泣きそうになるのを必死になって堪えた。細い糸に縋りついて死から逃れようとする小娘のために、自分の全てを擲ってでも逃げ道を作ってくれた男。出来る事がなければ何もしないが、かといって助けられる可能性があるのなら何もかもを賭けられる男。フェルトン・レイノルズは冷たくもあり、温かくもあった。
知っていた。そうする男であると。だから信頼した。戦場でも彼がいれば緊張しなかった。騎士団長を務めるなど向いていないと言っても『やらねばわかりますまい』と豪快な笑みを見せてくれたときの事を彼女は強く覚えている。
「決心はついたかね?」
「あなたもこれを見たのですよね」
「念のため
「なぜこれを届けようと」
不思議だった。オーエンは間違いなく命を奪おうとした。会議では助け船を出しておきながら、勅命が下れば簡単に殺そうとする。なのに今度はフェルトンの遺した手紙を届けるためにわざわざ帝都を探し回ったのだから、やっている事がちぐはぐで、彼の事がまったく理解できなかった。
届いたウイスキーを彼はひと口だけ飲んで喉を潤す。
「私は、私のやり方で帝国を支えていく。そのために冷酷な人間となった。だが命令以上に働くつもりは毛頭ない。あんな皇帝に仕え続けていては、ただ骨までしゃぶり尽くされて使い捨てられるのが良いところだ」
自身がそうだと彼は言う。部下とは駒で、仲間とは盾である。使い潰して要らなくなったら処分する。とはいえそれも帝国への愛国心ゆえに他ならない。たとえ使い捨てられるとしても、私利私欲に塗れた皇帝のために死ぬ事は出来なかった。
「彼は選択を誤った。お前を助ける事にどんな意味があるかは知らないが、立場を得なければ何も変えられない。たかが戦場を血で満たすための道具にしか過ぎない、剣聖だと担いで利用されるだけの女に使い道はない」
ムッとするアイシスに遠慮なく彼は言葉を続けた。
「だからこそ、その価値を試してみたくなった。私は、いや、取り繕うのはよそう。────俺は第三皇子の支持者だ」
「……!? 第三皇子とは、また随分と難しいですね……」
皇帝の血が流れる者は多い。嫡男のネイルは父親に似て権力という沼に浸かり、欲深い性格をしている。側室の子である第二皇子もそう変わらない。だが、第三皇子だけは違った。最初から期待をされていなかったためか、皇帝リーアムが彼を目に掛ける事はなく、母親やメイドたちの影響を受けて穏やかな性格になった。
皇帝となるには向いていない。そう言われるほどに。
「お前の考える通り第三皇子は皇帝には向いていない。だからこそ、彼が皇帝の座に就くべきだ。汚れ仕事は俺たちがやればいい。俺の好みには沿わないが、あの人柄はこれからの時代に役立つだろう。暗君でさえなければ良い」
グラスに注がれたウイスキーが積み重なった氷を割った。
「そのためには皇帝にも、他の皇子にも舞台から降りてもらわねばならない。フェルトンが死んだ事に責任を感じているのなら俺を手伝え」
「手紙には私のために生きろと書いてありました」
彼は膝に手を置いて、まったく表情も変えずにアイシスの答えを待った。
「騎士になるのは誰かの目標だったと思います。だから私も、それに応えるのが正しい生き方だと信じていました。でも、それは私の夢じゃなかった」
便箋を折りたたみ、懐にしまう。腰に提げた剣はフェルトンが愛用したものだ。今になって、何かを全うする事の意味を知った気がした。
「私は私の正しい生き方を知りません。ですから、これから見つけます。あなたに従うつもりはない。なので提案はお断りいたします」
「そう言うと思っていたよ。……ま、お前の人生だ、好きにしたまえ」
話しは終わったとオーエンは席を立ち、何枚かの銀貨に金貨を紛れさせ、シーリングワックスの押された封筒が置かれた。
「北の辺境領に行け。そこを仕切るのはモリガン・フィッツシモンズという女だ。お前の素性を知れば快く迎え入れてくれるだろう。それは紹介状だ」
「あなたの手伝いはしないと言ったはずですが」
彼はフッと笑って振り返る事なく、小さく手を振って立ち去った。
「俺からの餞別だよ、気楽に受け取りたまえ」
一人になって、アイシスは静かにウイスキーを飲みながら金貨と封筒を見つめる。オーエンの考えは分からないが、彼の事が少し羨ましいと思う。確固たる目的があって自分に忠実に生きている。自分の生き方を知っている。
────ない。私には、何も。目指すべきものも、目指したいと思うものも。これから見つかるのかという強い不安に圧し潰されそうで胸やけがしそうだった。
「私は、ただ生きていただけだったんだな……」
皇帝も。その周囲の人々も。自分のために生き、自分のために戦い、自分のために歩んできた。好き嫌いはあれど、大きな背中ばかりが前にある。今の私には届かない、大きな一歩が先を行く。
ただ生きているだけの自分が、あまりにもちっぽけに見えた。