馬車に乗って町中を移動する。最初に通った道は使わず、目的地をクイヴァの家にして、ひたすら遠回りをしながら目指す。通路はやや狭く複雑に入り組んでいて、敵が侵入した際に各所の制圧を難しくしてあった。
城は大きく場所がハッキリしているため防衛の拠点とは考えておらず、侵入を許した時点で即時廃棄。モリガンを中心とした腕利きの騎士たちで住民の保護を最優先にしながら水路までの道を確保するように既定された。
「どう、他に行きたい場所はあるかな」
「いいえ。大体の道は覚えました」
「……今の一回で? 本気で言ってる?」
流石にクイヴァも信じられないと驚いたが、アイシスには通った道の全てがハッキリ記憶出来ている。どの家にいくつの窓があったか、育てている花の色までよく覚えていた。「特技なんです」と、そのときはとても自慢げだった。
剣を習うときに、どんな小さなものでも見逃さないように訓練した結果が強い記憶力を生んだのか。はたまた、彼女にそういう才能が備わっていたのかは分からない。ただ、それがとても役に立つのは間違いなかった。
「いやあ、羨ましいものだねえ。私も記憶力には自信があるけれど、君ほどじゃない。アリアンロッドじゃなくてデルバイスでも活躍できたんじゃない?」
「どこでも良かったんです。勧められただけですから」
そう。自分の意志じゃない。『お前ならこんな場所にいなくたっていい』と言った人々がいた。騎士になれと。貧民街の人々は大きな期待を小さな背に預けて、いつか偉くなったら、お前が貧民街を変えてくれと言った。
彼らの言うように、私が頑張れば皆が助かる。皆が嬉しいと言ってくれる。だから歩き続けた。呪詛のように繰り返された言葉を信じて、他の誰でも簡単に得られる才能じゃないのだから目指さないのは宝の持ち腐れだ、と。
そんな事はなかったのに、そうあるべきだと刻み込まれていた。
「じゃあ、今はどうだい? もし復帰出来たら私と一緒に────」
正門で何やら騒ぎが起きているのを見つけて会話が途切れた。町に入りたい、入れないと押し問答が繰り返されて、門番の騎士が苛立ちに小さく足を揺すった。紹介状なしではどうあっても入れないのだと苛立っている。
「どうしたの、何かあったのかい?」
「あ、これはクイヴァ様……。実はこちらの方が入りたいと言って聞かぬのです。しかし紹介状もなければ身分も分かりませんので通せず……」
騎士はとてもホッとする。相手はいかにもみすぼらしい恰好で、身分もはっきりしないので卑しい物乞いか何かではないかと踏んだ。自分では何を言っても聞かないので、彼女たちなら助けてくれるだろう、と。
「いいよ、私たちが代わってあげよう」
「助かります。我々では手に負えなくて」
話している横を、アイシスがひょいっと顔をのぞかせて先に様子を窺う。立っているのは、いかにも不機嫌な女性だ。浅黒い肌に、少しツンツンした
「ンだよ、オレはメシが喰いたいから恵んでくれるか、中に入れてくれって言ってるだけだろ。寒いンだよ、此処はよォ」
見れば汚れたひざ下まであるシャツ一枚に、防寒用の上着一枚を軽く羽織っているだけで、確かにひどく寒そうに見えた。
「入れてあげる事はどうあっても出来ないのですか?」
ずっと寒い外で立たせているのは可哀そうだと思って言ってみるも、門番は申し訳なさそうに肩を落とすだけだった。
「ひとりを許してしまえば全員を許さなくてはいけませんから、こういった規律には何事にも例外があってはならないのです」
「困ったね。外周にある農家でも彼女を受け入れられないのかい?」
門番は案の定、首を横に振った。
「させてあげられればいいんですが、あれも住民というよりは騎士として滞在される方々ばかりで。いつ何時襲撃を受けるか分からないからと、規定量の配給以外は全て都市内部の倉庫に寄付されていて」
「あぁ~……。真面目が過ぎるよ、まったくもう」
外周で農家を営むのは元騎士──いわば老兵ばかりだ。油断すればたちまち優れた剣技で制圧される。一方で彼らは〝古き良き時代〟を象徴し、若者からは歴史の遺物として呼ばれる事もあり、その性質は実に堅苦しいと言うほかない。
「クイヴァ、私では助けてあげられません」
子犬のように潤んだ瞳で見つめられると、クイヴァも優しく頷く。
「分かってるとも。ちょっと、紙とペンがあれば欲しいんだけど」
門番の騎士は「少しお待ちください」とすぐさま用意しに走っていき、しばらくすると何枚かの紙と鉛筆を持ってやってきた。
「ぜえ……ぜえ……! こ、こちらでよろしいでしょうか……!」
「そんなに急がなくても良かったのに。ばっちりだよ、素敵な仕事ぶりだ」
ウインクされると、照れているのか、すぐに俯きがちになって、僅かに高い笑い声が甲冑の中からやんわりと響く。
「でも、もう一仕事。私が彼女の保証人になろう」
「えっ!? こ、困ります! 勝手な保護は叱られてしまいます!」
慌てる騎士を横目にちらと見てから、優しい笑みを浮かべた。
「大丈夫。中に入れなくても食糧くらい渡してあげないと。騎士ならば弱っている者を放っておくべきじゃない。そうだろう?」
何者かは分からずとも、その貧相な身なりからして、かなり困っているふうに思えた。食糧の少ない寒い地域で食べ物を求めるくらいなのだから、腹を空かせて放置して飢え死にしたかもと思うよりは少しでも腹を満たしてくれた方が、どこかで野垂れ死んだとしても知らねば幸せな話で終わる。
「さ、出来た。私の紹介状だ、これがあれば中には入れられなくても、多少の融通はしてあげられるだろう」
クイヴァが門の外で立っている女性に手を振ると、鈍色の瞳が感謝のこもった眼差しを送って、女性は「ありがとな、レディ!」と快活に言った。
一見すれば放浪者で身分など持たないであろう女性からレディと呼ばれるとは思わず、一瞬だけ目を丸くしてから、また優しく微笑みかけた。
「じゃあ、事も片付いたから私たちも家に帰ろうか」