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部室は乱雑に物が散らかっていた。散らかっているのはいつものことだったので、驚きはしない。だが、心や松永達の姿が見当たらない。
何があったのだろうか、見なかった動画の続きに何かあったのだろうか。動画の中で心が縛られていた場所の辺りに血が飛び散っているのを見つけた。そのとき、どこかから、ぎゃはは、と知能の低さを露呈するような笑い声が聞こえてきた。声のありかは、部室内ではなく、校舎の方から聞こえた。笑い声の中には悲鳴のようなものが混じっていることに気付いた。
ずっと消えないイヤな予感がむくむくと膨らんでいく。
部室を出て、騒がしい声のありかを探す。三階の北側にある僕の教室からその声はしていた。突如、窓が割れ、イスが落ちてきた。イスの落下場所には幸いにも誰もいなかった。
イスの足がひん曲がっていた。人間の場合でもあんなふうになってしまうのだろうか。僕は想像の中で、松永を突き落とす。突き落すだけでは物足りないだろう。
僕は階段を駆け上がり教室に向かった。
教室の周りに野次馬がうじゃうじゃいた。僕は人の波をかき分けて進む。その波に揉まれながら、「先生呼んでこいよ」「さっき誰かが呼びに行った」などの声が聞こえてきた。やっとの思いで、教壇側の扉前に出る。
心がいた。松永がいた。クラスメイトがいた。
心は、ロッカー側の扉付近にいた。ブラジャーとズボンだけの姿で両手にイスを抱え、イスの足を対面にいる松永に向けている。
「何やってんだてめえはっ」
松永は声と顔に焦燥を浮かべ、ほうきの柄の部分を掴み、振りかぶっていた。松永の後ろにある窓ガラスが割れている。教室の真ん中あたりに、子分その一は心と同様にイスを持ち、子分その二はサッカーボールを持っていた。
クラスメイト達は、怯えて動けないもの、遠巻きに見てじりじりと教室外に逃げようとしているもの、の二種類がいた。
心が咆哮した。何を言ったかは聞き取れない。
心がイスを投げた。松永が腕でガードする。イスが松永の腕に当たり、鈍い音がした。子分たちは手に持っていたものを投げた。イスとサッカーボールが心の前を虚しく横切った。心が子分たちを睨む。子分たちは、ひっ、と声をあげる。
「痛えっつうの」
松永がほうきを振りかぶり心に向かった。心が傍にある机を投げつけた。松永は机と衝突し、後方に倒れる。心はその隙を逃すまいと近づき、倒れた机の脚を持ち、机の天板を松永のひざに叩きつけた。
松永が叫ぶ。
「痛えっ!」
痛い、と言えているうちは、まだ大丈夫だ。本当の痛みを感じたときというのは、声を上げる暇すらない。いま無様に喚いているヤツから、唯一教わったことだった。
「ぼくは、もっと痛かった」
心がつぶやき、机をもう一度松永のひざに叩きつけた。
めしゃ、という音が聞こえた。天板の割れた音、もしくは松永のひざが潰れた音だろう。
「痛っ――」
「わたしの方がもっと痛かったぞ!」
心が叫び、机を叩き付ける。
松永の顔が一気に膨張したように見えた。死にかけの金魚のように口をパクパクさせ、喘ぐ。遂に声も発することのできない痛みに達したようだ。
いつのまにか、教室の中は、心と松永の二人だけだった。子分たちは、野次馬に紛れ、ご主人さまを助けようともしない。
心は馬乗りになって松永を殴りまくる。
「お前ら、どけ!」
体育教師の所田の声がした。人垣が割れていく。心もその声に気付いたようだった。松永に体重をかけたまま野次馬どもに視線を向け、自分の置かれた境遇に気付いたらしく、見る見るうちに顔が青ざめていった。
心と目が合った。僕に向かって心が何かを言おうとしたその瞬間、松永が飛び跳ねるように起き上がる。心の顔が苦痛に歪んだ。心の足元に、ガラスの破片が突き刺さっていた。それを掴む松永の手は、心の足同様に血まみれになっていた。
心は松永の方へとバランスを崩した。とっさに松永は心の髪を掴んだ。心の柔らかい髪が、松永の手の中で潰れていくのを見たとき、僕は走っていた。
「殺して、やる……」
再度ガラスの破片を手に取る松永。
「首潰してやるよ。おれの足潰しやがったんだ。だから、潰す!」
松永が心の首を目掛けてガラスを突き立てる。
その瞬間、僕は左腕を突き出し、心を守る。
僕の手の甲を突き破るガラス。不思議と痛みはない。
「あ? 何やってんだ山グソ。どけ」
「ぜったいにどかない」
松永が僕の手に突き刺さったガラスを引き抜こうとしている。僕は痛覚がなくなった左手を動かし、松永の手とガラスを押さえる。松永からしたたり落ちる血の量が増え、それに比例して僕から溢れる血の量も増える。
「どけっ!」
「どかない」
このガラスで松永の指などすべてちぎれてしまえばいい。僕はガラスを引っ張る。
「やめろ! お前たち」
所田が叫び、僕の体を引っ張るように持ち上げた。僕の引っ張る力に所田の力が加わり、ガラスは松永の手から滑るようにして抜けた。
松永は全身を震わせ、痛みに悶絶する。
ざまあみろ。いままで僕にした仕打ちの罰だ。
松永はとめどなく流れ続ける血を集めて、右手に戻そうとしていた。痛みでパニックになっていた。そこで僕は自分でも感じたことのない痛みを松永に与えたことに、怖くなった。ざまあみろ、という思いはもうどこにもなかった。
心がゆっくりと歩き出した。心は顔に虚ろな笑みを貼りつけながら、進んでいく。自分の意志ではなく、誰かに歩かされているかのようだった。
心の向かう先には、壊れた窓しかなかった。
僕は所田の手を振り払い、心の前に向かった。
「ダメだ。心、何をする気だ」
右手で心の肩を掴み、僕は叫んだ。心の肩は、驚くほど冷たかった。冷たさを感じた途端、左手の痛覚が戻ってきた。痛みに顔が歪む。
「……もう、ダメだ。なにもかも」
僕の押さえた手に構わず、心は呟きながら進んでいく。心が僕を突き飛ばした。尻もちをついた僕は、心が窓枠に手をかけ、桟に足を掛けるのを見た。
「やめろ。やめろ。やめろ」
叫びながら、心に飛びつくように近づく。心が身に付けているブラジャーに指が掛かる。思い切り引っ張る。心がバランスを崩し、僕の方に倒れてくる。どこかで見た風景。自転車を川から引き揚げたときと同じだ。
あのときは――支えられなかった。
だから――いま、この瞬間は。
支えなくてはいけない。
僕は足を広げ、重心を落とす。心の体を正面から、受け止める。心は驚くほど軽かった。ガラスを踏み足が滑り、尻もちを突きそうになった。羽のように軽い体を抱きしめるように支え、転倒の衝撃から守る。心の頭がちょうど僕の胸に預けるような格好になり、髪からは甘い匂いがした。
「ごめんなさい……」
心は全身を震わせながら、涙ながらに何度も謝っていた。誰に謝っているのだろう。教師だろうか。クラスメイトだろうか。松永だろうか。僕だろうか。それとも、自分にだろうか。
「お母さん……お父さん……。ごめんなさい。うまれてきて、ごめんなさい」
謝っているのは、両親だった。
僕は言った。
「謝らなくていい。君は――間違ったことなんかしていないんだから」
僕の言葉が届いたからなのかはわからないけれど、心の泣く声の音が半音だけ低くなった気がした。
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あれから、怪我の療養も兼ねて一週間休んだ。
明日、学校に行く、と父とミーコさんに言うと二人とも驚いた。
「いやいや、怜くん。もうちょっとゆっくり考えなよ。無理して学校なんて行くもんじゃないし」
「そうよ。怜くん。次郎さんの言う通りよ。あんなことがあったばかりでしょ……」
「あんなことがあったから、行くんだよ」
「でも……ねえ」「だってぇ」
父とミーコさんは僕の言葉にたじろいだ。
「僕がここで行かなかったら、心を否定しているみたいじゃないか」
「心ちゃんもそんな風には、思わないわよ」
「でもさ、ミーコさん。ミーコさんは、学生時代にクラスメイトに遠慮なんかしてやらない。私は私なんだからって言ってたでしょ。だから僕もミーコさんを見習って、学校に行きたいんだよ」
ミーコさんは困ったように笑いながら、ため息をつくようにぼやく。
「そうは言ってもねえ」
「まあいいじゃない、ミーコさん! こんな積極的な怜くん見たことないよ。僕。うれしいねえ。怜くんかっこいいぞ」
能天気に笑う父の目の端に、うっすらと涙が浮かんでいるように見えた。
「確かに次郎さんの言う通りだけど、怜くんがまたヒドイ目に合わないか心配だわ」
「大丈夫だって。僕には僕のことを心配してくれる人がいるっていうだけで、心強いんだ」
僕の言葉にしぶしぶうなずくミーコさん。そのまなざしに込められたやさしさに、ちょっとでも油断したら泣いてしまいそうになる。
「じゃあ、おやすみ」
ごまかすようにそういって、僕は部屋に戻る。
階下から聞こえる『月の光』を聴き、カーテンのすき間から零れる月の光を浴びて、僕は眠りについた。
翌日になって、心に電話をかける。コール音が留守番電話の機械音声に変わった。留守番電話に何か話しかけようとしても、言葉が出てこなかった。
電話を切ってから、君のことが心配だ、と言えばよかったと気付いた。
教室のドアを開けるとクラスメイトから視線が突き刺さってくる。いままで、空気以下の存在であった僕にとってそれは息苦しく鬱陶しいものだった。僕と心の机の上に花瓶が置かれていた。ドラマなんかでよくある死者に手向けられる花らしい。以前までの僕なら、憤怒の激情に溺れていただろう。だが、今日の僕はステレオタイプな嫌がらせしかできない彼らのことを哀れに思えた。
僕と心の机は、ぴったりとくっつけられ、互いの机を合わせて大きな相合傘が描かれていた。相合傘の内側には、性的マイノリティを差別する蔑称が書かれている。相合傘の描かれていないスペースには乱雑な字で、罵詈雑言が書き連ねられていた。クラスのあちこちから、書き連ねられているのと同じような罵詈雑言が聞こえた。それをなにかの呪いのように感じたが、信心深くない僕は、呪いなど無視し、花瓶を元あったロッカーの上に戻し、席に座る。舌打ちが聞こえた。
窓の外から視線を感じた。門の傍に誰かがいる。僕のクラスを見ている。始業のチャイムが鳴った。
その誰かは、父の服を着た男っぽいミーコさんだった。父の服を着たミーコさんは、十割以上僕の父だった。そんじょそこらの双子よりも似ていて、いじわるな間違い探しよりも難しい難問ではあるのだが、ミーコさんだとわかった。
ミーコさんと父がある時期から見分けがつくようになった。
理由はわからない。ある時期がいつからだったかもわからない。昨日かもしれないし、今日かもしれない。
僕が見ていることにミーコさんは気づき、そっと手を振った。授業中に手を振るのは、さすがに抵抗があった僕は、心中で大きく手を振り返した。それが伝わるように、僕は満面の笑みを浮かべてみた。伝わっただろうか。
ミーコさんの周りにぞろぞろと中年男性が集まり始めた。よく見るとその人たちは、ポルカドットの面々だった。ナタリーだけはなぜか舞台衣装で、ミーコさんたちからどつかれていた。もしミーコさんたちが舞台衣装で来ていたとしたら、ナタリーは男服だったのだろう。ナタリーはド天然だから。そう考えると笑いそうになった。
ナタリーが僕に気付き、手を振った。
「怜くーん。ナタリーだよ」
周りの屈強な体格のオネエたちが、ナタリーの口を押さえ始めた。そこで僕は耐えきれなくなり、笑いが止まらなかった。
この間まで、クラスの空気のようだった僕。
今日から毒ガスのようになった僕。
状況は悪くなっている。
なのに――
どうしてだろう。
僕の心はこんなにも豊かだ。
気付けば、手を振っている僕がいた。
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その日の帰り道。
心からメッセージが来ていた。
文面は、一言。
さよなら。
それから、二年が経った。