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♭の章:第6話 トラウマの扉

 ♭


 中学校に入り、僕の人生は悪い方へ悪い方へと転がった。


 全ては、母のせいだった。


 僕が中学生になった春のこと。自分の浮気が原因で離婚した母はふいに帰ってきて父に、やり直したい、と懇願した。父は驚くほどすんなり受け入れて、その日から、料理を作る担当は母になった。


 ある日、母が作ったクソマズイ豚肉の野菜炒めを食べ、僕は腹を壊した。多分、豚肉が腐っていたのだ。その日の朝から、父と僕は遅刻ギリギリの時間になるまでトイレを交互に使った。


 今思えば、休めばよかった。それでも僕は学校に行ってしまった。


 小学生に毛の生えた存在である中一の休み時間はくだらないことばかりで、そのときにクラスの男子で流行っていた遊びが、よりにもよってカンチョーだった。


 腹が猛烈に痛くなり、休み時間にトイレに駆け込んだ。ちょうど小便を終えた松永が、背後に忍び寄っていることも知らず、僕は個室トイレのドアを開けた。間に合ったという安堵に気が緩んでいた所を、ずぶりと指を肛門に刺された。


 なぜ、どうして、そんなことをするの。


 江戸時代、闇討ちに遭った人はこんな気持ちだったのだろう。


 僕のからだから魂の抜ける音が聞こえた。僕は汚れた。身も心も。

 松永は慌てて謝った。

 この時の彼にはまだ良心があった。

 体育で使うジャージを持ってきてくれた。僕はそれに着替え、松永に「誰にも言わないで」と泣きながら懇願した。

 その後、保健室に直行し、保健の先生に事情を説明し、早退させてもらった。


 全力疾走で、学校から逃げるように帰った。


 玄関を開けると――


 知らない靴があった。

 知らない人がいた。

 知らない母がいた。

 人が絡み合っていた。

 母の不倫現場を見てしまった。


 自分という存在がこんな行為の延長線上にいることに気持ち悪くなり、吐いた。


 食中毒と診断され、一週間ほど学校を休むことになった。


 久しぶりに学校に通うと僕は名前で呼ばれなくなった。山グソという名前で呼ばれるようになった。


 誰にも言わないで、とお願いしたはずなのに、僕の惨事はクラス中に知れ渡っていた。


 それ以来、父以外の人に心を開けなくなった。


 なのに。


 ミーコさんが僕の心の扉をノックして、川島心が僕の心を開いた。


 開いたとしても、どうせ向こうから閉めるのがわかっていた。


 そうなる前に僕は、それを閉めようと思う。


 けれど、なにかが引っかかって完全に閉めることはできなかった。



 高校生になってよかったことは、昼食時は自由な場所で食事できるということに尽きる。これは、とてもありがたかった。


 中学生時代の給食は、非常につらいものがあった。机を周りの生徒とくっつけ合いたのしいおしゃべりをして、交流を図る。その場に僕が入り込めるわけもなく、机をくっつけなかったら教師に怒られ、机をくっつけたら周りの生徒にキモイと蔑まれた。


 弁当制だと学校のなかなら、どこで食べてもいいし、買ってきたものを食べてもいい。


 松永たちに、パン買ってこいと命令されることもあったが、パンをさっさと買ってくれば、彼らは僕に構うことなく食事をむさぼった。まるで畜生である。いや、畜生そのものだ。


 松永たちにエサを与えた後は、僕の自由時間だった。


 川島心は、女の子たちに、学食の場所教えてあげる、と強引に連れられて行った。


 羨ましかった。


 同じクラスになって半年経つ僕と四時間ほど経った川島心とでは、根本的な作りが違った。産まれた瞬間に、格差はある。僕がいくら縮めようと努力しても、才能を生まれ持った人物には届かない。これ以上みじめな気持ちにならないように教室を出た。


 僕のように他人と交われない人の中には、トイレの個室で食事をすることもあるとテレビかなにかで聞いたことがあるが、僕は中学生時代のトラウマから、学校の個室トイレに入ることができなかった。


 僕が食事をする場所は屋上だった。本来なら、鍵がかかっているのだが、用務員室に忍び込み、屋上の鍵を盗んで合鍵を作った。精神安定のためには、窃盗まがいのこともやむをえない。


 屋上に繋がるドアを開き、しっかりと鍵を閉めた。入口の反対側にあるはしごを昇ると給水ポンプがある。屋上で食事していることが極力バレないようにするため、給水ポンプに隠れて座った。


 松永たちのエサの買い出しのついでに一緒に買ったパンを頬張る。カレーパンとメロンパンが、いつもの僕の食事。


 カレーパンを食べ終えメロンパンの袋を開けるとドアの開く音がした。


 鍵を閉め忘れたか――いや、確実に閉めた。


 用務員か――あり得る。


 僕はメロンパンを頬張ったまま、息を殺した。


 その人物がドアを閉め、鍵をかけた音がした。出て行ったのか、屋上に留まっているのかは、ここからでは死角でわからない。


 足音。


 まだいる。


 金属音がした。


 はしごを昇っている。


 パニックで辺りの音が消えた。


 ここにいる言い訳を考えないといけない。


「あれ? 怜くんだ」


 謎の人物は川島心だった。


「心? なにひているのそんなところで」メロンパンで口がもごもごした。


「こっちのセリフだけど、それ」


「メロンパン食べてる」


「それはわかる」


「屋上は生徒立ち入り禁止だよ」


「君も生徒じゃないか」


「そうだけど。なんで入ってこれたの? 鍵は?」


「ぼくの質問に答えてくれたら、教えてあげる」

 心ははしごを昇り切り、手に持っていたハンドバッグを置き、僕の前で座った。僕のようにあぐらをかかず、ひざを立て体操座りをするように座っている。


「わかった。僕は合鍵を持っているんだ」心も共犯みたいなところがあるため、教師にチクるようなことはしないだろうという安心感から僕は鍵を盗み合鍵を作ったことも正直に伝えた。

「心が入ってこられたのは、どうして」


「これさ」心はポケットから針金を出した。「ピッキングだよ」


「ピッキングって、犯罪じゃないの?」


「きみの窃盗だって犯罪だろ」心は僕に向け指を差した。


「あ、そうか」


「ぼくたちは、これで共犯だね」


 僕も思っていたことを心は言う。心の笑顔は、吸い込まれそうなほど魅惑的だった。僕が女の子だったら、恋に落ちていたはずだ。


「でも、どうして屋上に来たの? 女の子たちと一緒に食事をすればよかったじゃないか」


 僕にはできないことができる彼が、僕と同じようなことをしていることが疑問だった。


「一人になりたかったんだ。彼女たちは、ぼくに興味があるわけじゃない。転校生にやさしく接している自分を誰かに見せたいだけだ。それにぼくは弁当を持ってきているし。売店とか学食の場所なんかどうでもよかったんだよ」


 穏やかに話していたと思ったら、途中から荒げるように言い切った。荒げる、といっても、そよ風のような些細なものだったのだけれど。僕が作り上げつつあった川島心という人間とは、全く別の川島心がそこに存在していると思った。


 独りでしかいられない僕と、一人になろうとする彼。

 似ているようで、全く違う。

 僕からすれば、彼はひどく傲慢に見えた。


「ねえ、お昼ごはん食べたの?」


 彼は僕の醜い嫉妬に気付かずに、あっけらかんとした口調だった。


「いま食べてる」


 メロンパンを心に見せた。


「え、それおやつかと思った。ホントにパンだけなの? ダメだよ。そんなの栄養が全然取れてないじゃないか」


 主婦みたいなことを言うやつだ。


「いいんだよ。これで」ふてくされた子どもか、僕は。


「ダメだってば。ぼくなんか、こんなに野菜食べてるよ」

 またも主婦っぽいことを言って、心は弁当箱を開いた。


 ほうれん草のおひたしに、ひじきの煮物、ニンジンのサラダ、などなど色とりどりの料理がこれでもかといわんばかり、詰められていた。そのまま料理本の表紙を飾れそうなほど鮮やかな弁当だった。


「すごっ。お母さんが作ったの?」


「ぼくが作ったんだ。一人暮らしだからね」


「え、両親はいないってこと」

 言ってから、あまりにも不躾すぎたと反省した。好奇心が礼儀より勝っていた。


「いるけど、いないって感じかな」

 彼の色鮮やかな弁当から、プチトマトが転げ落ちた。トマトはほこりで真っ黒になった。


「それって――」


 心が僕の意見を遮って、続ける。


「ぼくは両親とは、離れて暮らしている。多分、これからもずっと」

 それから心は黙って弁当を食べた。心はほとんど咀嚼せずに食べていた。まるで味わっていなかった。


 聞いてはいけないことを聞いてしまったのではないかと思いながら、僕はもそもそとメロンパンを食べた。ゆっくり食べ過ぎたのか、心が弁当を食べ終えるのとメロンパンを食べ終えるのはほとんど同時だった。


「きみって友だちいないでしょ」

 弁当をしまいながら、心は僕に突き刺さる言葉を向けてきた。


 この状況を見れば、誰でもわかることだ。


「そりゃ、そうさ――」

 自分で思う分には問題ないのだが、改まって誰かに言われるとつらいものがあった。だから、それをごまかすように語気を強めた。


「じゃなきゃ、こんなところで一人、パンなんか食べないよ」


「じゃあさ」


 風が吹き、心の目が前髪で隠れた。


「ぼくと――友だちになってくれよ」


 僕は返事をすることができなかった。


 嬉しさのあまり。

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