剣聖のみが正しく覚醒しておらず、その強さに片鱗はあるものの、いまだ境地に辿り着いていない。一方、アーシャは既に槍を操る者として最強と名高い『勇槍』を名乗り、また姿こそ見せていないが『鉄拳』もまた同様に、肉体ひとつであらゆる戦場を駆け抜ける騎士である。
では『ハーキュリーズの賢者』と呼ばれるのは何者なのか。
「それほどに強いのですか?」
単純な疑問に、アーシャは深く頷く。
「強いと言えば強い。今のところは吾と互角と言ったところかのう。……じゃが、問題は奴個人の身体能力とは別にある、もうひとつの能力。吾らとはまったく異なる、あれを奴は『神秘』と呼んでおった」
願えば多くの事ができた。灼熱の風を吹かせ、叩きつけるような雨を降らせ、嵐を巻き起こす。投げた石ころは岩となる。何も持たずして、何もかもを武器とする。人間の理解とはかけ離れた存在である。それがアーシャの理解する賢者の姿。
「関われば逃げる以外では死んで当然。てめえが剣聖として覚醒しても、経験が違う。挙句どういう血の継がれ方をしたのか、かの英雄騎士の血を引きながら、ひどい人格破綻者じゃ。快楽殺人主義とでも言おうか」
対話など、とても可能とは言えない。おかしな理屈で、おかしな行動で、おかしな言動で。あらゆる面で見ても、分かりあうなどといった言葉は脆い。
「吾らナミルの民とハーキュリーズは馬が合わぬ。ゆえに突発的な戦争もあった。あるとき遣いがきて、国境沿いで吾らは対面して、小細工なしにぶつかり合う事を宣誓してから闘争を始める事になった。もちろん、奴らもそこは裏切らなんだ。問題は奴らの数が少なく、先頭に賢者がいた事じゃな」
無精ひげのある、やや清潔感に欠けた男。眼鏡を掛けた中年くらいの細身で、くすんだ緑のローブを羽織っていた。見目には弱そうだった。だが、その男ひとりが、三日三晩と休むことなく猛攻を続け、アーシャと渡り合った。もし自分が『勝てる勝負だ』と踏んで出陣していなければどうなっていた事か、と振り返る。
「……しかし、これは帝国との戦争です。賢者がどう関わってくると?」
「吾らが砂漠を出たとき、偵察隊から報告があった。帝国からの使者がハーキュリーズを訪れた、とな。それはおそらく共闘の提案であろうよ」
ナミルに負けず劣らずの好戦的なハーキュリーズは、弱った帝国を叩く事も考えるだろう。しかし、それ以上に彼らは『ナミルならば誰につくか』を考え、その逆をいって戦場に立つ。仇敵を討たんとするためには誰とでも組む。
どちら側につくか、アーシャでなくとも予想できた話だ。
「奴は必ず戦場に現れる。吾も随分と手を焼いた。敵も味方も関係ない、そこにいるもの全てが殺戮の対象。吾がいなければ全員死んでいたであろうよ」
「だとしたら、私たちにとってかなりの脅威だけど……。作戦を練り直した方が良いんじゃないかな。モリガンに改めて進言するべきだと思う」
提案としては正しい。だがアーシャはかぶりを振った。
「吾らだけが知るべき事じゃ。余計な不安要素を知らせれば、また時間をかけて作戦を練り直す事になるじゃろう。それにあの小娘は真面目がすぎる。騎士の国を創るなどと大それた事を言う程度にはのう」
もしモリガンが知れば、作戦の練り直しはともかくとして、問題は彼女の性格になる。他国からの支援を受けた以上、消耗を好まない。自己犠牲の精神を強く身に宿すからこそ、モリガンは周囲に優しさを振りまく。ときに厳しい規律で人々に指導する事があっても、彼女の良さを知る者は支える事だろう。
騎士の国。理想としては満点だ。だが現実としては零点に等しい。モリガンは徹底的で安全とも言える計画で民を、兵を守ろうとしている。哀れにも自らが前線に立とうとしてしまうほどに。
今回の基本的な計画では、ナミルやアルインとの共闘においてネストルも後方に立つので、モリガンもそれに倣うべしと前線からは退かせている。もし賢者が出てくると分かれば、計画の練り直しに加えて自身も参加しようとするのは見え透いた事。わざわざ話して、まだ見もしない敵の動向を気にかけていては掴める勝利も掴み損ねてしまう。あえて黙っているべきだと断じた。
「じゃが多少の計画変更は必要じゃな。それとなく吾から進言しておくゆえ、てめえらはゆっくり休んでおれ。特訓は今日で終わりじゃ」
軽く肩を叩いて労うと、アーシャは稽古場を出ていった。
しばらくの静寂。顎に手を添えて、クイヴァはうーんと首を傾げる。
「ハーキュリーズに四大騎士の末裔がいるなんてね。もちろん、アーシャの事も驚いたけど……。君はどう思う、アイシス? やはりこのまま、彼女に任せておいて大丈夫だと思うかい?」
結局は他国の人間だ。クイヴァも、手を貸してくれる事に感謝こそすれど、裏切らないとも限らないと全幅の信頼は置いていない。
しかしアイシスは逆だ。彼女こそ信頼に値すると本能が告げた。
「問題ないでしょう。……彼女は民以前に、人そのものを大切にしておられる。何があっても裏切りませんよ、あのお方を信じましょう」