それぞれ自分の部屋に戻り、支度が済んだら玄関に向かう。アイシスは自分のトランクの中に詰め込むものが着替え以外にない事を、少しだけ残念がった。家族との思い出はなく、貧民街でもらった銀のバレッタは傷だらけで使い込んでいる。そろそろ新しいのを買いたいと思っても、時間的余裕がなかった。
「(新人の頃、戦場では髪が邪魔だから切ってしまえとよく言われたな。レイノルズ卿が許可をくれなければ、上官の手で切り落とされていただろう)」
もう遠い思い出だ。自分の命を救うのと引き換えに、フェルトンは処刑された。二度と言葉を交わす事はなく、罪人として扱われた彼の墓が立つ事もないので、墓参りにも行けない。悔しい気持ちが途端に押し寄せてきた。
「すまない、レイノルズ卿。私が余計な事を相談しなければ……」
背中を預けた、あの運命の日。剣を握らされて走った後、誰も追いかけてこなかったことに違和感はあった。しかし、落ち着かない思考は彼女にフェルトンの無事を信じさせた。呼吸が穏やかになり、そのときに初めて自分の手の中にあったのが、彼のお気に入りの剣であるのに気付かされて、ひどく打ちのめされた。彼は最初から剣など拾ってはおらず、自分の剣を託したのだ、と。
「(泣いてはいられない。彼が救ってくれた命だ、ひとつくらい何か報いられるように、今はとにかく行動すべきだな)」
トランクを閉じて鍵を掛ける。何かを成すために、別の何かを成さねばならない。帝国は好きだ。人々の日々の営み。行きかう馬車が荷台を揺らすのも、酒飲みが夜になって出歩いて、歌い踊って、ときどき喧嘩するのも日常茶飯事。それを諫める騎士たちの困った顔は、新人だった頃の自分にも重なって面白い。
そのすべてを奪われた。だからまずは取り返す。自分にはどんな人生が待っているのかは分からないが、少なくとも命を狙われたまま生きるのは嫌だから。
現皇帝が背負う帝国は、もはや私物化して没落の一途を辿るだろう。代が変わったとしても、第一皇子や第二皇子では何も変わらない。オーエンの思い描く未来が形成されるのはなんとなく気に入らないが、今よりはマシだと思った。
準備を終えて玄関で待っていたクイヴァの肩に優しく触れて「行きましょう」と前を歩く。他国を戦地として赴くのは幾度もあったが、交渉のために訪れるのは初めてだ。不安と期待の混じった興味が尽きなかった。
「エトネン河っていっても広いから、多分モリガンが待ってるのは公国側の水門あたりだろう。ここからはそう離れてないし、すぐ着きそうだね」
「緊張します。交渉役に抜擢されるとは思いませんでした」
それはそうだろう、とクイヴァも納得すぎて頻りに頷いた。
「実力主義のアリアンロッドには縁がないものだから当然だ。でも、今の君は『ただのアイシス・ブリオングロード』ではないんだよ。帝国の剣、その最高峰である剣聖なんだ、重圧は感じるだろうけど、君以外に大公の首を縦に振らせる人間はいない。私だってモリガンと同じ立場なら、その考えに至ると思う」
いつだって戦場のど真ん中。何者かと問えば殺戮者と答えても不思議ではないほどアリアンロッドは荒くれの集団だ。それを纏めて最前線に立ち続けられるのは、彼らを黙らせられる実力者の必要がある。交渉とは無縁、ただ剣を掲げ、帝国に仇名す敵を討つべしと戦場を駆けるのがアリアンロッドの在り方だった。
非情で、冷酷に。戦火をどこまでも広げ、全てを討ち滅ぼす。それが帝国騎士団。アイシスもまさに、その在り方を示してきた騎士のひとりであり、剣聖となったの弱者に交渉の価値がないと取り合わない大公を動かすのに、彼女は誰より適任になる。彼女は各国にとって無視のできない人間になったのだ。
「しかし、私は議論というものが苦手です。交渉するにしても、ただ剣を振るって脅すなど無意味でしょう?」
「だからこそ私やランカスター卿がついていくのさ。互いに出来る事が違うからこそ助け合える事も多い。困ったときはサポートするから任せたまえよ」
ふと、アイシスは気になって顎に手を添えながら首を傾げる。
「ランカスター卿って、この国の出身ではないですよね。聞いた事がありません。騎士団にもいませんし、帝都以外からも同志が?」
「彼は正真正銘の帝国出身者だよ。母親は異国育ちだそうだけど」
なぜそんな質問をするのかと不思議になって、少し考えてからクイヴァはなぜアルテュール・ランカスターを知らないのかを理解する。
「あぁ、そっか。君は王室近衛隊の事はよく知らないんだな」
「あ────。ありましたね。いつも甲冑を着込んでいるので分かりませんでした……。存じ上げないとは、なんとも恥ずかしい」
食事や寝るとき以外は訓練と遠征で忙しかったアリアンロッド騎士団は、ただでさえ他の騎士団とも関りが薄い。王室近衛隊はおもに皇宮の守護が仕事で、アリアンロッド騎士団が帝都の巡回だったり遠征に人数を割けるのも、そういった役割分担があったからだ。アイシスはそれゆえに彼の事をまるで知らなかった。
一方、各地での事件や問題を解決したり、傭兵や盗賊などの情報を集めたり、危険分子を制圧するのに帝都で活躍するデルバイス騎士団、由緒正しき家柄ばかりが揃うブリギッド騎士団は、彼らと顔を合わせる事も多かった。
騎士団が帝国の剣だとしたら、彼らは帝国の盾と呼べる存在だった。
「ま、せっかくだ。船に乗り込んだら少し話してみるといい。あれも代々高名な騎士を輩出しているランカスター家の出身だから、少し前までの君とよく似ている。もしかしたら、君の新しい生き方とやらの切っ掛けが見つかるかもよ」
「……なるほど。確かに、自分を客観視できる良い機会です。船に乗ったらさっそく────。ああ、でも、なんと話しかけたらいいんでしょうか?」
自分から話しかける事など今までは殆どなかったし、声をかけるときは用があってなので、親睦を深めるための会話など、まるで経験がない。
「うーん、そうだね。なんでもいいから声をかけてみる事だよ。せっかくなら打ち解けてくれた方が、私も懸念が減るというものだ」