王宮騎士団が魔物討伐へ向かった翌日でもわたしの日常は変わらない。
緊急事態が続けば、民の心は疲弊し、より心の平穏を求めて神殿へ訪れる者も多くなる。わたしは少しでも民衆の平穏が保てるよう、出来ることをしようと聖女の仕事を全うする。
「いやぁー、聖女様の魔力は相変わらず肩と腰に効くのぅ~~」
そう言って
このドリアンお爺さん。一見現役を引退して何もしていないように見えるが、このお爺さんの老人会ネットワークがあったお陰で隣のポムポム領が高額の税金で困っている事もいち早く知る事が出来たのだ。
民衆の不満や不安を察知する上で、このドリアン
「ドリアンさん。トロフーワお婆さんの農作物も売れているみたいでよかったわ」
「それもこれも聖女様のお陰ですわい。あのたぶれっとのまっちんぐは凄いのぅー。儂が聖女様に紹介したお陰で、売上が戻ったって、酒場フルフルの若いねーちゃんに両手を握られてありがとうって言われたわい」
「ふふふ、ドリアンさんはまだまだ現役なのね」
「聖女様のお陰で腰も伸びたしの。フルフルのねーちゃんは可愛い子ばかりじゃからのぅー。若い者には負けてられんわい」
ドリアンお爺さんが元気よく腰を伸ばし、軽く手で腰を叩く。
「あたたたた」
「ほら、お爺さん。無理しないの!」
「ほわわ~~効くのぅ~~」
軽く腰に向かって魔力を流してあげると再び恍惚な表情になる。これをやるとキリがないので、追加サービスはここまでだ。
「やはり聖女様の魔力が一番じゃよ。こないだは怪しい行商が、膝と腰に効く回復薬――グルコサマジックじゃったかの? 老人会へ販売しに来たのじゃが、信用ならんので追い返してやったわい」
「あらら……むしろそちらの方が効きそうな気がするけど……」
行商さんごめんなさい。商売を邪魔するつもりはなかったんです……。と、名も知らぬ行商人にひとこと心の中で謝っておく。
「ではまた来るわい。トロフーワ婆さん達もママゾン用に野菜と果物のジャム作りに忙しいみたいなんじゃよ。また時間が出来たときに神殿へ誘ってみるわい。よくよく考えると、婆さんが使うじゃから、ママゾンじゃなくて最早ババゾンじゃの。フォーフォッフォー」
一人で自分のボケに大笑いしつつ、ドリアンお爺さんは部屋を後にする。ドリアンお爺さんの場合、懺悔室というより診療室になっている気もするけど。
午前中のお仕事を終え、休憩に入るわたし。紅茶を淹れて、今日のランチはレヴェッカがお昼用にと準備してくれたサンドイッチと昨日の晩御飯にわたしが作ったグリーンリーフのサラダの残りだ。
「ジャム作りかぁー。クランベリーの畑には果物もたくさんあるし、今度アプリコットジャムでも作ってみようかなー」
そんな事を考えつつ、サンドイッチを手に取った瞬間、何かを魔力が弾くような僅かな電流が指先に走ったような気がした。でもそれは一瞬で、わたしは気にする事なくサンドイッチを口する。
「卵サンドの卵がいつもよりふわふわじゃないような気もするけど、レヴェッカも朝から忙しかったんだろうなー」
教会の敷地内に、修道院、広い牧場に畑まで併設しているレヴェッカの教会には神官や修道女もたくさん居るが、彼女はいつもみんなの中心となって働いているのだ。いつも頑張っている彼女を見ると、わたしも頑張ろうって思えて来るので不思議だ。
「ごめんー、アップルーー。教会の仕事が遅くなっちゃってー! あ、先にお昼食べてたのね!」
「嗚呼、ごめんねレヴェッカ。午後のお仕事の開始時間があるからお先にいただいてました」
わたしが席を立って紅茶を淹れようとすると、『あ、大丈夫よー、座っててー』とレヴェッカが促してくれた。クランベリーソーダとサンドイッチ、サラダを用意してわたしの向かいに座る彼女。
「レヴェッカいつも教会のお仕事、お疲れ様。何か手伝える事があったらいつでも言ってね」
「大丈夫よ、アップルは自分の仕事があるでしょう? 修道院の子や神官の子もみんな居るから心配しないで」
そう言うとレヴェッカは、満面の笑みを浮かべたまま、両肘をテーブルについて、真っ直ぐわたしの事を見つめる。
「ん? わたしの顔に何かついてる?」
「うんん。相変わらずアップルは可愛いなって」
「またまた冗談をー」
「だって、アップルには王子様もグレイス様も居るじゃない」
「ブライツもグレイスもそんなんじゃないから」
「え? グレイス?」
どうしたのだろう? 今、確かに彼女の表情が固まった。表面上は笑顔のままだったけど、何か違和感を感じて……そのとき、机に置いてた
わたしに秘匿通信をする相手……それはグレイスかその従者であるフォメットさんくらいだ。
「……誰から?」
「レヴェッカ、ちょっと待ってて」
画面に出ていた名前を確認した上で回線を繋ぎ、通話に出るわたし。通話越しの回線がなぜか乱れている。あれ、声が聞き取りにくい。通信の相手は魔王グレイスだった。
「アップル……今す……、そ…………ら……逃げろ」
「え? グレイス……何て?」
「アッ……、余の失…………。罠……」
「待って、グレイス、グレイス!」
次の瞬間、回線は切れてしまう。魔法通信の
「ねぇ、アップル……。いつからグレイス様を
わたしの背中越しに聞こえた背筋を凍らせるような冷たい声。確かにそれはレヴェッカの声。しかし、いつもの彼女の温かみは感じられない。回線の切れた
「レヴェッカ……じゃないわね。あなた……誰?」
「質問に答えない! 貴女ごとき人間風情が、どうして魔王様を呼び捨てにしているのって聞いてるの?」
「あなた……魔族ね」
おかしい事がたくさんある。もし、今対峙している相手が魔族なら、レヴェッカの姿に化けているのだろうか? 料理教室の際、魔族と悟られないよう、人間の姿へ変化していた者も居た。しかし、仮に彼女の姿に化けていたとしても、先程テーブルの向かいに座った彼女は、
魔王さえ弾くこの結界を打ち破る事など考えにくい。事実、
先ほどまで怒りを露にしていたレヴェッカ姿の相手は、うっすらと妖しい笑みを浮かべたまま、ゆっくりと部屋の中へと歩を進める。
「ふふふ、あなたの考えていること、手に取るように分かるわよ? どうして、
魔法端末を一旦机上に置き、彼女がそれ以上近づかないよう、懐より
「あら、いいのぉ~? あなたの大切なレヴェッカちゃんの身体が傷ついてしまうわよぉ~?」
「なんですって?」
「だって、わたくしは
「一体どういう……」
「いまからじっくりと教えてあげるわ。あ、そうだ。
「……!?」
レヴェッカ姿の相手を押し退け、
「みんな……一体、どうなっているの?」
教会全体を覆っていた結界が消えている。そして、内側からレヴェッカ邸の敷地を囲むように、あらゆる魔力を封印する結界が展開されているのだ。教会の子達によって。
「みんな、目を覚まして!」
「無駄よ。その子達は最早わたくしの虜。高貴なる女魔族、色欲の女王――
レヴェッカ姿の女魔族――アナは、わたしを取り囲み、聖女という新たな獲物を前に妖しく嗤うのだった――