走り去っていくアイシスの背中を見て、ホッとする。それからよく伸びた髭を擦りながら『随分とヤキが回ったな』と呆れた笑いが出た。歴史ある侯爵家の人間ともあろうものが、命を懸けてたったひとりの平民を救おうなどと。
英雄になれるはずもない。英雄になろうとも思っていない。なのに、どうしても放っておけなくて、放っておいてはいけない気がして、つい生き急いだ。それが正しいのか間違っているのか。そんな事は関係なかった。
「おい、こっちだぞ半端者共。おぬしらには目も耳もないのか?」
草陰から出て行ったフェルトンを見つけて騎士たちが集まってくる。悠々と後からやってきたオーエンが、彼の前に立って鋭く睨む。
「なんのつもりだ、レイノルズ侯。あなたはこちら側だと思っていた」
「どちらでもないさ、オーエン。儂は自らの意志に従ったまで」
「そうか。ところで先ほどまでは随分な暴れようだったみたいだが」
じろりと視線が動いて見つめた先は、彼の手だ。何もない。丸腰だ。
「剣はどうした? まさか捨てたわけではあるまい?」
「くれてやったよ、若い世代のためにね」
「……あなたほどの人間が、皇帝陛下のご意思に背くとは」
「色ボケのために従うのが馬鹿馬鹿しくなってしまってな」
決して帝国が嫌いなわけではない。だが皇帝リーアムは嫌いだ。皇后も同じく、彼の中にあった信念は全て民のためにあるものだ。誰かの欲望を叶えるためでも、我が身可愛さでもない。
だから今日が転換期だと感じた。アイシスが騎士をやめたいと言い出した瞬間から何かが大きく変わる予兆だと告げられた気がして、彼女を守る事こそが使命である、と自分の命と引き換えにしてでも戦う覚悟を決めた。
「かつて帝国が繁栄と共に築き上げたのは、高貴に溢れる都市だった。貴族たちは己が信念のために剣を掲げ、平民たちは陰で支えるのが常の世が成されていた。いかな侵略に対しても鼓舞しあい、前進を忘れなかった」
突然フェルトンが語りだす。誰もそれを止めず、耳を傾けた。
「初代レイノルズ侯爵は、かつての皇帝の傍に仕え続け、共に歴史を歩んだ。これから何十年、何百年と先まで帝国が繁栄するのを祈って。だが今の帝国は腐敗しておる。生きる糧を得るためだけに何でもやるアリアンロッドも、富と名声ばかり気にして生きる狡賢いブリギッドも。……己が欲望を満たすための国政を行い、玉座に座って報せを待つだけの皇帝も、何もかもが醜い」
ギリッと歯を食いしばった。レイノルズ侯爵家の愛する帝国など、もはや理想像でしかない。今あるのは、ただ階級制度によって上流階級の人間ばかりが安寧を得るだけの胡乱な社会だ。たったひとりの英雄の命さえ、自分達の都合だけで簡単に奪おうと言うのだから。
「だとしてもそれが帝国の在り方だよ、レイノルズ侯。迎合できないのであれば黙って去っていくか、地中深くに骨を埋めるかのいずれかだ。あなたは選択を誤った。平民あがりの剣聖如きを守る事に意味などない」
「あるとも。お前には永劫分からぬ事であろうがね、オーエン」
悟った物言いに内心で苛立ちを覚えつつも、オーエンは取り合おうとはせずに拘束して地下牢へ連行するよう指示を出す。
まったく抵抗しないフェルトンが大人しく連れて行かれるのを嘲弄し、おそらく剣を持って逃げたであろうアイシスの追跡はやめようと決断する。追いかけたところで武器を持った彼女は別格だ。十数人で挑みかかったところで返り討ちに遭うか、運が良くても手傷ひとつ負わせるに留まるだろうと予想した。
「上手くやったものだな、レイノルズ候……。おい、今日はもういい、解散しなさい。陛下には私から報告に行く」
「ブリオングロード卿は追わなくてよろしいのですか?」
数名の騎士たちはやる気に溢れていた。だが彼は残念そうに答える。
「死んだら元も子もない。私だけではなく、お前たちも自分が名家の人間である事を努々忘れるな。継ぐべき家門も命あってこそだろう」
彼らを大切にしているわけではない。所詮は駒に過ぎないが、彼らを無意味に失ってアイシスまで取り逃がしたとなっては自分の面子が立たないのだ。
「今日はもう下がれ、私はこれから陛下に会わなくてはならん。……取り逃がすなど、このような失態は初めてだ。なんとも不愉快だがね、あの男は」
オーエンは冷酷な人間だ。何にも興味のないふりをして、獲物に静かに近付いて首を獲る厄介な捕食者だ。そうして帝国ではなく皇帝の剣として暗躍し、まだ青年の頃から必要とあらば誰の首でも刎ねてきた。
にも関わらず。にも関わらずの初めての失態。腹立たしさはあれど、半ばフェルトンへの感心も生まれていた。彼のような五十年ほどで知恵に溢れた老骨などそうはいるまい、と尊敬さえ抱いた。ゆえに────。
「……殺すには惜しいが、皇帝はどうせ殺すよう命じるんだろうな」
アイシスさえいなければ、フェルトンが命を落とす未来などなかった。あの小娘が全ての元凶であり、帝国の財産とも言える男を失うのだと憎くなった。
彼こそ模範的な騎士そのものであり、これからの帝国も担えたに違いない。そのときが来たなら自分も喜んで手を貸しただろうな、とオーエンは肩を落とす。
「まったく無念な話だ。この責任はブリオングロード卿に取ってもらおうか」