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家に帰るとミーコさんはいなかった。ちゃんと約束通り出勤したらしい。気づくとメッセージが着信していた。てりやきからと天野さんからだった。てりやきは、中里さんと来週の土曜日にデートをこぎつけたらしい。
天野さんからは、来週の土曜日駅前のショッピングモールでよろしく、というメッセージ内容だった。てりやきと中里さんが、土曜日に遊ぶということは、僕と天野さんで二人きりということに、いまさら気づく。
僕は昂揚した気分のまま布団に入るが、なかなか眠れなかった。
翌朝、異臭がして目を覚ますと酒臭いミーコさんが目の前にいた。
「ちょっと怜くん。起きなさいっ」
「なに朝から。なんかあった?」
「昨日の合コンの結果よ。当たり前じゃない」
「来週の土曜日、駅前のショッピングモールに出かけることになったよ」
起き抜けで上手く思考が働かず、訊かれた質問にそのまま答えてしまう。言ってから後悔した。
「ちょっと、何それ。一晩明けて、レベルアップしまくりでしょ。みんなに言わなくっちゃ」
そうなることを予期していたからこそ、後悔したのだった。
「いや、言わなくていいから」
「なんでよ。果報は寝て待てじゃない」
「寝て待て、ならなおさら言わなくいいだろ」
「うふふ。怜くん楽しそう」
気色の悪い笑顔でミーコさんは僕を見つめる。気色悪くはあるのだが、まなざしの奥にあるやさしさが垣間見え、僕は言いかけた罵詈雑言をひっこめる。
「来週の土曜日にデートかぁ。ふぅん」
ふぅん、の一言に僕は不穏なものを感じる。
「まさかついてくるとか言わないよね」
「言わないわよ。あったりまえじゃないのっ。なに言ってんの! で、何時集合なの?」
狼狽っぷりから推し量るに、質問から推し量るに、このオネエは確実についてくる気だ。
「教えません」
「え、なんで。教えなさい」
「死んでも教えません。あ、そういえばミーコさん、お店の方はどうだったの」
話を変えながら、メッセージをチェックする。瞳ママからメッセージがきていた。ミーコが久しぶりに出勤したけど、やっぱり歌えなかったわ。でも怜くんのおかげで出勤してくれたみたい。ありがとね。合コンの話、今度ゆっくり教えなさいよ。という内容だった。
「うん、まあ行くには行ったけど、舞台に立つのはやめておいたわ」
あからさまに目を反らすミーコさんを見て、嘘だと思った。実際にポルカドットに出勤したのは瞳ママのメッセージで確認済みだ。嘘をついたのは、舞台に立つのをやめたのではなく、立てなかったからだろう。
「ちゃんと約束通り、お店行ったんだ」
「行ったわよ。約束を守らないオネエはオネエじゃないもの」
嘯くミーコさんを見て僕は吹き出してしまう。
「なんで笑うのよ。失礼ね」
「別に、なんとなく。あ、そういえばさ、昨日訊くの忘れてたんだけど、ミーコさんがお店に行けない理由ってなんだったの?」
「ああ、それね。そうね。今日はちょっと疲れたからまた今度にさせて、私、寝るから」
そういってミーコさんは逃げるように僕の部屋を出て行った。後になってわかることだが、このときのミーコさんはすでに危険な状態にあったのだ。
ミーコさんが笑顔の中に巧妙に隠した嘘を僕は見抜けなかった。
僕は馬鹿だ。
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講義が終わり、有馬音楽教室近くの駅を降りる。有馬先生に教えてもらった住所と手書きの地図を頼りに歩く。天野さんが勤めるマクドナルドがある通りを南側に下って行った先に、流星くんの家がある。まだ建って間もないのだろう。流星くんの家は夕日に照らされながら、まばゆく輝いている。インターホンを鳴らす。
「はい、木戸です」
流星くんのお母さんの声がインターホンから聞こえた。
「有馬音楽教室の山口ですが」
「山口先生ですね。お待ちしておりました。いま玄関開けますね」
流星くんのお母さんが玄関を開けるのを待っていると、庭に面した窓のカーテンがうごめいている。じっと見ていると流星くんが、顔を覗かせるがすぐに隠れた。
「どうぞ、先生。おあがりください」流星くんのお母さんが玄関を開ける。
玄関に上がると流星くんが二階に駆けていくのが見えた。
「こらっ流星。先生がみえたんだから、降りてきなさい」
「僕のことは気にしなくて大丈夫ですから、流星くんが自分で降りてくるのを待ちましょう。あまり無理強いしても、逆効果と思います」
「そうですね……」
リビングに入る。部屋の隅に流星くんのおもちゃとグランドピアノがあった。おもちゃから察するに、ドラえもんとポケモンが好きなようだ。グランドピアノは比較的新しいものに見えた。
「こちらに座って、とりあえずお茶でも飲んでください」
流星くんのお母さんに促され、イスに座る。テーブルの上に紅茶とチョコレートが置かれている。有馬先生といい、流星くんがのお母さんといい、この辺りの家の人は紅茶が好きなのだろうか。チョコも紅茶も上品な味だった。つまり、よくわからない味だ。菓子をつまみながら、僕の年齢だったり、流星くんのお母さんの仕事のことだったりと他愛のない話をした。流星くんのお母さんは、ネイルサロンを自分で経営していて、休みは平日しか取れないらしい。
流星くんのお母さんは、ネイルサロンの経営者だから当たり前だが、ネイルをしていた。その爪のままではピアノを弾くことは難しそうに見えた。
「お母さんはピアノを弾かれるんですか」
「いや、私は……全然弾けないんです」
流星くんのお母さんがてっきり弾けるとばかり思っていたから、この返答は予想外だった。
「じゃあ、おうちの方でどなたか弾ける方が?」
「ええ、旦那と義理の母が弾けます」
「流星くんのお父さんは、音楽関係の仕事ですか」
「いえ、普通のサラリーマンです。子どもの頃からピアノを習っていたそうです」
「なるほど、じゃあ旦那さんがお休みの日は家でピアノを弾かれたりすることもあるんですかね」
「以前まではそうだったんですけど、ウチの旦那、つい先月から海外出張に行ってしまったんです」
先月というと僕がバイトを始めた時期と重なっている。そこになにかあるのではないかと思った。僕は更に深く訊くことにした。
「流星くんのおばあさんも弾けると言ってましたけど、一緒に暮らしているんですか」
「いえ、義母とは別々に暮らしています。と言っても車で二時間ぐらいの距離しか離れていませんが……」
流星くんのお母さんがふいに視線を落とす。
「旦那が海外出張に行ってから、義母が週末に家に来て流星の面倒をみてくれるようになったんです。私の仕事の都合上、土日休みが取れないこともあるため、始めのうちは私も助かっていたんです。義母も流星の顔が見たいだろうと思っていましたし」
流星くんのお母さんはゆっくりと語り始めた。いつもより老けて見えたのは眉間に寄った皺のせいだろう。
流星くんのお母さんの話はこうだ。
始めのうちは流星くんとおばあさんはおもちゃなどで遊んで過ごしていた。流星くんのお母さんが仕事から帰るとおばあさんは入れ替わりで帰った。翌週の週末に日帰りでおばあさんを帰らせるのを申し訳なく思った流星くんのお母さんは、泊まっていくように促した。その翌日、おばあさんは、流星はいつになったらピアノを弾くのか、と言及した。
流星くんの両親の間では、ピアノを弾くのは小学生からにしようと決めていた。それは小学生にあがるまでは、音楽の楽しさをわかってほしいとの思いからだった。
だが、おばあさんの思いは違っていた。
今から弾き始めないとプロになれないから駄目だ。使うためにピアノを買ったのだと頭ごなしに怒り、挙句の果てに、土日休みでないことを詰り、女は働かずに家事と育児をするものだと詰った。これに頭に来た流星くんのお母さんは思わず言い返した。
「私は別に流星をプロにさせるつもりはありません」
子どもの未来の可能性を広げても狭めることはしない、というのが流星くんの両親の教育方針だった。
「前々から気になっていたんだけど、女が家にいないのはどうかと思うけどね。ねえ流星だってピアノ弾けるようになりたいよね」
流星くんのお母さんが言い返そうと思った瞬間、流星くんが泣き始めた。
「二人ともケンカしないで」
流星くんの涙で、二人は怒りの矛先を納めた。だが納めただけで結局、決着はつかないまま翌週を迎えた。
事件があったのはその翌週のことだった。
流星くんのお母さんが仕事から帰ってくるとピアノの音が聞こえてきた。始めはおばあさんがなにかの曲を流星くんのために弾いてあげているのだと思っていたが、よくよく聞いてみるとピアノの旋律はたどたどしく、その音に混じり、怒声が聞こえてきた。
慌ててリビングに行くと、おばあさんが流星くんの手を叩いているのが見えた。流星くんは、体を震わせるほど泣き始めた。流星くんのお母さんはわが子を抱えた。
「お義母さん、なにやっているんですか」
「あなたがピアノを教えることができないから、私が教えてあげているんでしょう」
「だから、その話は前もしたじゃないですか。いままで音楽の楽しさをわかってもらえるように、音楽教室に通ったりしているのに、急にスパルタな態度で教えたら、この子が音楽を嫌いになったりするだけですよ」
「精神論はいいから、私のことを信じてちょうだい。いつかきっと私の教育がわかるときが来るから、あなたも流星も、ね」
「そんなときは来ません」
「全く強情ね」
「強情でもなんでもいいですから、とにかくお義母さんはもう来ないでください」
「ちょっと、そこまで言わなくてもいいじゃない。第一、土日は誰がこの子の面倒を見るっていうの」
「私が自分のネイルサロンに連れていきます。ですので、お義母さんは来週から来ていただかなくて、結構です」
流星くんは、この日を境にピアノが嫌いになったようで見るのも嫌がった。時折、ピアノを捨ててと口走ることもあるようだ。それから間もなく、友達に歌のことを馬鹿にされたのをきっかけに、有馬音楽教室に行くのも嫌になったという。
「すみません。長々と話してしまって」
「いえ、流星くんがピアノを嫌いになった理由がわかったので、とても貴重な時間でした。ちょっとピアノを見せてもらってもよろしいですか」
すっかり温くなってしまった紅茶を飲み終え、ピアノに向かう。
「はい、どうぞ」
椅子に座りピアノを弾き始める。曲は有馬音楽教室の発声練習。以前、流星くんを見かけたときに歌っていた歌だ。曲が終わっても、流星くんがリビングに来る気配はなかった。
「お母さんはこの曲、知っていますか」
「流星が歌っているのを聴いたことがあります。発声練習の曲ですよね」
「ええ、そうです。一度お母さんも歌ってみませんか」
「え? 私がですか?」流星くんのお母さんは不信感を顔いっぱいに浮かべる。「私は流星に歌ってほしいんですが……」
「僕も流星くんに歌ってほしいです。だからこそお母さんに歌って欲しいんですよ」
「ちょっと、意味がわかりません」
「僕の考えはこうです。お話を聞いたところ、流星くんは、お母さんとおばあさんがケンカをしてしまった原因であるピアノに嫌悪感を抱いていますよね。だから僕は、流星くんにピアノが楽しいものだと教えたいんです。例えば、お母さんがピアノの音色に合わせて楽しげに歌っていたら、流星くんはピアノに対する嫌悪感を払拭できるかもしれないと思いまして。どうでしょうか」
流星くんのお母さんは目を閉じ頷いた。再び目を開くとそこには母の思いが浮かんでいる気がした。
「わかりました。そういうことでしたら、私も流星のためにがんばります」
僕の初めての生徒は、大人の女性になった。
僕の歌の後に、流星くんのお母さんが歌う。二人とも最初に持ち合わせていた羞恥心は、一時間もすればなくなってしまった。途中、僕は、流星くんのお母さんに負けないように大声を出すのに必死だった。
一時間が経ち、休憩を挟む。急にピアノの音が聞こえなくなったからだろう、流星くんが階段を降りる音が聞こえた。
僕と流星くんのお母さんは他愛ない会話を続けながらも、意識はリビングの向こうにいる流星くんに向いていた。
流星くんがドアのガラスの間から、こちらの様子を窺っているのが見えた。入ってきてくれるのだろうか、と期待しながら見ていると僕はバッチリ目が合ってしまい、流星くんは小動物さながらの速度で二階に逃げて行った。
「行っちゃいましたね」お母さんが肩を落とす。
「まだ初日ですし、これからがんばりましょう」
いいながら、僕もずいぶんポジティブになったものだと思う。昔の僕だったら、考えられないほどの進化である。合コンに行ってレベルアップしたせいかもしれない。
「じゃあ、次はピアノを弾いて見ましょうか」
「ピアノ、ですか。弾いたことないんですけど」
「大丈夫です。一から教えていくので」
ドレミファソラシドの場所を教え、有馬音楽教室で使う教則本を用い練習した。初めてということもあり、片手のみの練習にしておいた。三十分ぐらいで切り上げようと思ったが、 流星くんのお母さんが思ったより意欲的に取り組んでいたので、そこから一時間延長した。
「ああ、もうこんな時間」
流星くんのお母さんは、よほどピアノに集中していたらしく、心底驚いている。
「そろそろ切り上げましょう。思ったより長引いてしまいましたね。今度からは時間通りに終われるようにします」
僕は言って立ち上がり、帰る準備を始めた。
流星くんのお母さんはピアノ鍵盤と楽譜を交互に眺め、復習しているようだった。楽譜は持って帰るつもりだったが、原本も家にあるし、その楽譜を使う予定も特になかったため、僕は提案した。
「もしよかったら、楽譜置いていきましょうか。練習もできると思いますし」
「え、いいんですか。ぜひお願いします。やってみると結構楽しいですね。ピアノって」
流星くんがピアノを嫌いになった理由を語っているときは悲痛そのものみたいな顔をしていたが、いまは流星くんのお母さんは無邪気な少女のように笑っている。初めての家庭教師としては上々じゃないだろうか、と思う反面、流星くんに対しては何一つ進捗していないのは今後の課題だろう。
「あ、そうだ流星呼んできますね。挨拶ぐらいさせないと」
「お構いなく」と言ったもののすでに流星くんのお母さんは二階に上がってしまったため、玄関で靴を履きながら待った。
流星くんのお母さんが二階から降りてきた。呼んでくるはずだった流星くんはいない。
「すみません」謝りながらも、流星くんのお母さんは笑みを浮かべていた。
「部屋のドアを開けようと思ったんですけど、発声練習の歌が聞こえてきたので、ジャマしちゃ悪いかなと思って、連れて来られませんでした」
「それは連れてくるわけには行かないですね。ではまた来週よろしくお願いします」
玄関を出て流星くんの家を見上げると流星くんが窓から僕の様子を窺っていた。
ダメ元で手を振ってみると流星くんも手を振り返してきた。
何一つ進んでいないわけではなさそうだ。