門番や謎の女性に別れを告げ、二人はようやく帰路に就く。向かった先は、町の中でも少し大きめな家だ。前庭は飾りっ気がなく質素で、およそ貴族の住む家には見えない庶民的なスタイルに留まっている。
敷地を囲む壁はやや高く、格子門の鍵は開けっ放しで防犯意識はまったくのゼロと言えたが、コノールで盗みを働けば腕一本では済まない。モリガンは悪事に対して、他者への被害を与えるものには非常に重い罰を与えた。
「さあ、入って入って。ここまで疲れただろうから、今日はゆっくり過ごそう。明日にはモリガンから何かしらの仕事を頼まれるかもしれないし」
「そうですね。まずは休んで体力を戻しておかないと」
家の中は玄関を開ければすぐにキッチンとダイニングが広がっている。クイヴァは道中で買ったパンや野菜をテーブルに置いて、椅子を引く。
「座って待ってて。サラダくらいは用意しないと寂しいからね」
「私にも手伝える事はありませんか?」
「あぁ、いいよ。今日くらいは持て成させてほしいな」
騎士の制服を脱いでシャツ一枚になると、やっと気が抜けると伸びをする。
「君も、そのかっちりした制服の上着くらい脱いでおくといい。ここは私の家だし、しばらくは君の家でもある。息の抜きどころは必要だよ」
「……そうですね。今は騎士の仕事もしていないわけですから」
古き騎士たちの習慣を見てきたもので、それに倣って過ごしてきたが、全てを彼らのように真似る必要はないのだと悟ってクイヴァの言うとおりに気を抜いてみる。これまでの自分の殻を破るのには大事な過程だが、僅かな罪悪感が湧く。
「なんだか慣れませんね。私の自宅だったら気にならないのですが」
「まあ、いきなり此処を我が家だと認知するのは難しいかもしれない」
食事の準備をてきぱきと進めながら、クイヴァは楽しそうに笑った。
「でも、なんでも最初が肝心さ。ひとまず手を出してみて、ちょっとずつ慣れていけばいい。此処は自分の家なんだって言い聞かせながらね」
「私の家よりずっと大きいのですが……」
それはそうだ、とクイヴァはけらけら笑った。両親を失ったとはいえマッカラム伯爵家の威光は変わらない。立場や見栄も必要な彼女はコノールでもそれなりの家を購入した。それが、アイシスの持っていた家の倍以上も広いのだ。
「でも君も騎士団長だったでしょ。それなりの生活はしてたんじゃ?」
「……忙しすぎて家を買う暇もなく。そもそも空けている事が多いのに、お金を掛けるべきなのかどうかでずっと迷っていたんです」
かつてはフェルトンにも言われた事だ。少しでも立派な家に暮らしていた方が騎士団長としての箔がつく、と。頭では分かっていても、使わない家なのに勿体ないような気がして、どうしても買う気になれなかった。
「まあ、今ではすっかり財産も没収されて家もないんですけど……!」
「ハハハ、悔しそうだねえ。そのうち取り返せたら一番なのに」
「それができたら苦労しませんよ、相手は皇帝陛下なんですから」
今まで命を懸けて帝国のために戦ってきた末路がこれか、と呆れるばかりだ。一度死んで、やっとひとつ変わるかもしれないと思っていたのに、そう簡単に上手く行くものではなかった。コツコツと稼いで貯蓄してきたものも全てがふいになってしまった挙句に、帝国ではコノールを除いてお尋ね者だ。
「ほかの国に移住するしかないのでしょうか」
「いやあ、現皇帝の失脚があれば変わってくるだろう」
「失脚……。マクリール公の言っていた、例の?」
「そ、第三皇子だ。彼は気が弱いし国政向きじゃない」
皇族とはいえ皇帝リーアムは第三皇子に対して非常に冷たかった。側室の子だから、出来が悪いから、そんな理由ではない。ただただ嫌われていた。最初から期待などされず、出来の良い長男と次男ばかりが可愛がられた。
だから第三皇子には教育係もつかなかった。彼に常識を叩き込んだのは母親だけ。それゆえか自分の意見もうまく言えず周囲の言葉に流されがちで、母親に縋った生き方が染みついてしまっている。公爵を筆頭に彼を担ぎ上げる派閥があるのも、そうした背景があって、扱いやすいからだ。
「おそらく実質的な権限を握るのは母親だろうね。でも、その彼女も公爵には頭があがらない。まあ、言い方は悪いけれど所詮は側室として迎えられただけの女性だ。権力を振るうには彼女もまた経験が足りない」
「となれば、やはりマクリール公が操るような形になるのですね」
皇族の傀儡化。ゆくゆくは公爵によって奪われるであろう玉座を、第三皇子は手にするのだ。仮初の権力者として。そして気付いたときには、びっしり張り巡らされた根の深さに絶望する。自分はただの養分でしかなかったのだと命を落とす寸前まで分からないまま、公爵という邪悪に呑み込まれていく。
「権力争いとは恐ろしいものです……」
「君も巻き込まれている当事者だから余計にそう思うだろう」
はあ、とクイヴァがため息をつく。
「やめよう。食事のときに暗い話は味を落としてしまう。悪かったね」
「いえ、私には気に掛けておくべき事です。おおよその話は理解できました」
手についたパンくずを払い、水を飲む。
「モリガン卿とマクリール公が繋がっている理由も分かります。……騎士の国を作るための一時的な協力関係といったところでしょうか」
「そうだね。公爵への協力の見返りが騎士国の擁立だ。だけど、」
権力争いに都合のいい話はない。たとえ見返りがあるとしても。
「公爵はおそらく、何らかの手段でモリガンも始末しようと画策しているはずだ。そのときが私たちの分岐点になる。────生きるか死ぬかのね」