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第9話「今は、ただ前に」

 あまりにも恥ずかしい記憶だ。なんと失礼な事を言ってしまったんだろうとアイシスは顔から火が出そうになって毛布を頭に巻きつけた。


「本当にすみませんっ、そんなつもりでは……!」


「ハッハッハ! いいんだよ。私は嬉しかったから」


 自分という人間を見てくれていた。マッカラム伯爵としてでも、美しいと評判の騎士としてでもなく。────ただの同期。ただのクイヴァとして。


「ともかく、これから君はコノールでしばらく過ごす事になる。寒いのに慣れていないかもしれないが、私の買った家もあるから宿代は要らない」


「良いんですか? いくらコノールが北方の領地で目立たないとはいえ、私がいると万が一にもバレてしまったらあなたに迷惑が掛かってしまう」


 騎士団長だから、剣聖だからといって、名前は知っていても滅多と足を運ぶ事のない──中には訪れた事もない騎士もいる──コノールでは彼女をひと目見て『アイシスだ!』と分かる人間はいない。仮に知っていたとしても、領主であるモリガン・フィッツシモンズが問題にしなければ、誰も気に留めたりはしない。


 コノールは小都市というのもあってか、治安も程々に良い。ただし現状、入るには何人なんびとも身分を証明するか紹介状が必要だ。


「私は顔パスなんだけど、同行者も例外はないらしくてね。ちょうど公爵から受け取った紹介状があるはずだ。それを見せれば、君が誰であれ中に入れてくれる。デルバイスの捜索範囲からも漏れてるし、複雑な事情で皇帝陛下の勅命があったとしても中には入れてくれないんだ」


「皇帝陛下の勅命も効力がないのは、かなり問題があるのでは……」


 好き勝手されていても分からないような状況を皇帝リーアムが許すとは思えない。だが聞くかぎりでは事実だ。これから共に向かおうというクイヴァが、わざわざ嘘を吐く理由もないのだから。


「そうだね。もう誰に聞かれてる心配もないから話してしまうんだけど、小都市コノールは他の貴族が持つ領地以上に、皇帝は運営の仕方に口出しできないんだ。なにせ、あの一帯の所有者は────シネイド皇女殿下だ」


「えっ!? では、つまり皇女殿下があの町にいらっしゃると!?」


 驚きすぎて、思わず御者台まで詰め寄った。


「ハハッ、危ないよ。下がりたまえ、マ・シェリ」


「すみません、つい……。ところでシネイド皇女殿下がなぜ滞在を?」


「ああ、それは単純な話。彼女は君を待っているから」


「はい? では先ほど私を必要とする人が待っていると言ったのは……」


「まさに、そのシネイド皇女殿下だよ。今は仲間を集めてるんだ」


 言っている意味が分からず、思考が複雑に絡み合う。侯爵は皇帝を皇位から引きずり下ろし、第三皇子の継承権を繰り上げるために邪魔な第一、第二皇子も排そうと考える第三皇子派閥。そこにアイシスを手駒にしようとやってきたが、今度はシネイド皇女のためにクイヴァが彼女をコノールへ連れて行くと言う。


 何がなんだか分からない。自分の立ち位置でさえふわふわと浮いている。ひとつだけハッキリする事があるとしたら、それは三つの派閥があり、皇帝派、第三皇子派、皇女派の三竦みが起きている事だ。


「でも、あの場所はフィッツシモンズ辺境伯の領地では……」


「そのフィッツシモンズこそが、まさに皇女殿下なのさ。今は事情があって、モリガン・フィッツシモンズと名乗っているんだよ」


 詳しい事は本人から聞けばいいと先の事は言わなかった。理由は分からなかった。本人以外の誰かが話すべき事ではない、そんな雰囲気を感じる。


「事情はよく分かりませんが、つまり私も騎士として求められていると」


「そうなるね。ただ、私はどちらでも構わないよ」


 ウィスカ皇家にどんな事情があったとしても、クイヴァは本心を言えばどうでも良かった。ただ、アイシスを連れ出す口実が欲しかっただけだ。


「君が行きたくないと言えば、どこにでも連れて行こう。なに、皇女殿下にも言い訳くらいはできるさ。君ほどの騎士が相手となったら、大陸のどこを探しても敵う人間はそういない。逃げられたと説明しても信じてもらえるよ」


 恩人であるアイシス。愛おしい人。決して言葉にする事はないだろう想いを胸に秘めながら、彼女の手助けになるのなら何でも出来ると覚悟は決まっていた。どのみち公爵の策に付き合った時点で切り捨てられるも同然。それならば皇女派として動く方が幾分か生き残る確率はあがるから、そう装っているに過ぎない。


「……では、このままコノールへ連れて行ってください」


「良いのかい? ここで逃げても誰も怒らないのに」


「ええ。私を叱る人なんて、もうどこにもいないでしょうね」


 かつてはちょっとした失敗には、よくフェルトンが注意した。彼のおかげで多くの知識が身に付いた。持っているのは腕っ節だけ。誰かに勧められたから騎士になっただけ。彼女が一端の振る舞いを身に付けられたのは彼の大きな功績だ。


 何故死ななければならなかったのだろう。考えれば考えるほど、複雑な気分だ。自分のために生きろと言われたが、何をしていいか分からない。見つけるとは言っても、どう見つければいいかも分からない。


 ただひとつだけ思うのは、今の帝国は誰にとっても生き難い。表面的には普通の暮らしが目に映っていたとしても。ほんのちょっとの事で命を落とすかもしれない息苦しさの中を、普通に見えるよう暮らしている。


 皇帝リーアムや貴族たちの独裁的な欲深さは、いつか臣民たちから見放されるだろう。だが、その『いつか』が来るまでをジッと待っていては先に枯れてしまう。立ちあがる気力が完全に奪われる前に、暴走は止めるべきだと思った。


「────私の大切な友人のために、やりたい事があるのです」

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