春。それは、出会いと別れの季節だ。
それは俺、青葉智也も例外ではなかった。
俺はサッカー漫画を読んで小学四年の頃からサッカーを始め、そのまま中学、高校と進んだ。
しかし、高校で俺は不幸に巻き込まれた。どんなことがあったのかというと――。
『まもなく終点、仙台です』
車内からアナウンスが流れると、向かいの席に座っていた母が俺に声をかける。
「智也、もうそろそろ着くから準備してね」
俺は無言でうなずくと、手にしていたライトノベルの文庫本を閉じて立ち上がる。
荷物一式を取り、そこに文庫本を押し込む。それから俺は誰にも聞こえないようにつぶやく。
「仙台、か」
それから俺は少しだけため息をつく。
――もう、運動部はごめんだ。
「神奈川県川崎市から引っ越してきた青葉智也です。よろしくお願いします」
引っ越しから数日が過ぎた。今日から俺は新しい学校へと通うことになった。
緊張で身震いをしながらも自己紹介を終えた俺は軽くおじぎをする。
頭を上げると、俺はクラスのみんなから拍手で出迎えられた。
(良かった。みんな俺のことを迎え入れてくれるんだな)
俺がこの春から通うこととなった高校は広瀬川のほとりにある。自宅のあるマンションから歩いて三十分以内の場所にあり、通いやすさで選んだ。
進学校というだけあって、教室で俺のことを見ている生徒たちは真面目そうだ。
ほっと胸をなでおろしていると、俺の隣に立っている先生が口を開く。
「青葉って、前の学校ではサッカーをやっていたのか」
担任の富沢先生がそう話しかける。
年齢は父さんと同じくらいでありながら、誠実な感じがする。
「そうです。でも……」
その次の言葉を言おうとすると、急に何も言えなくなる。
声にわずかな曇りが差し、視線を床へと落とす。
その次の瞬間、俺はふと何かを思い出した。そう、一番思い出したくない何かを――。
――なあ、聞いたか。一年四組の青葉ってやつ、チア部の多摩さんに暴力をふるったらしいぞ。
――嘘だろ? あのおとなしい青葉が?
――青葉のやつ、サイテー。
――多摩さんに手を出すなんて、信じられない。
俺の耳元からは幻聴が聞こえる。それに、クラス中の視線が冷たく感じる。
「うぅ、俺じゃない……、俺じゃないのに……」
心臓がドキドキして止まらない。日に日に暖かくなっているというのに、体の震えが止まらない。
額から汗が噴き出す。おまけに、呼吸ができない。俺を迎え入れているみんなの視線が怖い。どうしていいのかわからない。
どうしようもなくなり、俺はその場でしゃがみこむ。
「大丈夫か、青葉」
富沢先生の声が聞こえてくる。それだけではない。
「大丈夫か?」
「しっかりして!」
同じクラスの生徒たちが俺のもとへ駆け寄る。
転校初日で保健室に行くなんて、そんな恥ずかしいことはできない。
「大丈夫です。しばらくすれば収まります。そのうち……」
俺は先生にそう話し、鼻から大きく息を吸い、口から吐き出す。
「スー、ハー、スー、ハー……」
深呼吸を繰り返すうちにドキドキが収まり、ゆっくりと立ち上がる。
心配そうに見ていたクラスメイトたちは俺が立ち上がると同時にほっとした顔をして、それぞれの席へと戻って行った。
「……すみません、取り乱しました。さっきのようなことがあるので、もし何かありましたら……」
「そうだな。青葉は……いろいろあるみたいだけど、みんなも彼を支えてやってくれ。この街にも慣れてなさそうだから」
俺が簡単に説明すると、先生がすかさずフォローしてくれる。それに、俺以外の生徒たちも俺に向けて拍手を送ってくれた。
優しいのはなにも先生だけでない。クラスメイトがみんな俺に優しく接してくれる。
「それじゃあ青葉の席は……、若林の前だな」
先生が指差した先は、教室の左側の一番奥だった。
その席の前に座っていたのは、女子だった。
だけど、女子の前に座っていいのだろうか。
「……いいんですか?」
「いいんだ。もともとそこの席に座るはずだった生徒が青森に引っ越したからな。なんでも、親の都合らしい」
「……わかりました」
先生にほだされると、俺は彼女の待っている席へと向かう。
「は、はじめまして、青葉です。よ、よろしくお願いします」
彼女に軽く頭を下げる。すると、引き締まった見た目の彼女が口を開く。
「私は若林真凛。よろしくね、青葉君」
若林さんは笑みを浮かべ、体の向きを俺の立っている方へと向けてその右手を俺に差し出す。
若林さんの瞳が俺に「握手してくれませんか」と語り掛けている。
(本当に握手していいのだろうか)
恐さと疑念の思いが俺の心を駆け巡る。
向こうの学校でひどい思いをしているのを彼女は知らないのだろうか。
だけど、若林さんの目はまっすぐに俺を見つめている。
(信じて……いいんだな)
俺は震えながらも右手を伸ばす。そうすると、彼女はしっかりと俺の手を握った。
(柔らかい。それに、温かい)
若林さんの右手には、確かなぬくもりがあった。
その手は罪をかぶせられ、クラスメイトからいじめを受け、孤立無援のまま川崎の街を去ることになった俺の心に勇気と希望を与えてくれる。
「それじゃあ、そろそろ最初のホームルームを始めるぞ。二人とも自分の席に座って」
「「は、はい!」」
俺たちは顔を赤らめると、慌てて握手した手を離す。
クラスメイトたちがくすくすと笑っていたけど、特に気にすることはなかった。
このときは気がつかなかった。
若林さんと俺との出会いが傷ついた心を癒やしてくれることを。
◇
「えーと、今俺たちがいるところは……」
「生徒会館よ。作法室もあって、茶道部が部室として使っているの」
「お菓子を食ったり駄弁ったりするところじゃないのか」
「当たり前よ。それにね、茶道部の顧問は私たちの担任をしている富沢先生よ。なにせ表千家の許状を持っているんだから」
「富沢先生が? 意外だな」
「先生のお母様がお茶の先生をしていたからね」
この学校に転入して二日目の放課後、俺と若林さんはおしゃべりをしながら校内を見て歩いている。
というのも今日の朝、教室で顔を合わせたときに若林さんから「放課後、一緒に学校を見て回らない?」と誘われたからだ。
最初は警戒心から断ろうとしたが、彼女の親切心からつい「別にいいよ」と答えて、こうして学校内を歩き回っている。
とにかく、この学校は広い。数カ月前まで通っていた高校よりも広い。
テニスコートや野球部専用のグラウンドだけでなく、ハンドボールのコートまで用意されている。それに、弓道場や格技場まである。さすがに休憩しなければ、やっていられない。
合唱部の合唱と吹奏楽部の演奏をBGMにして、学校をひととおり回った。
生徒会館の一階にある食堂が空いていたので、空いている席に座った。自販機で俺はカロリーオフのコーラを、若林さんはスポーツドリンクを手にして休憩をしているところだ。
ただ、案内してもらったからといって、運動部に入る気はない。いじめられたことの記憶が鮮明に思い出されるからだ。
だからといって、今さら文化部に入るのも考えものだ。
かといって、残り二年間の高校生活を勉強ばかりで過ごすわけにはいかない。昨日富沢先生が話していたっけ、「勉強だけじゃこの学校はやっていけないぞ」って。
「ひょっとして、茶道部に入れっていうんじゃないだろうな」
不審そうな目で若林さんを見つめる。
「最悪の場合は、ね。ところで青葉君って、女の子が多いところはイヤなの?」
「イヤというか、なんというか……」
視線を合わせないようにして口をつぐむ。
若林さんの目を見ると、ありとあらゆることを思い出してしまう。
「ひょっとして、向こうの高校で何かあったの?」
「ああ、あったさ。俺、向こうではサッカーをやっていたんだ。だけど……」
「だけど?」
言えない。
俺を応援したいがためにチアリーダーにまでなった幼なじみがいたことを。
そして、その幼なじみと付き合っていたことを。
サッカー部の部長がプレイボーイでありながら学校のお偉いさんの息子で好き勝手していたことを。
俺が部長にあらぬ罪を着せられ、いじめの対象になったことを。
誰も傷つけたくない俺の性分が災いして何も手を出せず、一人で抱え込んだことを。
「……言えないの?」
俺は無言でうなずく。
……ん? 若林さん、何かを取り出したぞ。
「こんなのを聞くのもなんだけど、青葉君が向こうの学校で味わったことって恋愛小説でありがちなことかしら」
若林さんの問いかけに、一瞬ドキッとする。俺が向こうで経験したことを言い当てているのだろうか。
「な、何を言っているんだ。それに、どうしてそういうことを知っているんだ」
「私ね、恋愛小説が好きでよく読んでいるの。ネットと紙の本の両方で、ね。だけど、ここ最近のネットに上がってくる恋愛ものって『寝取られ』、『BSS』、『ざまあ』……そういったものが目立つのよ」
若林さんの口から刺激的な言葉が伝わってくる。そのどれもこれもが、俺にとっては知らないものばかりだ。
「びー、えす、えす……? なんだよ、それは」
「『僕が先に好きだったのに』の略で、自分のふがいなさを棚に上げ、何の意味もないものに執着する――要は片思いね。今ちょっと小説サイトのとあるジャンルのランキングを表示しているけど、見てみる?」
「……いいよ、そんなのを見ても……」
「遠慮しないで。あなたに関わることよ」
若林さんはテーブルで寝そべっている俺にスマホの画面を見せる。
目の前には小説を掲載しているサイトのランキングが表示されている。
長いタイトルとあらすじ、キャッチフレーズが目に飛び込んでくる。
そのひとつひとつを目にすると、共通したことが見えてくる。
気に食わない相手や自分を陥れた人間はどんな手を使ってもたたきのめす。その結果、意中の相手と結ばれる――。
俺が少年漫画誌でよく目にしているラブコメ漫画とは全く違う。ラブコメでは異性を好きになるきっかけがあるのに、これらにはない。相手をたたきのめすことばかりが目出つ。
「……なるほど、若林さんが言いたかったことって……」
俺は顔を上げて若林さんの目を見ながらそう話す。ひょっとして、俺から幼なじみを奪った相手のことについてだろうか。
「あなたが思っているとおりね。ところで、あなたは相手のことを憎いと思ったことがあるかしら?」
「相手って、俺から大切なものを奪った相手のことか?」
「そうよ」
一瞬だけ思い出した。
最初、俺はサッカー部を辞めてそいつに仕返しをしようと思ったことがある。
とはいえ、そんなことをしても幼なじみが戻ってくるわけがない。結局、俺はほかの被害者と同じように自分の中で抱え込むしかなかった。
俺は無言でうなずくと、「だけど……」と付け加える。
「だけど?」
「大切なものを奪った相手と同じになるだけだと思った。だから俺は……」
「耐える道を選んだ、と」
俺はまた無言でうなずく。
「ああ、そうさ。俺はウェブ小説のように戦うことすらできない臆病者さ。卑怯な手を使えない俺は……、俺は……っ!」
涙声になって、またテーブルに伏せる。
誰かを傷つけたくはない。誰かを陥れたくない。それで世間が許してくれるかと思ったら、大間違いだった。
この世は狡猾な人間が幅を利かせ、俺のような純粋な人間は隅に追いやられる。
復讐すらできない俺は、狡猾な人間のおもちゃにされるのが世の常だ。
「青葉君……、いえ、智也……」
耳元から優しい声が聞こえる。
そんなのに構っていられる余裕なんて、これっぽっちもない。
優しい声を振り払い、若林さんと視線を合わせないようにまたテーブルに伏せる。
「慰めはいらねえよ……。俺はどうせ卑怯な手すら使えない臆病者だよ……」
「そんなことないわ。逃げることだって重要よ」
「逃げたとしても、俺には何にもないんだ。友達はみんなあっちの街にしか……」
「私がこの街で最初の友達になってあげるから、こっちを向いて」
若林さんは俺の背中をさすろうとする。
慰めなんていらない。そんなことで俺が幼なじみを失い、冤罪をかぶせられ、いじめられたことを忘れることなんてできない。
「女の友達なんていらねぇよ! どうせいい男を見つけたら裏切るんだろう。そして俺をいじめのターゲットにするんだろう。違うか?」
「そっ……、そんなことはしないわよ! 私はね、出会ったばかりのあなたのことを心配して……」
「心配だって?」
俺は体を起こして若林さんの顔に自らの顔を近づける。
「俺の気持ちがわかってたまるかっ! どうせ……」
どうせ若林さんもあいつと同じようにイケメン男に近づいて、そいつに抱かれるのが常だろう――。
そう言おうとした途端、隣に座っていた若林さんが立ち上がる気配を感じた。
「ねえ」
「……なん、……だよ」
「そんなあなたに、見せたいものがあるの」
「慰めはいらねぇよ……。どうせ俺は……、っ!」
俺はまた顔を合わせないようにして涙を流す。
俺に慰めなんていらない。彼女に甘えるなんてことはできない。いや、したくない。俺は俺で何とかやるまでだ。
しかし、若林さんは俺のことなど意に介さなかった。
「智也、いったん落ち着こう。あなたが向こうの学校でどんなトラブルに巻き込まれたのかは知らないけど、私だったら……」
「……どういうことだ」
「黙ってついてきて」
そう話すと、若林さんは振り向いて歩きだす。
「おい、ちょっと待てよ」
俺は涙を拭く間もなく、立ち上がって彼女の後をついて歩く。
果たしてどこへ行くのだろうか、俺は不安に駆られながらも彼女の後を追いかけた。
◇
「なあ、いったいどこへ向かうんだよ」
「西校舎の二階よ」
夕闇が少しずつ迫る校舎の中をひたすら歩く。
四月とはいえ、午後五時近くになると少しずつ暗くなってくる。
嵐が過ぎ去ったとはいえ、渡り廊下には強風が吹き荒れる。
若林さんの後を追って歩くと、いつの間にかまた校舎の中に入っていた。
階段を上った先で、若林さんが足を止めた。そして、俺も足を止める。
「ここよ。入って」
教室で見たのと同じ形をした引き戸の下には、演劇部と文芸部がそれぞれ部員を募集するポスターが貼られている。
第二視聴覚室と書かれたプレートの下には、演劇部と文芸部のプレートがぶら下がっている。
「なあ、ここって演劇部と文芸部の部室じゃないか」
「そうよ。今日は誰もいないの」
「誰も……って、若林さんはどこに入っているんだ」
「文芸部よ。あなたに見せたいものがあるんだけど、良いかしら」
「『見せたいもの』? いったい何なんだよ」
「いいから、入って」
そう言いながら、若林さんは引き戸を開いて教室の中へ入る。
「おじゃまします」
俺も若林さんの後を追って教室の中に入る。
教室は意外と広く、長テーブルとパイプ椅子、それにスチール製の本棚があった。
本棚にある本にはシールが貼られていて、そこには三桁の数字が割り振られていた。
「これらの本って、図書館から持ち出したものなのか」
「そうよ。除籍本といって、全部図書館でいらなくなった本なの」
なるほど、本のタイトルを見ると『涼宮ハルヒの憂鬱』をはじめとして、『空の境界』、『姑獲鳥の夏』などひと昔前、もしくはそれ以上前の本が置いてある。
「いろんな本があるな」
「そうでしょ。私も本に魅せられて文芸部に入ったの。それと、今からとびきりのものを見せてあげるわ」
若林さんが制服に手をかけると、吹奏楽部の演奏と合唱部の合唱に混じって上着とブラウスのこすれる音が聞こえる。
振り返ってみると、教室の片隅で若林さんが制服の上着を脱いでいた。
「智也、気になるのはわかるけどこっちを見ないでくれる? その、は、恥ずかしい……から……」
そう話す若林さんの顔は少しだけ赤く、見ているだけで顔が真っ赤になりそうだ。
「ご、ごめん」
一言だけ謝ってから窓際から外に視線を向ける。
歩道には傘を持った児童がはしゃぎながら歩道を駆けていた。おそらく小学三年生、もしくは四年生くらいだろう。
(いいなあ……)
俺と幼なじみが無邪気に川崎の街を駆け巡っていた頃が懐かしい。だけど、そんな日々はもう遠い昔のことだ。
幼なじみはもう俺のことなんて覚えていないだろう。ましてや俺が遠い仙台の地に住んでいるなんて――。
「智也、こっちを向いてもいいわ」
窓際から景色を眺めていると、若林さんの声が耳元に入ってくる。
布同士の擦れる音がずっと聞こえていたから、いったい何をしていたのか気になっていた。
(見ても……いいんだな)
何度も深呼吸をしてから若林さんの声が聞こえた方向に体を向ける。
(ええい、ままよ)
心の赴くままに若林さんの姿を眺める。
すると、そこには――。
「どうかしら。去年の文化祭などで着たユニフォームだけど……」
制服姿とは全く違う大胆な格好をした若林さんがそこに立っていた。
赤を基調とした袖のないシャツに丈の短いスカート、それと口元を抑えているポンポン――。
まずい、まともに顔を見られない。
「どうしたの、智也」
「……い、いや、何でもない」
俺は視線を本棚へと反らす。
あの一件から女性に対して不信感を抱いているのに、どうして俺のジュニアは正直に反応しているのだろうか。
ひょっとして俺は未練を抱いているのだろうか。部長に抱かれた幼なじみのことを――。
「こっちを見ないってことは、向こうで何かあったのかしら」
「うっ……」
悔しいけど、若林さんの言うとおりだ。
幼なじみは俺を応援したくて、高校に入ってすぐにチアリーディング部へ入った。練習が大変だと何度も口にしたことさえあった。
それでも、彼女と時折会って話すだけでも幸せだった。サッカーを続けてきて、本当に良かった。そう思っていた。
しかし、そんな彼女が変わったのは夏休みが明けてからだ。
なんと、彼女はサッカー部の部長と付き合うようになった。しかも、俺を売ってまで。
俺は汚名を着せられ、いじめの対象となった。無実を訴えようとしても、教職員はサッカー部の部長とチアリーディング部の顔色をうかがうばかりだった。
サッカー部を辞めて部長に復讐しようと思ったことがあるけど、そんなことをしても幼なじみが戻ってくるわけがない。
結局、俺は自分の中で抱え込んだ。いじめにも耐えた。しかし、次第に耐えられずに俺はついに学校を休んだ。一週間、二週間と続き、二学期の中間試験が間近になる頃まで続いた。
担任の先生が学校にまた足を運んでくれと俺を説得したものの、一度芽生えた学校への不信感は簡単にぬぐえなかった。
そこで父さんが考えたのは、転職してまで川崎の街を去ることだった。しかも、父さんが生まれ育ったこの街に――。
今までのことを思い出すと、涙が頬を伝う。さっきあれだけ泣いたのに、まだこぼれ落ちるのだろうか。
俺は若林さんの顔を見ないようにしながらパイプ椅子に座ると、涙を振り絞った声で少しずつ口を開く。
「若林さんの思っていたとおりさ。あまり言いたくはないけど、今でも思い出すと……」
「つらいの?」
「そうさ。誰も信用できなくなったんだよ、俺は。今さら応援なんてされても……」
また若林さんの前で俺は弱音を吐く。
応援なんてしてもらっても、どうにもならない。それは俺が一番よくわかっている。
俺を応援していた幼なじみは俺のそばを離れ、イケメンでずるがしこい部長に喜んで抱かれた。
そして、そのイケメンに騙されて俺を罠にはめた。
俺を応援していた幼なじみにはしごを外され、俺は奈落の底へと落ちた。
「智也……」
甘いシトラスの香りが鼻をくすぐる。だけど、構うものか。
女なんて信用できない。幼なじみを奪われ、いじめられたんだ。だから、なおさら……。
「なんだよ。俺は誰も信用できないし、どうにでもならないんだよ」
若林さんがなんと言おうと、俺は顔を背ける。
「そんなことは言わないでよ、智也」
「なんだよ、俺のことを気安く呼ぶんじゃないよ」
また顔を横に向けようとしても、若林さんは顔を寄せる。何度も避けようとしても、俺の顔を見つめようとする。
「つらそうな顔をしているのね。私ね、あなたの気持ちがよくわかるわ」
「どういうことだよ」
「いいから、黙って聞いて」
そう話すと、若林さんはパイプ椅子を引っ張ってきて俺の隣に座る。
(何かを話したがっているな。不信がってないで、ここは彼女の話を黙って聞こう)
俺は何も口を挟まずに、若林さんの話に耳を傾ける。
若林さんは俺が何も言わなくなると、ゆっくりと口を開く。
「私はね、小さい頃にテレビでチアの大会を見てね、それでやってみようと思ったの。そこで隣の区にあるキッズチアのチームに入って一生懸命練習したの。テレビ局のイベントにも出たことがあるわ。中学校でも続けようと思って私立の中学校へ入ろうとしたの。だけどね……」
「いろいろと厳しかった、と」
「そうね。まあ、こればかりは仕方なかったわ。それでここの学校の近くにある中学校へと進んだの。新体操部に入ったけど、次第に胸と身長が大きくなってやりづらくなって……」
「……言いたいことが分かったよ。補欠のまま引退したと……」
俺がそう問いかけると、若林さんは無言でうなずく。
「智也が思っているとおりよ。高校こそはと思って私立高校を受けようと思ったの。だけど学費が心配だからと親に泣きつかれてね、それでここに入ったの。最初はチア部がないことにがっかりしたけど、クラスの担任の先生が『うちの学校はイベントが多いから、そっちで活躍してみたら』ってアドバイスをしてくれたの。そこで運動会を皮切りに文化祭、球技大会でクラスの応援をしたの。そうしたら、みんなが私のことを『勝利の女神』、『困ったときのチア真凛』と呼ぶようになったわ」
若林さんは笑顔を浮かべながら満足そうに話すと、天井に視線を向ける。
だけど、その話が俺とどう関わってくるのだろうか。
「それと俺がどうつながるんだよ」
「……私が応援すれば、あなたもきっと元気になる。そう考えたからよ」
若林さんはパイプ椅子から立ち上がると、手にポンポンを持って立ち上がる。
教室にある長テーブルを移動すると、俺の正面に立って腰に手を当てて胸を張る。
「それでは、今から智也……いえ、青葉君の応援を始めます」
「あ、ああ……」
「……元気がないわね。背筋がピンとなっていないわ。しっかりと背筋を伸ばして、返事は『はい』で!」
言われたとおりに背筋を伸ばし、それから「ハイ!」と答える。
(若林さん、笑顔になっているな)
……今、心の中でなんて言ったんだ?
さっきからずっと若林さんのことが気になっている。
女性のことを不安に思わなくなっている……いや、まさかな。
「よろしい。それじゃあ、ちゃんと見ていてね! ……ゴー! ファイ! ウィン! ゴー! ファイ! ウィン! ゴー! ファイ! トモヤ! ゴー! ファイ! ウィーン!」
若林さんがエールに合わせて足を振り上げる。
幼なじみのぎこちないエールに比べると情熱的で、声が部屋いっぱいに響き渡る。
「どうかな、智也。元気になったかな」
それからひととおり踊り終えると、眩しい笑顔を見せる。
次の瞬間、俺の心は……。
なんだ……?
……胸が熱い。心臓が早く脈打っている。どういうわけか呼吸が荒くなっている。
変わったのはそれだけではない。ぼんやりとしていた若林さんの姿がはっきりと見える。
意志の強そうな丸くて大きな瞳とそれをふちどるまつげ、整った目鼻立ち、桜桃色の唇にくびれのところまである長くてさらさらとした黒い髪。
出るところは出て、引っ込んでいるところは引っ込んでいる体つき。
女性としては背丈が大きく、俺と並んで歩いても目線が合いそうだ。
踊ったせいもあって、衣装にはほんのり汗がしみついている。
……ああ、そうか。俺は知らないうちに若林さんのことが好きになったんだ。
幼なじみのこととか、あらぬ罪をかぶせられたこととか、もうそんなのどうだっていい。若林さんにお礼をしなければ。
俺は椅子から立ち上がって、若林さんの顔をじっと見つめる。
「若林さん!」
「なあに?」
タオルで汗をぬぐい、マイボトルに口をつける若林さんに迷わず声をかける。
部室の中は明らかに文化部そのものだ。だけど、運動部の部室にいる感じがする。若林さんが着ている衣装のせいだろうか。
いや、そんなことは気にしていられない。お礼を言わないと!
「ありがとう。あなたのおかげで俺、元気になったよ」
「……ホント?」
「本当さ。俺、向こうで大変な目に遭ってからずっと……」
どうしたのだろうか。次の一言が出てこない。それに、胸のドキドキが止まらない。
ひょっとして俺、若林さんのことを好きになったのか? いや、俺と若林さんは出会ってまだ一日しか経っていないはずだ。
「どうしたの?」
若林さんが俺のことを不安そうな目で見つめる。そんな目で見ないでくれ、股間のジュニアが反応してしまう。
「……俺、若林さんのことがす、す……」
「す?」
「好きに……なっちゃったんだ」
「えっ……?」
言った。というか、言ってしまった。
出会ってまだ一日しか経っていないのに、なぜ好きになったのだろうか。
――ああ、そうか。若林さんの笑顔が俺の心を溶かしてくれたのか。
「智也、それってホント?」
「本当だよ。この気持ちは嘘じゃないよ」
「つらいことも忘れられそう?」
「もちろんさ」
俺は力強くうなずいた。
川崎の地でつらい思いを味わった俺だけど、この地でならばやり直せる。
そう感じた瞬間、甘い汗の香りが体にまとわりつく。
「ありがとう、そう言ってくれて」
気がついたら、若林さんが抱きついていた。
汗の臭いもさることながら、柔らかい凶器が体に当たっている。
このまま先生に見つかったら、不純異性交遊を疑われる!
(いや、今は何も考えなくていいか……)
何も言わず、俺は若林さんの体を抱きしめていた。
もう、誰に何を言われてもいい。俺には若林さんがいるのだから。
春の嵐が吹き荒れるなか、文芸部の部室は静寂に包まれた。
しかし、その静けさも――。
「……じゃあ、決まり!」
若林さんの一言であっという間に破られた。しかも、俺から距離を取って。
「私のことを好きになったんでしょ? それなら、文芸部と演劇部に入って私のことを手伝ってくれるかしら」
「えっ、俺が? 冗談だろ!」
「冗談じゃないわよ。あなたが知らない間に入部届の書類を用意しておいたの」
ふと長テーブルに視線を移すと、そこには二枚の紙切れが置いてあった。
紙切れには「入部届」と書いてあって、その下にはきちんと『文芸部』、『演劇部』と若林さんの字で書いてある。
若林さん、ずいぶんと用意周到なことをしてくれるじゃないか。女性に対する不信感がなくなったのに、これではまたぶり返しそうだ。
「……俺はいいよ。部活に入る気なんてないし」
「そういうわけにはいかないのよ。うちの学校はみんな部活に入るって決まりになっているから」
「だからといって兼部するのは……」
ためらっていると、若林さんは長テーブルを回り込んで俺の耳元まで顔を近づけてささやく。
「智也、もし入ってくれたら私の踊っている姿を間近で見られるわよ」
その一言を聞いた途端、俺は思わず耳を疑った。
(若林さんが踊っている姿を目の前で見られるのか)
確かに、先ほどのエールは見事なものだった。幼い頃から頑張っていたと話すだけあって、動きもこなれたものだった。
幼なじみを奪われてからずっと、俺は今までずっと一人で苦しんできた。だけど、そんな俺に春がやってきた。
(若林さんの思いにこたえよう)
俺は決意を固めると、長テーブルに置いてあるペン立てからボールペンを取り、入部届に自分の名前を書く。
「これでどうだ」
もう、迷いはない。
幼なじみに裏切られ、いじめられ、家族とともにこの街に逃れた俺だ。
俺を陥れた人間に報復をして青春を取り戻すよりは、この街で青春を一からやり直そう。
「ありがとう、智也。これからよろしくね」
「こちらこそ」
俺は昨日と同じように若林さんの手を握る。若林さんの右手には、確かなぬくもりがある。
どんなことがあっても、俺は若林さんと一緒に頑張れる。夕闇迫る校舎で、俺は彼女への思いを刻み込んだ。