♭
学校に着いて川島心と別れた。別れた後でクラスを訊くのを忘れていることに気付いた。思えば、学校の人間で教師以外の誰かと会話するのなんていつ以来だろうか。松永とのやりとりは、会話ではなく命令だ。
僕にも同級生と会話する能力が残されていた、と錯覚してしまう。
彼は、普段の僕を知らないから自然な態度で接してくれていたのだろう。
彼がもし僕と同じクラスだったら――。
僕らは友達になれるだろうか。
希望を抱いてはいけない、と僕は五年前に誓ったはずなのに。
起こる物事を全て悪い方に考えろ。
物事が思い通りにいった試しなんてない。
始めから諦めていれば悲しむ必要なんてない。
それでも、僕は考えてしまう。
彼が同じクラスになったら、残り半年の高校生活が変わるかもしれない、と。
細心の注意を払い教室のドアを開く。クラスメイトはおしゃべりに夢中で、僕の存在に気付いていなかった。人一人分のスペースだけドアを開き、体をずらし、滑り込むようにして教室に入る。誰も僕の存在に気付いていなかったはずなのに、視線が自分に集中しているように感じる。
目線だけをずらし、近くの人物を見た。僕のことなど見ていなかった。僕の思い過ごしだ。いつもそうなのだ。わかっているのに、そう思ってしまう。窓際の一番後ろの席に座る。クジ引きで決まった一番いい場所だった。おそらく僕の今年一年分の運は使い果たしてしまったかもしれない。だからこそ希望を抱いてはいけないのだ。時計を見ると授業が始まるまでまだ十分もある。
松永の下品な笑い声。うるさかった。
栗林弘子の男に甘える声。気持ち悪かった。
クラスの誰もが誰かと話す声。感覚を遮断したかった。
目に何も映らなかったら女の子に緊張しないし、耳が聞こえなかったらくだらない話し声も聞かずに済む。他人から拒絶された分だけ、感情と感覚をパチンパチンと爪切りみたいに切り取っていけば、僕は僕しか存在しない世界に行けると思う。その世界には、ピアノだけを持っていこう。
きっとそこは、ピアノの黒い部分以外は真っ白な空間が縦横無尽に広がっているだろう。そして僕のからだは無色透明。僕がピアノを弾くと空間に、五線譜と音符が空間の至る所に描かれていくイメージを想像した。
感情は遮断しても、感覚を遮断してしまったら、ピアノの音色が聞けなくなる。それはどうしても嫌だった。感覚を遮断したくても、感覚と向き合っていかないといけないのだ。そんなことを考えながら机の上で、『月の光』を弾いた。音色は僕の頭の中で響いている。
チャイムがなり、ドビュッシーを中断した。教室は少しだけ話し声が静かになった。しかし、松永とその取り巻きの声だけはやたら響いている。ヤツらは授業中もしゃべり続けているのだ。
勉強する気ないなら学校やめろよ。
クズ。
担任の安倍太がドアを開けた。太という名前に恥じずに肥えた安倍先生の後ろに誰かがいた。
川島心だった。
話し声が消えクラス中の視線を川島心は浴びていた。
「えー突然だけど、今日からクラスメイトが増えるよ。じゃあ川島くん自己紹介しよっか」
「はい」
安倍に言われ、川島心は背筋を伸ばした。
「川島心です。親の都合により引っ越しをしてきました。残り半年という短い期間でありますが、よろしくお願いします」
透き通った水のように透明な声だった。
「先生ー。川島さんに質問してもいいですか」栗林弘子が手を上げた。
「どうぞ」
「声がずいぶんとかわいらしいんですけど、男……の子、ですよね?」
女子である栗林も僕と同じようなことを思ったようで、ホッとした。
「はい。そうです。声変わりはほとんどなかったので、こんな変な声ですが、笑わないでくださいね」
クラスがざわついた。主に女の子たちが口々に、「え、可愛くない? あの子」「アイドルみたい」「私より、カワイイんだけど」としゃべりだした。
「はい、静かにしようかみんな。ええと川島さんはどの席に座りたいかな? 視力が悪かったら前の方に座ろうか。初めてだし、好きな席に座っていいぞ」
「はい、ありがとうございます。視力は問題ないんですけど――」
川島心は、クラス中を見回した。
女子たちがまたも騒ぎ出した。髪を整えそわそわしている。どうやら自分の席の隣に座って欲しいらしい。
「あ」
川島心と目があった。
手を振られた。
「山口くん」
クラスメイトの視線が僕に突き刺さる。女子から殺意めいたものを感じとった。
「なんだ君たち知り合いか?」
安倍先生が驚いていた。僕はその何倍も驚いた。
「ええ、朝、学校の道のりを教えてくれたんです」
「そうか、顔見知りか。じゃあ山口の後ろに座るか。スペースあるし、ちょうどいいしな」
僕の席は一番後ろだったが、スペースは大分余っているので、たしかに空いていた。
「はい。おねがいします」
川島心が僕の後ろに机とイスを持ってきて、座った。
「よろしくね。山口くん」
「よ……く」
痰がのどに張り付いて、うまくしゃべれなかった。
ピアノしかない僕だけの世界に、ソプラノの歌声が聞こえたような気がした。
♭
「学校案内してよ」
川島心が休み時間に言った。
「う……ん」
僕ごときに案内できるか不安だった。休み時間は、いつも座っているし、そもそも他人としゃべるのが苦手だ。
「ありがと。じゃあ、いこっか」
川島心が立ち上がり歩いて行った。僕は追いかけた。これじゃあ、どっちが案内されているかわからない。
教室の外には、転校生を見に来た他のクラスの生徒で、いっぱいだった。川島心は、そんな視線をものともせず、僕に話しかける。
「音楽室ってどこにあるかな?」
それはわかるけれど、どうして彼はそんな場所が知りたいのだろう。彼も音楽が好きなのだろうか。
「こ、こっちです」僕は召使いのように、手を音楽室に向けた。
「なんで、君は敬語なの? 変わってるね。君」
僕が変な人間だということに、もう気づかれ始めたのか。
「こっちやで」
言い直したが、言い間違えた。
「今度は、関西弁? おもしろいね。怜くんは」
怜くん、と父とミーコさん以外の人に久しぶりに呼ばれた。会って間もないのに、名字で呼んだかと思えば、急に名前で呼ぶなんて、まったく馴れ馴れしい奴だ。嬉しいじゃないか、このやろう。
音楽室に進もうとすると女子集団が後ろから、付いてきた。
「なんだよ。あの子たち。うっとうしいなあ」
川島心はそれに気づき、ぼやいた。
僕も松永グループに追いかけられるとそう思うときがある。彼とは気が合いそうだ。
「音楽室は、ちょうど、この下の階にあるよ」
多目的室を指差し言葉を絞り出した。
「ねえ、怜くん」言って、川島心はちらっと後ろを振り返る。「あの子たちから逃げたいんだ。突き当りを曲がったら、ダッシュしよう」
僕が答えないうちに、曲がり角に差し掛かった。
川島心が、ロケットスタートを切った。
「廊下を走ってはいけません」の標語を尻目に、僕も走った。階段を二段飛ばしで降りる。下級生を避け、音楽室に滑り込んだ。
ベートヴェンやモーツァルトの肖像画たちが睨んでいるようにこちらを見ている。うるさいぞと叱られた気がした。
「きみ、ピアノ弾けるよね」
唐突に問われ、戸惑う。
「な、なんでわかったの」
「授業中に机の上で弾くマネをしているのを見たからさ」
いままで、僕の後ろには誰もいなかったから、川島心がいることを忘れ、ついいつもの癖が出てしまったのだろう。
「川島くんも弾けるの?」
「川島くんじゃなくて、心でいいよ」
心でいいよ。と言われても、誰かを名前で、それも呼び捨てで呼ぶなど畏れ多くてできない。
「僕は、弾けない。でも歌が好きなんだ」
川島心の歌を聞いてみたかった。
歌ってよ。と言おうとしたとき、音楽室にがやがやと生徒たちが入ってきた。次の時間で、音楽室を使うクラスのようだった。時間を見ると三時限目が始まろうとしていた。
「もうこんな時間。授業に遅れるよ、心」
焦りから、思わず呼び捨てで呼んでいた。
「うわ、ホントだ」
僕たちは廊下を走って、教室に戻る。途中すれ違った先生に、「走るな」と叱られた。そこで僕たちはスピードをあげた。そのとき、僕は思い出していた。
中学生の頃はこうして誰かと一緒にふざけ合ったりしていたことを。