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♭の章:第1話 バナナの匂い

フラット[flat]

1. 平面的で、一様に変化の乏しい様子だ。

2. [楽譜で]半音だけ低くする記号。「♭」


 ♭


 眠い。

 昨日の両親のケンカは凄まじかった。日常茶飯事だった夫婦ゲンカに慣れっこだったが、昨日のケンカは僕が止めに入るほどだった。


 母は口汚くしきりに叫んでいた。

「浮気するにしてもあれはないだろうが、てめえ。あんなもんてめえと同じ、ゲテモノじゃねえか。人ですらねえぞっ」


 自分も浮気しているくせにと思う。

 父がゲテモノというのならあなたも相当なものですけどね、と言うのを我慢した。それを言ってしまったら、ゲテモノの息子になってしまいそうだったから。そんなことより、ハゲでデブでチビな父が浮気していたことに驚いた。


 母は父の命より大事な髪をむしり取る。

 父の髪は、爆撃を受けたようなありさまだった。そんな父がかわいそうに思えたのだろう。

 母が、「離婚したらどっちを選ぶの」という問いに、迷うことなく「父さん」と答えた。母は泣きそうな顔になり、「あんたもハゲちまえ」と言い捨て家を出て行った。

 父は、母が出て行ったことはどうでもよかったらしく、髪が薄くなったことを嘆いていた。

 いずれ離婚するだろうと思っていたから母が出て行ったことに特別な感情を抱かなかった。


 1回目は、僕が小学5年生のときだった。あのときは悲しかった。しかし悪びれもなく母が戻ってきた中学3年生のときに、母に対する愛情がからっぽになっていた。

 醜い顔のおばさんが家にいるな、という印象しか抱かなかった。反抗期だったのかもしれない。僕が高校生になってからは、母は家を空けることが多くなった。あんなものでも、浮気する相手がいるらしい。

 世の中の不思議を知った。

 家に帰ってきては、夫婦ゲンカをしていた、というより母が勝手に怒っていた。うるさい元凶だったから、いっそいなくなればいいと思っていた。


 それでも我慢していたのは、もっといなくなればいいと思っている人間が、何人もいたからだ。


 朝起きても頭がぼんやりしていて食欲が湧かなかった。

 眠気を消すためにバナナと牛乳を半ば無理やり口に詰め込み、家を出た。

 朝食を食べた後もとても眠かった。ストレスで眠れない日々が続いていた。

 夫婦ゲンカの騒音より、学校に行きたくないストレスの方が確実に大きい。

 それでも、僕は学校に向かう。

 何のために?

 将来のため? 父への義理?

 どちらの思いもあるにはある。


 僕が学校に行く理由――それは、殺意にも似た憎悪だ。


 僕が学校に行かなくなってしまったら、松永の思うつぼだろう。僕はヤツらに、屈したくはなかった。

 松永と取り巻き四人の顔をアスファルト上に思い浮かべ、自転車で真っ二つに引き裂いていく。そしてヤツらがいなくなった世界に思いを馳せた。

 本当に殺す度胸もないくせに、想像の世界で松永達を累計二億匹ほど殺した。


 ♭


 学校の中での僕は、基本的に空気もしくは二酸化炭素のようなものだった。木曜日は一時限目から体育というユウウツな時間割。体操服に着替え、体育館に向かった。

 目立たないように隅にひっそりと座る。ほとんど無色透明な存在である僕を、松永以下四名は目聡く見つけてくる。

「死ね山グソ!」

 顔面に爆撃を受けたような衝撃が走る。息も絶え絶え、顔を上げるとバスケットボールが跳ねていた。その向こうで松永達が笑いながら僕に向かってボールを蹴った。ヤツらはバスケットボールでサッカーをするというサル以下の知性しか持ち合わせていないクズだった。


 クズどもめ、うるさいんだよ! と僕は叫んでやりたかった。それを言ってしまっては、クズどもをさらに調子に乗らせることになるので、やめておいた。


 体育教師の所田に視線を送って、サル以下の動物の排除を求めた。

 所田は松永達に対し、無視を決め込んでいた。所田は、以前までは松永一派から僕を守ってくれていた。しかし松永達に愛車を壊されてからは、彼らに怯えていた。いまでは、僕が目を合わせようとしても、所田は頑なに目を反らした。

 いつか僕が死んだとしたら、あいつは責任を取ってクビにでもなればいい。準備体操が終わり、男女に別れバスケットボールの試合をすることになった。松永達は体育の授業のときだけは、話を聞けるようになるらしく、試合、というフレーズを聞いたとき、やはりサルのようにはしゃいでいた。キィキィキィと耳障りなカルテットだ。

 チーム分けは、名簿順で別れ、松永と同じチームになってしまった。所田よ、静観を決め込むのはいいとしても、あなたには配慮というものが足りない、と言ってやりたかった。

 バスケットの試合中、「黒子のバスケ」の主人公黒子テツヤばりの影の薄さを発揮したが、マンガのようなスーパープレイは当然できなかった。むしろ味方の邪魔ばかりしてしまった。味方のパスが僕の肩にぶつかりボールが場外に出て、相手チームにチャンスを与え、それが原因で負けてしまった。

 松永はしきりに僕に嫌味を言ってきた。

「オマエのせいで負けたんだぞ」

「ごめん……」

「あぁ? ごめん、で済む問題じゃないだろうが」

 ごめん、で済む問題に思えたが、サル以下の彼にとってはそうじゃないらしく、何度謝っても、許される気配などなかった。


 授業後、松永に体育館の裏に呼ばれた。呼んだ人物が、サル以下のクズじゃなくて、カワイイ女の子だったら告白の期待に胸を踊らせることができたのにと思う。もちろん、僕にそんな出来事が起こるなんて、現実では無理なのだけれど。

 体育館の裏は掃除が行き届いておらず、雑草が生い茂り枯葉がたくさん落ちていた。

「寝ろ」

 僕の顔を見るなり、松永が言った。

 草むらなどに寝そべりたくないと思っていると、足払いをかけられ、地面に倒れこんだ。背中が痛かった。痛みに堪え立ち上がろうとすると取り巻きが僕の四肢を抑えていく。

「調子乗ってんじゃねえぞ」

 松永は毎日このセリフをいうのだが、僕は生まれてからそんなものに乗ったことはない。乗っているのは松永の方だ。

 松永はバスケットボールを持っていた。ボールを振りかぶり、僕の腹めがけ、ぶん投げる。何をするか判断できたので、腹に力を込め耐えた。ボールが転がっていく。

 松永は転がったボールを取りに向かった。ボールを取ると、ドリブルしながら走ってきた。ボールを叩きつけられる、と思い、再び力を込めた。だが、松永はボールを両手で掴み、跳躍した。

「ダーンク」

 掛け声と共に両足で腹を踏みつけられる。腹に力を入れるタイミングを間違えたせいで、ダイレクトに衝撃が来た。腹に穴が開いたような痛みが走る。遅れて、胃から朝食が込み上げた。口から吐しゃ物が溢れ、顔が汚れた。

 取り巻き達は、「キモイ」と言って、離れた。吐しゃ物で窒息しそうになる。僕は体をひねり、地面に吐しゃ物をぶちまけた。吐いていると四人に頭を踏まれ、顔も髪も体操着も吐しゃ物まみれになった。

「臭え」

「キモイっつうの」

「死ね」

「消えろカス」

 口々に罵ったあと松永達は、笑いながらどこかへ消えた。

 ここまでされるようなことを僕はしたのだろうか。

 スポーツの試合で負けただけで、こんな仕打ちを受けないといけないのだろうか。

 僕は落ち葉を掴み、バラバラにしてやった。風がバラバラになった葉っぱをどこかへ運んでいった。その風に混じって、バナナの臭いがする。バナナの臭いがとても気持ち悪く、また吐いてしまった。

 手洗い場で汚れを落としたが、完全には落としきれなかった上に、バナナの臭いはほとんど残っていた。そのままの格好で、教室に帰れば、クラスメイトに迷惑をかけてしまうことになる。


 2時限目のチャイムが鳴ったとき僕は早退することを決めた。

自転車の鍵はダイヤル式だったので、幸いにも教室に鞄を取らずに帰ることができた。家の鍵は緊急時用でポストの裏に張り付けてあるから、問題ない。家に帰ればこの不快感をなんとかできるだろう。


 自転車に乗っていると通りすがりにショートカットの女性に怪訝な顔をされた。人通りの多い道を避け、川の土手沿いを進む。悪臭がまとわりつき、ペダルは重かった。

 憎悪が僕の体中を塗りつぶしていくのを感じた。

 川の橋の下に自転車を停め、座った。

 あと十分ほどで家に帰れる距離だったが、ひどく疲れていた。

 バナナの臭いが消えても、この思いは消えないだろう。

 僕は腰を下ろし少しだけ泣くことにした。

 少しのつもりだったけれど、無理だった。

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