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#の章 第1話 バイトを始める冴えない理由

 シャープ[sharp]

一. 鋭い[印象が鮮明な]様子だ。

二. [楽譜で]半音だけ高くする記号。「♯」


 ♯


 高校を卒業して僕は、隣の市にある音大に通い始めた。電車で一時間かけて通った。手の怪我がピアノを弾くのに影響がなかったと言えば嘘になる。プロを目指すレベルではなくなってしまったのは確かだ。プロになりたかったわけではないが、道が閉ざされたように感じた。


 それをミーコさんに言うと、「選択肢が選びやすくなったんだから、逆によかったんじゃない」という、なんともまあ能天気な答えが返ってきた。呆れを通り越して、そんな言葉一つに僕は、救われたりもした。


 演奏者になれないのならば、何らかの形で音楽に関われないだろうかと最近ではぼんやり思い始めている。


 ポルカドットのバイトも相変わらず、週に三回ほどのペースでこなしている。僕の通う音大の偏差値は、中の下だった。そのため、学業が忙しいということもなく、どこにでもいるバカな大学生に成り代わっていた。それは、進化ではなく退化だろうか。中高生だったころの僕が、いまの僕を見れば、侮蔑のまなざしを向けるかもしれない。それでも僕は、怠惰な大学生でいることを受け入れ、日々を無為に送っていた。


 いまでは、心のことも思い出すことも少なくなった。ただ、どこかで、幸せに生きていてくれればと思う。


 高校生のころと同じように、学校の屋上で昼食を取る。日差しが強く六月に入り、気温はすでに日影でも汗が吹き出すようだったが、僕は外で食べることを信条としていた。いや高校生のころからの習慣か。


 ミーコさんの作る晩ご飯の余りを詰め込んだ弁当は今日も美味い。


「怜!」


 田中恵一が、屋上のドアをぶち破るように開ける。


「な、何?」


「なんで一人でメシ食ってんだよ。食堂でみんなと食おうぜ。外だと暑いだろ」


「だから、いつも言ってるけど。昼食は一人で食べたいんだって」


「みんなでメシ食ったほうがうまいじゃんか」


「食事をする人数が増えたって味は変わらないよ」


「変わるかもしんないじゃんか。あ、話変わるけどさ、今日、ヒマ? 暇だったら帰りマック寄ろうぜ。そこで話したいことあるんだ。とても重要なことだ」


 ハンバーガーを食べたいというときは田中恵一と時折マクドナルドによるときがあった。つい先月もしぶしぶ行ったばかりだったが、田中恵一が神妙な顔を浮かべている。僕は彼に何かあったのではないだろうかと思い、行くことを了承した。

 講義が終わり、一緒にマックに向かう。


 マックに入り座るなり、田中恵一はまっすぐなまなざしで、なぜか声を落とす。

「来週の土曜日、空いているか、怜」



「なんで?」


「合コンだよ。合コン」


「……やめとくよ。バイトあるし」


「ええ、またバイトかよー。つれないなあ」


「ごめんよ」

 僕は嘘をついた。その日はポルカドットのバイトは休みだった。


 ポルカドットのバイトがあったとしても、合コンに行きたくなかった。恋人というものに、興味が持てなかった。高校生だったころは、恋人というのはまるで夢物語のように感じていたが、あるときを境に興味がなくなった。人と関わりすぎてはいけないのでは、と思うようになったのが理由かもしれない。僕と関わると相手は不幸になるのではないかという強迫観念があった。


「じゃあ、次は絶対に行こうぜ。次は、幼稚園教諭の卵を予定してるからさ。じゃあな」


「うん、考えとくよ」


 嘘をついて虚しくなるぐらいなら、なにかバイトを探そうと思った。人付き合いを断る口実となるバイトを。そのときの僕は、バイト先でも新たな人間関係がうまれることに気付いていなかった。僕は自分で人と関わる方に進んでいると思った。


 ♯


 電車のど真ん中で揺られながら、スマホでバイトを探す。大学生がやれそうなバイトは、ポルカドットの時給よりも低い。水商売のポルカドットが高すぎるせいもあるが、これといってやりたいと思えるものがなかった。駅に停車したタイミングでドア側にいた人が少なくなり、僕はドア側に移動した。スマホのライトに目が疲れ、ドアの外に目を向けた瞬間、白い家の柵に掛けられた看板が目に飛び込んできた。


 有馬音楽教室。幼児向け講師募集中(未経験可)!!


 毎日通っていたはずなのに、看板の存在に気付いたのは始めてだった。電車の扉は僕が降りるのを待っているかのように、開いたままだった。駅を降り、僕はそのピアノ教室に向かった。


「有馬」と表札が掲げられた家のインターホンを鳴らす。鳴らした後に気付く。いくらなんでも、急すぎたのではないだろうか。事前に電話して、講師について訊くべきだったかもしれない。帰ろうか。いや、鳴らした手前帰れない。


「はい」

 透き通るような声がインターホンから聞こえた。


「えっと……。あの、看板」しゃべることを考えておらず口ごもる。


「あら、もしかして講師募集を見てくださったのかしら」


「あ、は、はい、そうです」


「ちょっと待っててください」


 しばらくして、玄関のドアが開く。

 四十代ぐらいの長髪の女性が現れた。その人は細い腕に白い薄手の手袋を付けていた。この暑さだというのに、ロングスカート、長袖、という恰好だった。日焼けを嫌がっているのかもしれない。


「こんにちは」


「あ……はい」


「どうぞ、上がってください」

 何のアポも取っていないのにずいぶんとスムーズだ。居間に通され、ソファに腰掛ける。家にあるものすべてに高級感が満ち溢れていた。


「紅茶はお飲みになりますか」


「はい、お飲みになります」

 高級感に圧倒され、僕の日本語が危うい。


「お口に合うといいのだけれど」

 テーブルの上に置かれた紅茶から、甘いにおいがする。出された紅茶を飲む。美味しいかよくわからないが、上品な味だと思った。


「あ、そういえば自己紹介してなかったですね。ピアノ講師の有馬です。どうぞよろしくお願いいたします」


「山口怜と申します」

 自己紹介を皮切りに、いろいろな質問をされた。


 ピアノ暦は? 子どもは好き? ピアノを始めたきっかけは? 毎日弾く時間はある? 好きな演奏家は?


 有馬さんは、朗らかな笑顔を絶やすことなく接してくれた。その笑顔に安心したのか、僕は僕なりに上手くしゃべれている気がした。


「じゃあ、好きな曲を弾いてもらえますか。ポップスでも、クラシックでもなんでも好きなものを」


 なにか一曲弾いてと言われていたら、多分クラシックを選んでいただろう。


 なんでも好きなものと言われた僕は、昨日ポルカドットで弾いたエルトンジョンのユアソングを弾くことにした。キャッチーなメロディの中に、触れると壊れてしまいそうな繊細さがある。

 エルトンジョンの原曲もいいのだけれど、僕はミーコさんの歌と繊細なメロディが、バッチリはまる瞬間が好きだった。

 その瞬間、観客の心は奪われる。

 あの瞬間に、脇役でいられる僕は幸せだと思う。


 サビの部分に差し掛かると僕は自分でも思いがけない行動に出た。つい、口ずさんでしまった。バイト中もそんなことをしたことがなかったのに。ミーコさんの歌がそこにないという物足りなさが、歌になって飛び出したようだった。僕の歌は、ミーコさんに比べることすらできないほどの下手さだ。


 曲を終えると、僕の拙い演奏に有馬さんが拍手をした。

「上手ですね。人前で弾くことに慣れている気がしました。ただ、弾き語りは、あまり経験がないように見えましたね」


「はい、そのとおりです」


「慣れれば、カンタンですよ。山口さんの抜群のリズム感があれば、子どもたちもいいリズム感が養えそうです」


 抜群のリズム感、なんてものが自分に備わっているのだろうか。畏れ多い褒め言葉だ。


「で、いつから入れます」


「へ?」


「バイトのシフトです」

 あっさりとバイトに入ることが決まった。一ヶ月は、試用期間みたいなものをすると告げられた。その間に童謡の練習ができるようにと楽譜をもらった。時給は市の最低賃金並の安さだが、ピアノを弾いてお金を貰えるなら安くてもあまり関係なかった。帰り道すがら気付く、人付き合いを避けようと思い始めようとしたバイトは、もろに人と関わる仕事ということに。僕は高校生のころから、進歩していないようだ。


 子どもの僕が、子どもたちの相手をできるのだろうか。

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