アーソングは戸惑っていた。
彼は必死に小型の演算機を覗いては弄っている。
何をしているのか訊こうと目を向けるエーレルだが、アーソングは敢えて無
言だった。
再び平和な精霊の灯火が幾つも浮遊して、通路は車椅子の少女に対して造ら
れて行く。
ゆっくりと、石壁だった回廊は薄汚れが現れ初めていた。
ひびの入った部分からは汚水と見られるものが滲みだして、小さく床に溜ま
っている。 空気も二人にはどこか息苦しく感じて来た。
エーレルと並びながら歩いているアーソングが、密かに肘を突いてきた。
今のうちに、相手を倒してしまえというのだ。
エーレルは、少女に興味があった。
何やら困惑しているアーソングよりも、確かな雰囲気があった。
「名前を聴いていいかな?」
少女に向かって訊いた。
彼女は首を回し、微笑んだ。
「いいです よ。ルェジーンです」
あっさりと答える少女は容姿といい、人種が定かではない。
そこでまた、アーソングが忙しそうに回転盤演算器を弄りだす。
「変わった名前だな。名付け親は?」
エーレルはゆっくりとだが、警戒心が解けていくのを感じた。
「僕の主人です。又は人間の誰か。結構知り合いがいるものでして、誰だっ
たかよく覚えてないのが本当のところです」
苦笑にも似た顔を見せると、ルェジーンは再び前を向いた。
ぼんやりとした精霊たちは彼らを見送るようにたゆたい、少女のおかげだろ
う、敵意は消えていた。
道をゆっくりと進んでいくうちに、薄汚れた感が増してきた。
「おいここ、かなりな人数が弄ってるぞ」
アーソングが小声で言って来た。
「弄られている? あんたが造ってるんじゃないのか?」
「いや、もうあのガキが造っている。とっくにな。正直どこに連れていかれ
るか、まったくわからん」
だから、今のウチにと言ったのだろう。彼は続けた。
「正直、何らかの憑き物の所に行くらしいが、ちょっとヤバいかもしれない
ぞ」
「ヤバい?」
「探知した許容量が、すでに演算機を超えて いるんだよ……」
「演算機なしで、対処できないのか?」
「術式を一瞬で行われるようにしたのが、この機械だから、やろうと思えば
やれない事もないと思うが……」
アーソングの口調に不安げなものが混る。
エーレルは、見下したように一瞥した。弱音など聞きたくないのだ。
どこからか、微かな歌が聞こえて来た。
場にそぐわない安らぐような合唱だ。
どうやら、精霊たちのものらしい。
毒気のない彼らと、通路の退廃ぶりは、異様な不均衡さを醸し出していた。
小一時間も歩いたか。
車椅子が止まった。横向きになって、通路をあけるようにバックすると、ル
ェジーンは彼らに微笑みを浮かべた。
「ここから、先はお二人でどうぞ」
アーソングとエーレルは再び顔を見合わせた。
明らかに、アーソングは最悪の事態を考えているような表情だった。それ
は、悲嘆にくれたものではなく、自嘲ししつつ、覚悟を決めたものだ。
エーレルと言えば、何の感情も見せていない態度を保っていた。いつも通り
に超然として。
彼女は迷いの無い、しっかりとした歩調だ。
アーソングは数秒、彼女の背を眺めてからやれやれと言った感じで、ついて
行った。
石畳の空間だったはずだが、いつの間にかそれは波のように胎動をはじめ、
歩を進めるごとに広がりが見えて来た。
進んでゆくと、先方から灯された明かりが差し込んできた。
光はまさに刺すという感じで、皮膚が焼かれるようだ。
アーソングはエーレルと並ぶと、不安を口にした。
「何者だ、先にいるのは……この光、ただの光じゃねぇぞ」
「わかりきったことを言うな」
彼女は、忌々しそうに言葉を吐いた。
「いや、痛みがある光ってだけじゃねぇ。これは、解析もされてる。なんと
か、俺は防ぐたびに破られをくりかえしているが、やろうと思えば、構築改造
(クラツキング)もされかねないぞっ」 エーレルはその発言に眉をしかめた。
抵抗なく光を浴びているが、改造(クラツク)は楽しい事態ではない。
「どうにかできないのか?」
彼女は訊いた。
「一応のシールドは張ってあるが、ほとんど意味がないな……」
一流以上の堕天師にしては、心もとない返事だった。
エーレルは回廊の片隅に、花がぽつりと咲いているのに気が付いた。種類は
わからない。
だが、白と赤を基調とした、安らぐよう香りをしている。
先を見ると、草花は地味に増えて言っていた。
同時に合唱もやや、はっきりと聞こえてくるようになった。
時折、全体がゆれるかのような振動が、起こった。
これにはアーソングが警戒を深くしたらしい様子が感じられた。
そして、精霊たちにどこか解放感があるのがわかった。
だが、進む向こうから感じられるのは、不穏な空気だった。
この差は なんなのか。
アーソングは役に立ちそうにない。エーレルは感覚を研ぎ澄まして、一分の
隙もつくらないようにした。
やがて、空間が突然に開けた。
どこかでラッパの音が複数、鳴り響いた。。
中心に、人物らしき影が、何かに腰かけているのがわかった。
エーレルは間合いを詰めるような動作で、良く見えるようになるまで近づい
ていった。
相手は意図されているのか、はっきりとしない闇に覆いかぶされた細く髭の
長い老人の姿で、身体の至る所を野太い鎖で巻かれている。
老人からは、禍々しい瘴気が放たれていた。
そして、身体の中に、何かが圧縮されているのが雰囲気で伝わって来た。
「ようこそ、お二人とも……」
老人はうつむき加減のまま、鉛色の瞳を見上げて言った。
口からなのか何故か、静かな声は空間四方から聞こえて来る。
光りの影になって、細かい所までは見えないが、灰色のローブを着て、フー
ドを目深に被っている。その中の顔は幾つもの深いひびのように、皺がきざま
れていた。長い髭も白髪が目立つ灰色だった。
やせ細ったその姿からは想像できない圧倒的な存在感が、二人を襲う。
「……あんた、何者だ?」
アーソングが圧力に耐えるのに必死な中、少しでも情報を得ようとして声を
絞り出す。
瘴気と、安心感のあるものが混在して、空間は優し気な光が降りているにも
かかわらず、老人の周りには闇が漂っていた。
「私は、この場に封じられたもの」
老人は重々しく 言った。
「……おまえたちも、何かしら封じられたものがあるようだ」
アーソングもエーレルも、怪訝な顔をした。
次の瞬間、老人の後ろに巨大な人間の影が現れ、二人に向かって両手をのば
してきた。
避ける間もなかった。
二人はすんなりと、腕に包まれてしまった。
圧倒的なまでの存在感に恐怖心が沸き起こり、意識が吹き飛ばされそうにな
る。
光りを見た。
それは打って変わって禍々しい雰囲気の老人からは、考えられない癒される
ような優しさに満ちていた。
「我が子たちよ……。何故私を裏切った……?」
しわがれ、どこか絶望と諦めに似たものに、明らかに怒りが混ざっていた。
とたんに、体の内部から何かが膨らみ突き上げて来た。
腕と手が血に染まってゆくのを、エーレルは自身の目で見た。アーソング
は、目から涙のように血を流している。
あらゆる怨嗟の念が頭を支配し、引き裂かれ内部から爆発しそうになる。
だが、限界を超えたかと思った時には、それらは体中から抜け出ていくよう
に、謎の蒸気のようなものが身体から噴出し、上空に闇をつくったかと思う
と、消えていった。