私は吸血鬼に呪いをかけられている。
一つは我が妻から、愛の呪いを。
もう一つは、凶悪な吸血鬼であった彼女の父祖から呪言を受けた。
……一応義父に当たる者から受けたこの呪いは、最近になって私の体を蝕み始めた。
私はかつて吸血鬼を専門にする悪魔祓いであった。今の妻と出会えたのもその縁からである……その縁が彼女の父祖を退治する依頼からというのは物騒な話だが。
吸血鬼と人がお互いに歩み寄れず、一部の凶悪な吸血鬼が自身の魔術や腕力に物を言わせ好きに振る舞っていた時代があった。彼女の父もその暴虐を尽くす者の一人であった。
その粗暴さは自分の娘にさえ愛想を尽かされ、私という侵入者を屋敷に招き入れられるほど。
最初は吸血鬼が手引きをしてくれるということが信じられなくて、正体を確かめるために彼女に手鏡を突きつけた。確かに顔が映らず、鏡の中でドレスが不自然に浮き上がり、手鏡は彼女の種族をはっきりと映しだす。
彼女の『私を信用していないのか』という膨れっ面と引き換えに。
……今思えばこの長命種らしからぬ子供っぽさにやられたのかもしれない。彼女は感情表現が豊かで見飽きなかった。今もそうだが。
心強い味方を得た私は無辜の人々から血を吸う悪魔の住処へと足を踏み入れる。
しかし、たとえ人望は薄くとも、数多の人間そして自身の同胞でさえも恐怖に陥れたその実力は本物であることを私は思い知る。
霧に、蝙蝠の群れに、変幻自在のその体。吸血鬼の身を焦がす筈の炎を巧みに手繰る熟練の魔術。
撤退を決め、彼女と共に逃げる私を追って厚い大理石の壁を薄く張った氷の様に割る剛力。
息も絶え絶えの私達は、とうとう屋敷のとある一室にまで追い詰められた。
私達が入ってきた扉には青白い顔にニタニタとした笑みを浮かべる凶悪な黒外套の悪魔。
部屋の隅には十字架をへし折られ、聖水を使い果たした悪魔祓い。
それをなんとかして庇おうと前に出ようとする若い女吸血鬼。
だが、私は諦めてはいなかった。その部屋には大人が一人通れる程の大きな窓があったのだ。閉じられた硝子窓を突き破ればそこから逃げられる…………一人だけなら。
私達に向かって足音無く歩を進める黒外套の吸血鬼が、易々と二人とも逃がすわけがない。一人を逃がす為に誰かが隙を作らねば。
その、“誰か”の役割を果たすのは誰であるべきか。考えるまでもなかった。
私は唯一残った武器……祝福を受けた純銀の短剣の柄に手をかけ、鞘から抜き放つ。肋骨の合間を抉り、より深く刺さるように刃を水平に保つ。後は余裕綽々の悪魔がもう少し近づいてくるのを待つだけだ。
一歩、二歩、三歩。血を啜る悪魔、その革靴が音もたてず私達に向かって歩を進める。
四歩、五歩、六歩。横にいる彼女が私の表情を見て何かに感付き、泣きそうな顔で首を振る。そんな顔をしないでくれ。君を巻き込んだ私の過ちを清算しなければ。
七歩、八歩、九歩。暗闇に染まった大きな硝子窓に黒外套の悪魔の姿が……映らない。当たり前だ。吸血鬼の肉体は硝子に鏡に水面に、遍く物に映らない。
代わりに気取った外套が映らない腕に押されて翻るのが見える。手首が映らない白手袋が見える。宙に浮く毛玉が見える。
毛玉?
………は?毛玉?………いや、毛玉が映っている。頭の位置に変な────
「あっカツラ被ってるのか」
思わず口に出た。本当にぽつりと言ってしまった。馬鹿にする意図も何もない。嘘じゃない。
だが、件の吸血鬼はそう受け取ってはくれなかった様子だった。
気味の悪かった笑みは拭われた様に消え失せ、わなわなと目は大きく開かれ、両手で頭……をカツラごと押さえて、窓に映った毛玉と私達を真っ白な顔で交互に見やり………
恥に耐えられなかった様子で床に蹲る。
私が何か、声を掛けようか迷っていると……身体を霧に変えて消えてしまった。
後の私を蝕む、呪言を残して─────
──────お前もいつかは禿げるんだぁ…………覚えとけよ……───
最後に聞いた彼の声色は、なんとも情けない涙声だった。
あれから件の吸血鬼の姿は見ていない。もし恥のあまりあの後屋敷から出てしまったのなら、夜明けと共に消滅してしまったのかもしれない。
あの難関を乗り越え、長い月日が経った今。彼の言葉が現実味を帯びて私を刺す。
『どんなあなたも素敵だぞ!』と我が妻は、枕に吸い取られた毛髪を呆然と見る私を励まし……慰めてくれる。
……これが本当にに呪いだったら、解く方法を探すのに………