「……いや、泣くのは良くない。騎士たるもの、常に毅然とあらねば」
今や帝国に仕える騎士でないとしても。自分の憧れたものではないとしても。自分の不甲斐ない足取りをしっかり支えてくれたものは捨てなかった。
金貨と封筒を持って酒場を後にする。全財産は銀貨数枚程度で、貯蓄は全て押収されてしまった。オーエンから受けた餞別に礼の言葉くらいは掛けておくべきだったなと今になって思い、後悔しながら町を歩く。
「(北の辺境領といえばコノールだったか? 徒歩では遠すぎるから……そうか、金貨は馬車代か。小さいものならこれで買えそうだ)」
帝都の商会では馬車の取引も行っていると聞いていたので、ひとまず足を運んでみる。大勢の体格の良い男たちが荷を運んで右へ左へ。監督役らしい壮年の男が、書類とにらめっこをしながら、指示を出していた。
「すみません、ここで馬車が手に入ると聞いたのですが……」
「ああ、お客様ですね。すみません、立て込んでいて」
男は書類を脇に抱えて作業の手を止めた。
「馬は何頭お持ちですか。おひとり様でのご利用でしたら小型馬車などもあります。もし旅行の計画などを立てていれば、目的地までの積み荷なども追加料金をお支払い頂くと────」
「ちょ、ちょっと待ってください。馬を持っていないと駄目なんですか?」
男は不思議そうに首を小さく傾げた。
「それは当然でしょう、馬車ですから。うちでは代理で馬の販売は取り扱っておりますが、契約を交わした後、牧場主に通達を出して納品されるまでの時間を二日ほど頂くことになっております」
「あ……。そうなんですか。すみません、物知らずで」
騎士団にいた頃は与えられた馬を乗り回していたし、管理も任せきりで何も知らず、平民という身分では無縁な話だった。いまさらすぎる、と恥ずかしくなって立ち去ろうとする。振り返り際に誰かにぶつかった。
「おっと、大丈夫かい?」
「すみません、急いでいたものですから」
「構わないさ。君に怪我はないんだろ、マ・シェリ」
「(あっ、マズイ。この話し方は────!)」
慌ててフードを被り込んで顔を隠す。目の前にいるのは、長めのウルフカットを黒く染めた背の高い女性。中性的で整った顔立ちはアイシスもよく知っている。今、最も会いたくない相手だった。
「っ……! い、急いでますので失礼……!」
「おおっと、待ちたまえ。急がなくてもいい、そんな用事はない」
横切ろうとして肩を掴まれる。一瞬フードが脱げそうになったのを両手で押さえるも、その僅かな隙を女性は見逃さなかった。
「ああ、やっぱり。君だったんだね」
「……すみせまん、誰の事だか」
「公爵にはもう会ったはずだ。久しぶりの酒の味はどうだった」
ぴくっ、と身体が動く。お見通しなのだ、彼女には。
「まあ逃げなくていい。君とは後で話をするとして……実は私も此処に用があってね。そうだろ、コステロ。私の頼んでいたものは?」
ぽんぽんと優しくアイシスの肩を叩いた後、男に話しかける。彼は名前を呼ばれると、ニコニコと「裏口に、ご用意出来ております」と返事をした。
女性も笑顔で対応すると、逃げるなよとばかりにアイシスの腕をがっちり掴んで「行こう。君に見せたいものもある」と引っ張っていく。相変わらずの強引さには従うしかない。一度捕まれば、そう逃げられる相手ではないのだ。
帝国第三の剣────デルバイス騎士団団長クイヴァ・マッカラム。またの名を『梟のクイヴァ』。調査や追跡に長けた騎士団の中で、誰よりも熟達した剣の腕と鋭い観察眼を持ち、思慮深い性格と独特な話し方をする。やたら距離が近いのもあってアイシスは彼女が苦手だと、ときどき思った。
「お、お願いですから、強く引っ張らないで下さい……!」
「ム。それは申し訳ないね。本気で振り解かれたら敵わないのだよ」
パッと手を放されて、それが通じる相手ならやっていると悪態をつきたくなった。実力主義のアリアンロッド騎士団でも、彼女に勝てるのはアイシスとフェルトンの二人だけ。背を向けて隙を見せれば殺してくれと言うようなものだ。
「それにしても相変わらず堅苦しいじゃないか、アイシス。そうやって誰に対しても腰を低くしているから嘗められるんだと少しは自覚を持った方が良い」
「だからあなたはそうやって、いつも強く自分を保っていると」
ちくりと刺すような言葉だったと思って俯いたが、クイヴァは何も気にする様子もなく、からから笑ってフードの上から頭をぐりぐり撫でまわす。
「その通りだよ。だが保っているというのは正確じゃない、こう出来上がったんだ。貴族というのはややこしいから、首元を晒さないのが自然体なのさ」
「何の話かわかりません……。貴族社会とは無縁でしたから」
分からないならそれでいい、と肩をポンポン叩かれる。その優しく遠くを見つめるような視線に、何か悪い事をしてしまった気がした。
「ま、それはともかく見たまえよ。この豪華な馬車は君のために公爵が用意してくれたんだよ。アイツは第三皇子派だからねえ。わざわざ言いくるめなくても、行き場のない君なら絶対に乗ってくれると思っているんだよ」
「知ってたんですか。じゃあ、クイヴァも第三皇子派だと?」
彼女はやんわり首を横に振って否定する。
「私は第三皇子が適任だとは思ってない。多分、公爵はあれこれ聞こえの良い言葉で誤魔化しているだけで、実権を握って傀儡化したいんだろう。だけど私の忠誠は其処にはない。だからちょっと彼に入れ知恵をさせてもらった」
馬車に繋がれた馬の頭を優しく撫でながら、クイヴァの表情は凜としていて、決意の籠ったものだった。
「これから私と共に北のフィッツシモンズ領にあるコノールという小都市へ向かってもらう。────そこで君を必要とする人が待っている」