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