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♭の章:第2話 父の浮気相手

 ♭


 家に着くと父の車が停まっていた。父は保険の外回りの営業であちこちを走り回る仕事をしている。仕事の合間に、忘れ物でも取りに来たのだろうか、もしかしたら早めの昼ご飯でもとっているのかもしれない。


 吐しゃ物の汚れを落としたら、やりたいことがあったのに残念だ。

 ただいま、と声を掛ける気にはなれず、ひっそりとドアを開けた。何より、今の姿を父に見られたくはなかった。

 風呂場まで、足音を立てないように歩いた。リビングのドアが開いていた。父に見られたら、そのときはそのときだと、半ばあきらめながら、しかしゆっくりと歩いた。


 リビングからいびきの音が聞こえた。恐る恐る覗くと父がソファで寝ていた。仕事をサボっているのだろうか、あのハゲ。息子の気持ちも知らずにぐうすか寝やがって。一瞬、松永に向ける憎悪以上のものが込み上げた。寝ている父の向こうにある僕のグランドピアノの蓋が開いてるのが見えた。

 なぜだろう。


 毎日弾いたあとは、埃をさっと払いつつましく蓋を閉じるのが僕の至福のひとときだ。だから蓋を閉めてないことはあり得ない。父は弾けない人だから、蓋が開いているのが奇妙だった。

 気にはなるが父が寝ているのならば、バレずに風呂場に行くには好都合だった。僕は逸る気持ちを抑えながら、風呂場へ向かった。

 風呂場から、水が流れる音が聞こえた。こんな真っ昼間から、あの親父は、風呂にでも浸かろうとしたのか。とことんダメなオヤジだ。そこで音に注意を向け、気付いた。この音は風呂に湯を張る音じゃない、シャワーを流す音だ。さらに、鼻歌まで聞こえた。誰かがいる。

 誰だ。絶対に母ではない。母はそんな陽気な性格ではない。まさかウワサのゲテモノの愛人?

 気になるし、その人の顔も見てみたいが、何よりこの体に染みついた悪臭を洗い流したかった。服だけ脱いで、洗面台で体だけ拭こうかと考え、忍び足で洗面台に近づいた。

 愛人らしき人が、シャワーを浴びているということは、ナニカを行う前なのだろうか、それともナニカを行った後なのだろうか。

 あのオヤジが、ナニカを行うことを想像すると吐き気が込み上げ、「おえっ」とえずいてしまった。


「あら、次郎さんったら、覗きにきちゃったのぉ?」


 風呂場の中にいる人物が、僕の声に気付いた。父と間違えてるらしい。やばい。隠れなきゃ。すぐさま逃げようとしたが、ズボンを脱いでいる途中だったので、ひっかかり無様にこけた。愛人にドラえもんのトランクスを見せつける格好になってしまった。


「きゃ」

 浮気相手の悲鳴が聞こえた。女性にしては低い声だった。

「初めまして、ここの家のモノです」

 怪しいものではないという意志を表しながら、倒れたまま、ズボンを履きなおした。

「え、誰? もしかして、次郎さんの息子さん?」

「はい……そうです」


 僕は振り返って、絶句した。


 その人は、父が女装したのかと思うほど、父に顔が似ていた。

 なにより驚いたのは、股間に付いている侍の刀にも似たソレだった。その刀には、大事な玉がぶらさがっていなかった。

 父の浮気相手は男で、それも父に瓜二つだ。いわゆるオネエというやつか。思考が錯綜する。あまりにも父に似ている。悪夢を見ているのかもしれない。

 よくよく考えてみれば、一般男性が男性と浮気することの可能性は多くはないだろうと思う。

 百歩いや万歩譲って、男性と浮気するにしても、あんなに父に似ているのに、付き合おうとか思えるものなのだろうか。母が激昂したのも無理はない。

 お世辞にも母は、美人とも普通とも言えないほどのブサイクではあるが、それにしたって、父ほどではない。そんなブサイクな父に女装という要素を足してしまったら、ブサイクのエレクトリカルパレードである。

 多様性といえども、許容範囲外なのではないだろうか。

 嘘みたいな現実にめまいがした。僕の頭の容量では耐えきれなかった。僕は逃げるように自分の部屋に向かい、ベッドに深く沈みこんだ。気を失ったように眠った。


 ♭


 目を覚ますと喉が渇いていた。

 階段を降りると目の前にあったトイレの扉が開いた。中から、出てきたのは、父だった。


「あらやだ。怜くん、おはよ。ごめんなさい、すっぴん見られちゃったわね。ミーコ恥ずかしっ」


 父ではなかった。

 すっぴんのオネエの見た目はただの父だった。


「もう起きたのね。急に倒れちゃったから、ビックリよ。ミーコの裸に興奮したのかな」


 してねえよ。


「無視しないで、ミーコ、ショック」


 僕は父似のオネエを無視し、リビングのドアを開けた。


「お、怜くん。起きたんだ」


 オネエ似の父を睨みながら、冷蔵庫からミネラルウォーターを取り出し、飲む。


「おっさん今日仕事は?」

「休みです」

「あの人、何だよ」

「ミーコちゃん」

「名前聞いてねえ! 本名じゃねえし多分。なんでこの家にいるんだって聞いてるんだよ」

「父さんの恋人だぞ。いいだろお」

 あんたに毛が生えて、化粧を施した生命体じゃねえか。

「胸張って言ってんじゃねえよ」

「可愛いだろ?」

 あんたに毛が生えて、化粧を施した生命体じゃねえか。

「本気で言ってんの?」

「当たり前だって。父さんみたいなブサイクには、不釣り合いなほどの美貌だもの」

 あんたに毛が生えて、化粧を施した生命体じゃねえか。

「釣り合ってるよ。十分すぎるほど」

「そお? 父さんってそんなにイケメンかな?」

 オネエから毛と化粧をそぎ落とした生命体は、顔を赤らめながらハゲ頭を掻いた。


「そうよー。次郎ちゃんはイケメンよ」

 オネエがリビングに入ってきた。リビングのもっさい度数が跳ねあがる。

「次郎ちゃぁん」

 オネエは父のそばに座り、腕を組んで甘えた。

 その姿を見て僕は頭を押さえた。


「怜くん。体調悪いのかい?」

 性欲のバケモノに思えていた父が急に親の顔を見せてきた。

「ああ、ちょっとね。気持ち悪いんだ。風邪かもしれない」

 ウソを言った。後ろめたさから僕は父から目を反らした。オネエと浮気している父の方が後ろめたさでは、上のはずなのにも関わらずだ。

「そう。ゆっくり休んで、早いうちに治しなよ」

「うん。そうするよ」

 自分の部屋に戻ろうとしたとき、再び父に声を掛けられた。


「怜くん。無理しないでね」


 父の声は僕の体に響く。その音が、胸に、腹に、まぶたに反響した。僕は父に今日あったことのすべてをぶちまけてしまいたくなった。まぶたの裏に痛みが走る。視界に父のそばにいるオネエが映り、途端に込み上げた思いが霧散し、僕は父に頷きだけを返した。


 布団に潜り込み、目を固く瞑った。松永たちに受けた卑劣な行為を思い出してしまう。目を開けば涙が込み上げてくる。目を閉じたくても、開きたくても、できなかった。どうすればいいかわからず、いっそ目など潰してしまいたい。


 ドアをノックする音が聞こえた。


 父だろうか。返事をしたら、泣いていたことがバレてしまう。寝たふりでやり過ごすしかなかった。


「怜くん? ミーコです」

 オマエかよ。

「なんか用です?」

 極めてそっけなく言う。

「ええ、そうよ。よかったら、部屋に入れてくれないかしら」

 中学一年生のとき以来に部屋に入る他人が、オネエなんて嫌だ。にべもなく断る。

「無理です。用なら、そこでしゃべってくださいよ」

「うん、わかった」

 わかられてしまった。もっとそっけない態度で、突っぱねるべきだったと後悔した。

「えっとね。怜くん。何か学校でつらいことあったんじゃないかなと思って、心配になって来ちゃったの。私みたいなオバサンに話すの嫌かもしれないけど、話してみない? 意外に他人の方がすっきりするもんよ」


 オバサンじゃなくて、オネエだろ。という言葉を飲み込みながら、答えた。


「いや、いいです。特に何もないんで」

「そっか。わかった。じゃあ私の話、聞いてくれないかしら?」

「いや、いいで――」

「私、実はね。こう見えて――」

「話し始めちゃうんですね」

「オネエなの」

「知ってます!」

 くだらない会話をして、虚しさが込み上げる。だが、さっきまでのどうすればいいかわからない思いは、ほんの一瞬だけ消えた気がした。そのまま僕は眠りについた。

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