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♭の章:第3話 ピアノと水玉

 ♭


 夢を見た。ピアノを弾く夢だ。


 僕が小学校に上がったころ。引っ越しをする近所の家から、父がグランドピアノを貰ってきた。どうせ処分するならショパン弾こう、とよくわからない思いで引き取ってきたらしい。しかし楽譜の見方がわからずにショパンを弾くことを早々に諦めた父は、弾かぬなら弾かせてみよう怜くんに、という豊臣秀吉っぽい理由で僕はピアノを習うことになった。


 外に出て活発に遊ぶのが、あまり好きではない僕にピアノは向いていた。

 ピアノは誠実だった。


 練習をした分だけ、上手くなり、練習を怠った分だけ、へたくそになった。へたくそになるのは、とても嫌だった。自分に負けた気がしたからだ。ある日から、僕は毎日練習を続けた。


 中学生になるころには父が、「あれ弾いてくれ、ほら、ふんふふふんってやつ」という鼻歌によるなぞかけにも簡単に、応えられるぐらいのレベルには上達していた。


 中学生になってから、あることがきっかけで僕は人間を辞めたくなった。その時期から学校から帰るとなぜかわからないが、ドビュッシーの「月の光」をひたすら弾いた。


 ♭


 夢の中で「月の光」を弾いた後に目を覚ました。

 起きると夜七時ぐらいになっていた。夢を見たせいで無性に「月の光」を弾きたいと思った。

 トイレから出るとピアノの音が聞こえてきた。父が弾いているはずはない。スマホか何かで音楽でも聴いているのだろうか。それにしては、音が鮮明過ぎる。そこで、ようやくあのオネエが弾いているのだと思った。


 音色が、滑らかに空間に広がっていくのがわかった。子どもの頃に弾いていた人の音色ではなく、子どもの頃から欠かさずに弾いている人の音色だと思った。僕よりもはるかに上手い。僕は階段を下り、ピアノがあるリビングに向かった。

 扉は開いていたが、なぜか室内は暗かった。足音を立てないようにそっとリビングへ入る。父の後頭部が見えた。父がソファに座り、じっとピアノの方を見ていた。

 僕も父の見ているものを見た。月明かりに照らされ、「月の光」を弾くキャミソール姿のオネエがそこにいた。僕は心を奪われた。


 月の光を弾き終えると父が拍手をした。


「すごいすごい。さすがミーコさん」


「いやいやそれほどでもないわよ」


 照れながら振り向いたオネエは、やっぱりどうしようもないほどオネエだった。さっきまでの感動を返していただきたい。


 オネエが僕に気付く。


「あら、怜くんじゃない。おはよ。よく眠れた?」


 頼むから、首を傾げながら言わないでほしい。


「おお怜くん。ミーコさんのピアノ聴いてたのか。上手だろうミーコさんは。

ミーコさんの店にくるお客さんは、みんなミーコさんのピアノ目当てなんだからな」


 なるほど。仕事で毎日弾いているのか。だから、こんなにも上手いわけだ。


「怜くんも一緒に弾いてみてよ。僕のために」


 父がそう言う前から、すでに僕はピアノに向かっていた。オネエは、席を一人分ずらした。


 父のためではなく、僕は僕のためにピアノを弾きたかった。


 席に座り、白鍵に手を添えた。


 息を吸い、オネエの目を見た。オネエは頷き、同じ音を奏でた。僕は演奏のレベルが高い演奏家を無条件で尊敬する。

 この日から、僕は彼女のことを「ミーコさん」と呼ぶことを心に決めた。


 ♭


 それから一週間、僕は学校を休んだ。その間ずっと体調が悪かった。


「怜くん。おっはよ。ミーコだよ。ぐっもに」


 部屋の扉は閉じたままだった。向こう側から、もっさいオネエの感じがひしひしと伝わってくる。


「ミーコさん。朝から、うるせえっす。ぐっもに、って何ですか? 聞きたくもないけど、聞いてあげるんで、どっか行ってください」


 ミーコさんは、この一週間毎日僕を起こしに来た。ミーコさんは家で住み始めた。多感な青春時代をオネエと過ごしたくはなかった。


「怜くん。ぐっもに、は、グッドモーニングのことだよ。知らないのぉ? 遅れてるよ」


「何に遅れてんだよ。ミーコさん、グッドモーニングはわかったんだけど。ぐっもにの前に、おはようって言ってるから、別に言わなくてもよくないですか?」


「それぐらい。天気がいいってこと。引きこもってないで、外に出かけようぜえ少年」


「オネエと外に行くぐらいなら、家で宮根誠司でも見ます」


「あ、怜くんも宮根派?」


「も、ってなんだ。も、って」


 話のラリーを終わらせようと思っても、ミーコさんはウインブルドンの選手並にあらゆる角度から話を打ち返してくる。ミーコさんには、話術の才能がある。夜は、オネエバーの副店長として働いているらしく、話術があるのは当然といえば当然だろう。


 顔が似ていたからか、僕はいつの間にか父と同じぐらい気軽さで、ミーコさんと話していた。


 起き抜けにトイレに行きたくなった。部屋の扉を開ける。


「怜くん。ミーコに会いたくなっちゃった?」


「会いたくないですって。僕がトイレ行くまで、待ってるだけじゃないですか。反則ですよね。それ」


「怜くん。ミーコに会いたくないの?」


 ミーコさんは人差指を口に当て、目をうるませた。


「キモイ、見んな」


 言って、トイレに逃げ込む。


 トイレ内に、臭気が充満していた。ミーコさんの朝からぶっ放すミサイルの破壊力はすさまじかった。


 ミーコさんは僕がトイレから出るのを待っていた。


「なんで、待ってるんですか」


「いいじゃない」


「嫌なんで、やめてください」


「ねえねえ怜くん。今日もピアノ弾こうよ」


「ええ、いいですよ。しょうがないですね」


 僕は学校も行かず毎日起きて寝てピアノを弾いた。父は帰りが遅かったし、母は出て行ったまま帰ってこなかったけれど、ミーコさんがいた。


 ミーコさんの仕事は夕方から深夜までのため、昼ごはんを作ってくれた。夜ごはんを作り置きしてくれていた。ミーコさんのグロテスクな見た目からは想像もできないほど上手いピアノに比例して、彼女の作る料理も美味かった。


 ミーコさんは弾き語りも得意だった。男声も女声も使い分けて、そのどちらも一級のレベルだった。神はどうしてこんな美声を彼女に与えたのだろう。その真意を問いたいと思う。ミーコさんにピアノのレッスンを受けながら、日に日に僕のピアノは上達していった。


 学校も行かず、オネエにピアノを教えてもらう日々って、かなり不健全だよなぁと思っていたある日、ミーコさんが言った。


「怜くんはさ、学校行かないの?」


 僕はその質問の答えを持っていないことに気付いた。だから僕は、質問に質問で応えた。


「どうして、学校に行かなければいけないんですか?」


 ミーコさんは、驚いたような顔を見せ、ふっと笑う。


「私もそう思っていたわ。子どものころ」


 サティの「ジムノペディ第一番」を弾きながら、ミーコさんは語りだした。


「私はね、幼稚園に入るぐらいのころに、自分は男の子じゃないって思うようになったたの。ままごとが好きだったし、五つ上の姉のスカートを隠れて履いたりもしたわ」


 ピアノの音色が段々と遅くなっていった。


「五歳ぐらいになったある日、一人で出かけたのね。姉がとても気に入っていた水色の水玉のスカートを履いて。私もそのスカートがお気に入りでね。その日が、私の人生の最初にして最大の失敗だったのかな」


「何があったんですか?」


「出かけた公園は通学路で、下校中の姉にみられたのよ。姉の友達の中には、私の顔を知っている人がいて、その人に気付かれたの。あんたの弟、スカート履いてるよって笑われちゃったわ」


 そう言って笑うミーコさんは、とても苦しそうに見えた。


「私は、笑われたことはあまり気にならなかったの。でも、周りの友達に笑われていた姉が私のことをすごい表情で睨んだのを見たときに、自分はいけないことをしてしまったんだなって気づいたのよ」


 今の話の中で、ミーコさんはいけないことをしたのだろうか。僕は考えた。普通の人とはちょっと違うことをしたかもしれないけれど、それが、ミーコさんがやりたいことならば別にいいではないかと思う。


 そもそも、普通ってなんだ。


 普通というものが、あったとして、誰もがその普通に合わせる必要はないし、合わせないといけないと無意識に思うことは異常さを含んでいるような気がした。


「世の中にはさ、私がよくても、他人には許せないこともあるのよ。私が笑われるだけなら、良かったの。でもね。その日から姉が苛められてしまったの。毎日新しい傷を付けて帰ってくる姉を見て、私は何度も謝った。けれど、姉は、オマエのせいだって言いながら、私を殴ったわ」


「ご両親は止めなかったんですか」


「あの人たちは私のことが嫌いだったからね。夫婦同士でお互いに私の問題を相手のせいにするようになっていたから、私たち姉妹のことを見て見ぬ振りするようになっていったわ」


 いつのまにかピアノの音がなくなっていることに気付いた。周りの家具が、ミーコさんの話に真剣に耳を傾けているような気がした。


「姉は中学校に上がると同時に家を出なくなって、それからどんどん太って、いままで着られていた服が着られなくなってね。姉は、着られなくなった服に火を点けて……」


 そこでミーコさんは堪えきれなくなり、白鍵に涙が落ちた。


 ミーコさんはからだを震わせ泣いていた。


 ミーコさんが泣いている間、僕はベートヴェンの「悲愴」を弾いた。名曲が何かの変わりになればいいと思いながら、祈るように弾いた。曲が終わるとミーコさんは再び話し始めた。


「話、続けてもいいかしら」


 ミーコさんの顔に笑顔が戻っていた。


「ええ、どうぞ」


「姉のことを思い出すたびに、いつも申し訳ないって気持ちになるのよ。そんなときにはベートヴェンの悲愴を弾くの。姉が好きな曲だったから。怜くん、よくわかったわね。姉の好きな曲」


「偶然ですよ」


「そう」


 やわらかなタッチでミーコさんが、悲愴を奏でた。僕は目を閉じ、聞いた。僕の悲愴とは違いミーコさんの悲愴には、曲に深みとか重みとかそういったものがあった。人生経験の積み重ねが音楽になって現れているような気がした。


 ミーコさんが弾き終えたとき、なぜかはわからないが、学校に行こうと思った。


「ミーコさん。僕、明日から学校行こうかな。でも明日になったら、やっぱりムリって思うかもしれないけど」


「それぐらいの気持ちでいいのよ。学校なんて、行っても行かなくても。命さえあれば、なんだってやれちゃうわ」


 たくましい力こぶを見せ、ミーコさんはほころんだ。


「ですね」


「怜くん、あのね――ええと、なんだったけ……。何を言おうとしていたか忘れちゃったわ」


 ミーコさんが言えなかったことはわからない。けれど僕の心には、言おうとしていた何かが、伝わったのを感じた。

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