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「あれ、珍しいわね。怜くんが童謡弾くなんて」
家に着くなり、さっそく童謡を弾いているとミーコさんが言った。
「ちょっとね。新しいバイト始めようと思って」
「ポルカドットのバイトは辞めちゃうの?」
「それは続けるから大丈夫だよ。新しいバイトは夕方からの幼児講師のバイトだから」
「え、怜くんってロリコンだっけ」
「なぜそうなる」オネエに性癖を詮索されたくない。それに僕はロリコンではない。
「でも、そんなバイトあるんだ。資格とかいらないのかな」
「資格とかはいらないらしい。名目上はただの補助だから」
「楽しそうでよかったじゃない怜くん」
「そうだね」
ミーコさんは花柄のエプロンを着け、料理に取りかかる。
「その先生はなんて名前の人?」
ミーコさんはリズミカルに食材を切り始めた。
「有馬先生っていうんだけど、知ってる?」
「知らなーい。その先生カワイイ?」
「おばさんだけど、キレイな人だとは思うよ」
「おばさん、なんて失礼ねえ。怜くんのおばさんの定義はいくつからなの?」
「三十代後半ぐらいかな」
「ええ、私もおばさんってことー」
「あんたはおっさんだろ」
「まあね。ってこら」
ミーコさんは、背筋が寒くなるほどへたくそなノリツッコミをする。
「怜くんがキレイっていうなんて珍しいじゃない。ググったら出てくるかしら」
料理を作るのをやめ、スマホを取り出した。そのスマホの待ち受け画像は、父とミーコさんがディズニーランドに言ったときの写真だった。夢の国の破壊者ミーコ、というフレーズが思い浮かぶ。
「知らないよ。勝手にどうぞ」
「その人の下の名前は?」
「さあ、知らないけど。駅名と有馬音楽教室、で検索したら、きっとなんか引っかかるんじゃない。CD出したこともあるって言ってたから、少しぐらいなら画像あるかもね」
「おっけー。ググるぞお」
ミーコさんのスマホの画面を見るとヤフーの検索画面だった。
「グーグルじゃないのかよ」
「え? グルグルってなに?」
「グーグルだって」
「グーグルってなに?」
「ググるは知ってて、グーグルは知らないのかよ」
仕方なくググるの意味を教えてあげる僕は、やさしい人間だと思う。インターホンが鳴った。ドアモニタを覗くと宅配便のようだった。ネットで買っていたマンガと小説の届く日だった。
「怜くん出て、いま私ヤホってるから」
「ヤホってるって、何だよ。ヤフーで検索って言えよ」
言われなくても出るつもりだった。ミーコさんが応対したら、相手は驚いてしまう。受け取った荷物を持って、リビングに戻る。ミーコさんはスマホと依然格闘しながら、僕の抱えた荷物を見た。
「お、怜くん。アマゾったの?」
「なんでも動詞にするんじゃねえ。覚えたての言葉を使うのが楽しくてしょうがない子どもかよ。で? 画像はあった?」
「うーん。いま検索してるよ」
有馬先生の画像なんて正直どうでもよかった僕は、荷物の梱包を解き、楽しみにしていた磯部磯兵衛を手に取った。あっという間に磯部磯兵衛を読み終えた。ページを開いた瞬間から、自分でも驚くほどのすごい集中力で読んでいた気がする。そんな集中力を発揮して読むマンガではないが。
読み終えたあとは、急に空腹を感じた。
「ミーコさん。今日のごはんって何?」
いつの間にか料理を再開していたミーコさんは、さっきまで騒がしかったのに、借りてきた猫のように静かだった。食材を切るリズムに、どことなく違和感を覚えた。ミーコさんは僕の質問が聞こえていないのか、黙々と料理を作り続けていた。
「ミーコさん? ねえってば!」
きゃあ、と鈍い声をあげ、ミーコさんは驚いた。
「何、怜くん急に大きな声出さないでちょうだい」
「いや、さっきから話しかけてたよ」
「そうだったの、ごめんなさい。気づかなくて」
「うん、いいけど。今日のごはん何?」
「煮物よ」
その日、ミーコさんが作った煮物は、いつもより辛かった。ミーコさんが料理を失敗するなんて珍しい。
「醤油入れ過ぎちゃった」苦笑いを浮かべたミーコさんの目にうっすらと涙が滲んでいるのに気付いた。
「そんなことないよ」
僕は笑って、その涙に気付かないフリをした。
ミーコさんの苦笑いは、僕に質問させることを躊躇させるようなものだった。
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のどが張り裂けんばかりに歌いだす子どもたちが微笑ましい。有馬音楽教室は、年少から年長までの子たちが参加する。授業が始まる前に、月ごとに決まった童謡を歌うことになっているらしく、七月の歌は、「おばけなんてないさ」だった。
有馬先生は軽やかで楽しげに弾く。子どもたちは、飛び跳ねるように歌い、音楽の楽しさに触れている。
その中で一人、気になる子がいた。
左肩に星のワッペンがついたトレーナを着た男の子――名前は確か、木戸流星くん。
流星くんは、ワッペンをぎゅっと握り、歌うフリをしていた。
僕はその男の子の気持ちがわかる気がした。僕も小さいころは歌うのが苦手だった。僕が流星くんだったなら、きっと構って欲しくないのだろうと想像した。でも、それは子どもの意見だ。大人側から見れば、流星くんのような子は、とても目立つ。
「流星くんのことが、気になるみたいね」
子どもたちが帰ったあと、有馬先生が言った。
「よくわかりましたね」
「あなたがなにか話しかけたそうにしていたから。なにか気になる理由が?」
「あの子、歌うフリしていますよね。自分も歌が苦手な子どもだったんです。だから、なんか助けたくなってしまって」
「そうね。とても難しい問題ね。流星くんは、ちょっと前までは、歌うことが大好きだったのよ」
「え、そうなんですか」流星くんが、楽しげに歌う様子をうまく思い浮かべることができなかった。「なにか理由が?」
「流星くんのお母さんの話では、幼稚園のクラスメイトに笑われたそうよ。流星の声、女の子みたいだー、って」
山グソ、マジで音痴じゃね?
僕は松永に馬鹿にされたあの忌々しい日々を思い出した。あれをコンパクトにした感じだろうか。たとえ僕から見て小さな問題に見えたとしても、流星くんにとっては切実な問題だ。どうすれば流星くんが再び歌えるのだろうか。
「有馬先生は、あの子のことをどう思っているんですか」
「流星くんが、毎週通ってきてくれているってことは、音楽が嫌いになったってわけじゃなさそうだから、たとえ、歌うことが嫌いになったとしても、音楽の楽しさに触れてくれればいいと思っているわ」
うなずきながらも僕はそれでいいのだろうかと思う。
いまなら間に合うのではないか、と思った。
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かわいい子どもたちと歌った次の日は、オネエと演奏をする日だった。ポルカドットのバイトを続けて、二年たったことをとても早く感じる。二年も経てば一緒に働いている人の心の機微が手に取るようにわかった。
今日もナタリーは相変わらずごきげんで、あたりかまわずしゃべり散らかしている。源五郎はヘッドホンを付け、周りの音(主にナタリーの声)を遮断し、リズムを取って本番に備えていた。
一か所にオネエが集まった異様な光景に、心地よさみたいなものがあった。そんなとき、自分はここにいるという実感がある。大学ではそんな感覚が湧き上がることはなかった。
「ミーコ!」
ママの叫び声がしてグラスの割れる音がした。騒がしかった楽屋に不意に訪れる沈黙。ママの声に僕は慌ててミーコさんたちがいるホール側に向かった。ドレスが走りにくかった。
ミーコさんが床に横たわっていた。
「ちょっとどうしたのよ……」
ママがミーコさんに抱き起そうとしていた。
「大丈夫だから、なんでもないから」しわがれたような声でミーコさんは答えているが、とても大丈夫そうに見えなかった。
「手伝うよ」
ママに近づき、ミーコさんを起こす手伝いをする。ミーコさんの肌は、金属のような硬さと不自然なほどの熱さがあった。
「やだ、すごい熱じゃないのミーコ」瞳ママもミーコさんの異変に気付いたようだ。
「そんなことないわよ。ママ、大袈裟ねえ」
ミーコさんを起こしながら、割れたグラスが視界に入った。
「ミーコさん、怪我はない?」
「ええ、ないわ――」ミーコさんは嘔吐した。
ポルカドットのショーが始まる前に、僕はミーコさんを連れて家に帰った。しきりにミーコさんは謝っていた。大丈夫だよ、という僕の言葉はミーコさんには届いていないようだった。繰り返し謝るミーコさんは、なにか得体のしれないものに怯えているように見えた。ミーコさんのそんな顔を見たのは、初めてじゃない気がした。
煮物に失敗した日のことを思い出す。あのときも今と同じ顔をしていたのではないか。なにかの底を覗くような顔。煮物を失敗した日のもっと前から、僕はその顔を知っている気がした。それがいつの日のことかはわからない。
「ミーコさん、とりあえずなにか飲み物でもいる?」
ソファに沈み込んだミーコさんは、そばにあったクッションに顔をうずめている。僕の声には無反応だった。
ミーコさんが声を上げて泣き始め、僕は自分の部屋に戻った。
部屋に戻ってから、声を掛けてあげるべきだったのではないかと煩悶しながら眠りについた。