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翌朝、起きて学生服に身を包み、ネクタイを着ける。
リビングに行くと誰もいなかった。
僕はやっぱりこのまま学校へ行くのを辞めようか考えた。だけど、着てすぐに学生服を脱ぐのも鬱陶しいので、行くことにした。
玄関を開けようとしたところで、胃に圧迫感を覚え、引き返そうと思ったが、自転車に跨ると少し落ち着いたので、行くことにした。
田んぼ道を進んでいるとメッセージが届いた。自転車を漕ぎながら見ると母からだった。
これからは、お母さんを大事にしてくれる人と暮らします。いままで黙っていたけど、お父さんよりやさしい人と付き合っていたの。探さないでください。さようなら。 母より。
二度と連絡すんじゃねえという思いを込め、電源を切った。
あのババアと付き合うやつの気がしれない、と思ったが、あの父親と付き合うミーコさんのヴィジュアルは中々の破壊力があるから考えるのをやめた。
そういえば今朝ミーコさんはいなかった。夕方から始まる仕事だし、いつも家で眠っていたのに今朝に限ってどうしたのだろうか、と考えていると目の前に人が現れた。避けられなかった。
その人が悲鳴を上げ、倒れた。スラックスに白いシャツを着たショートカット。服が身体にフィットしていて、スレンダーな体型が際立っている。服装からしてОLだろうか。
そんなことを思うより謝罪が先だろう。慌てて声を掛ける。
「すいません。大丈夫ですか」
女の人と話すのは大の苦手だった。子どもや年配の人は別だが、若い女の先生とは緊張からうまく話せない。もちろんクラスメイトとも話せない。いくら女の人が苦手な僕でも、さすがにこの場面では、話しかけなくてはいけなかった。
「……大丈夫です」
その人が振り返る。
僕なんかが直視してはいけないほど整った顔立ちをしていた。フォーマルな服装から想像していたより若そうに見えた。僕より年下かもしれないとすら思えた。
僕は目を反らし、謝った。
「すみません」と言い残し、その場から逃げた。
ぶつかったのが怖かったのではない、きれいな女性と話したことに怖くなったのだ。
田んぼ道を抜けようとしたところで誰かが僕を呼んだ。
「山グソぉ!」
振り返ると松永がいた。何故、松永がここにいるのだろう。松永の家は、僕の住む地域とは反対方向だった。松永ににらまれて、からだが固まってそんな疑問もどこかへ消えてしまった。
草食動物なら松永を見た瞬間逃げだすだろう。僕も逃げたかったがここで逃げたら、余計ひどい目にあわされる。百獣の王のような髪型と髪の色をした松永が今にもずり落ちそうなズボンを履き、がに股で走ってきた。
「なに、逃げてんだゲロ野郎っ」
ペラペラの学生カバンで叩かれ背中に衝撃が走る。
「逃げ、て、ないよ」
痛みで呼吸ができなかった。
「うっせ」
もう一度、叩かれた。
「やめて――」「うっせ」「やめ」「うっせ」「や」「うっせ」
叩かれるたび、こいつをいつか殺してやろうと思う。
時代錯誤の不良もどきめ。
死ね。
害虫。
死ね死ね死ね。
心の中で毒づき、松永が僕を叩くことに飽きるのを待った。
「おい、自転車よこせ」
叩くのをやめたかと思ったら横腹を蹴られた。僕は宙を吹っ飛んだ。
松永は無理やりに自転車を奪い取る。アスファルトの上で、酸素を求め喘いだ。松永と顔を合わせてから、ほとんど呼吸できていない。
「じゃあな」
松永とは違いずっしりと重い僕のカバンを投げつけてきた。カバンは僕にぶつからなかったが、辺りに教科書が散らばった。数学Ⅲの教科書だけが田んぼに落ちてずぶ濡れになった。他の教科書も拾い集めていると、「あの」と話しかけられた。
どこかで聞いたソプラノの声だった。
「梅田東高校の場所って、わかりますか」
振り返るとついさっきぶつかった女性だった。
「ええ、わ、わかりますよ。そこの生徒なんで、僕」
逃げたことを怒られるのではないかと怖くなった。
「そうなんだ。よかったあ」 手を合わせその人は笑う。「学校まで案内してほしいんですけど、いいですか?」
断る理由がなかった。首を縦に振る。ぶつかったことはバレていないようだ。それとも全く気にしていないのかもしれない。案内するということは一緒に歩くということかと考えると僕の手足は凝固した。
僕が、女の人と歩く、だと――
僕はもしかして美少女ゲームの世界に入り込んだのか。
それとも、これはただの夢?
松永に蹴られた横腹が、ずきんと痛む。どうやらこれは夢じゃないらしい。
「あれ?」と言いながらその人が、首を傾げ僕の顔をまじまじと見てくる。
「さっき、自転車乗ってた人ですよね。なんで、自転車乗ってないんですか?」
口調から怒ってはいないようで安心した。しかし、どうして僕は自転車に乗っていないのだろう。僕が聞きたい。
「えと……。いろいろあって」
「ふうん、そうなんだ」
僕のあいまいな発言にその人は納得したらしい。根掘り葉掘り聞かれなくて、よかった。みじめな気分を味あわずにすんだ。
学校に向かいながら、その人は、よくしゃべった。親の都合で転校してきたこと。道を覚えるのが苦手で、朝早く家を出たのに遅刻しそうになっていること。などなど。
「あ、そうだ。名前言ってませんでしたね。
川島さんは、はつらつとした声を響かせ、辺りの空気が澄んでいく。
「山口、怜です」
人見知りの僕はねばっこい低音で空気を汚した。
「何年生ですか」
「三年生」
「あ、ぼくといっしょだ」
ぼく?
「あ、そうだ。ネクタイ結ぶ学生服って初めてなんですけど、結び方教えてくれません?」
ネクタイ?
「ねえ? いいですか?」
「あの、つかぬことをお伺いしますのだが、男、ですか?」
僕は混乱している。変な口調で訊いた。
「はい。そうですけど? 声がこんなのだからたまに間違えられます」
川島心はなぜか嬉しそうに笑う。
ネクタイをしていなかったから気付かなかったが、よく見ればウチの男子制服だった。
女性でもありえそうな名前だから気付かなかった。
顔が整いすぎていて気付かなかった。
一生の不覚だ。
そんなことってあるのか、僕は自己嫌悪に陥った。