突然として聞こえてくる鍵盤の音は耳を通り、酸素が全身にいきわたるように私の心を癒やしてくる。
優しい音で、強弱がはっきりと分かるほどの緩やかな音。けれど、途端に鍵盤の音が強くなり、スピードを重視した技術が問われる旋律へと入れ替わる。
久しぶりに聞く曲に、口に入れようとしていたピザが止まってお皿へと戻っていく。
そうして背もたれへと体重を預けた。
「遊ったら練習の成果見せちゃって〜」
「練習の成果……ですか?」
「そうなのよ〜。先週の土曜日だったかな?買い物から帰ってきたと思ったらすぐに防音室に籠もっちゃってね〜」
「そ、そうなんですね……」
やっぱり気にしてんじゃん……。
保健室では自分が悪いと頭を下げてきた白崎。
その時は私も気にしていないんだな、と安堵のため息をついていた。けれど蓋を開けてみればずっと籠もっているとのこと。
やっぱりあの時の目は偽りでもなんでもなく、素の白崎だった。
なんで悔しいと思ったかなんて、おばさんの言葉を聞けば一目瞭然だ。
白崎は多分、嫉妬をしていた。
保健室でのあっけらかんとした様子を見るに、自覚はないのだと思う。
けれどあの眼差しは嫉妬のもの。私が言うのもおこがましいと思うけれど、私の『綺麗』という言葉に嫉妬心が燃えたのだと思う。
「花音だいぶ嬉しそうだね?」
「え?あー……うん、まぁ……ね」
顔にでも出ていたのだろうか?
まるで特別なものを見たかのように大きく目を見開くお母さんが私の顔を見下ろしながら言ってくる。
正直言って、今お母さんが言った通り嬉しい。
私のたった一言で活気づいてくれて嬉しい。
もちろん申し訳ない気持ちだってある。でも、嫉妬心だということが分かると無性に嬉しくなるのだ。
「あらあらまぁまぁ。美佐ちゃんの娘ちゃんったら可愛い顔するわねぇ」
「でしょ〜?最近じゃこんな笑顔ばっか浮かべてねぇ?昨日も寝る前に1人でニヤついてたのよ〜」
「青春ねぇ〜」
「嬉しい限りよねほんと」
隣からお母さんとおばさんの会話が聞こえてくるけど、そんなことに現を抜いている場合ではない。
約4分という長いようで短い時間はあっという間に過ぎ、白崎が弾いている曲――たしか『チャルダッシュ』――は転調に入って、曲の終わりが近づいているのを知らせてくる。
力強く、それでいて素早い音色。
けれどしっかりと音の一つ一つは私の耳に届く。
そんな音たちに釣られるように私は椅子から立ち上がり、リビングを去った。
もっと聞きたい、なんてわがままで歩く私は音の糸を辿っていると、とある場所へとたどり着いた。
さっちゃんが閉めなかったのだろうか、全開になっている扉から目元だけを覗かせる私は、初めて見る光景に息を呑んだ。
「……すご」
そんな私の声と同時に白崎のピアノが弾き終わる。
さすれば、白崎の隣に立つさっちゃんがパチパチと拍手をし始めた。
「変なお兄さんすごい!動画の人たちよりもじょうず!」
「ほんとか?」
「うん!」
「ならよかった」
背もたれに体重を預ける白崎は、両手をブラブラと揺らして疲れを飛ばしている様子。
素早い指の動作が腕を疲れさすことなんて、音を聞いてても、弾いている姿を見ててもすぐに分かる。
……そんなことより、白崎ってあんな顔するんだ。
息を呑んだ私の視界に入ってきたのは、沢山の楽器、そしてグランドピアノを華麗に弾く白崎の姿――と、楽しげにはにかむ白崎の表情。
小さい頃はよく見せてくれた顔。だけれど最近じゃ見ない。
だから新鮮に感じるのだ。
無愛想じゃなくて、演奏終わりもはにかんでる白崎の顔が。
「さっちゃん?流石に拍手長いんじゃない?」
「すごいもん!」
「そりゃ嬉しいけどさぁ……。流石に俺も恥ずかしいよ?」
「じゃあもう1回弾いて!」
「……さては聞いてないな?」
「弾いてっ!弾いてっ!」
ぴょんぴょんと椅子に手をついて跳びはねるさっちゃんに、苦笑を見せる白崎。
けれどどことなく嬉しそうで、もっと欲しがっているようにも見えた。
「んーまぁ、一旦休憩も兼ねて空気を入れ替えよっか。湿気がすごいことになる」
「えー!」
「あの曲は手が疲れるんだよ……。ごめんねさっちゃん」
なんてことを言いながら腰を上げた白崎は、さっちゃんに目を向けたまま扉の方へと向かってくる。
あっ、これまずい……!
慌てて扉から離れ、リビングの方へと戻ろうとした時にはもう遅く、扉が開いていたことに気がついた白崎は「開いてんじゃん!」と声を上げて足音を立てながら扉の方へと走ってきた。
「さっちゃん閉めなかったのか……。母さんに怒られなければ――って、か、
不意に聞こえてくる声は、私の背中に強くぶつかる。
その衝撃からか、私の足は意思なしに止まって、白崎――いや、遊くんのことを見た。
これまではあの病室のことを思い出さないために白崎と呼んでいた。
きっとこれからも白崎と呼ぶんだろうな、なんてことを思っていた。
けれど、今の遊くんも私のことを『花音』って名前で読んでくれたのだ。
遊くんがあの時のことをどう考えているのかはわからない。
でも、花音と呼んでくれているということは、あまり気にしていないっていう認識で……いいよね?いいんだよね!?
ドンドンっと足音を立て、遊くんの隣を通り過ぎた私は防音室に足を踏み入れてさっちゃんの元へと行く。
「ど、どした?さっちゃんならいい子にしてたぞ?」
「ちょっと……遊、くん……とお話したいから……」
「な、なるほど……?」
戸惑う声が扉の方から聞こえてくる。
これは私の理不尽だ。だけど、謝るのならここが1番だと思った。
「ねぇねだけずるい!さっちゃんもお話したい!」
「ごめんねさっちゃん。ねぇねたち、ちょっと大事なお話したいの」
「……変なお兄さん、さっちゃんもお話したい……」
情に訴えるとは卑怯な子ね……。
扉からこちらへと歩いてくる遊くんに、涙目を向けてタタタッと走っていくさっちゃんは足にしがみつく。
本当は私だってあれぐらいのことをして遊くんと2人で話したい。けれど今の私はいい歳をした女子高生。
流石に涙ぐむ目を向けながら遊くんに抱きつこうものなら引かれてしまって友達に戻ろうにも戻れなくなる。
だからグッと拳を握って、遊くんの選択を待つ。
「さっちゃんは後でお話しよっか。俺もちょっとねぇねと話すことがあるから」
腰を下ろし、さっちゃんの頭を撫でながら言葉をかける遊くんの姿は優しく、けれど迷う様子もあった。
遊くんがなにを迷っているのかなんて分からない。けれど、私との会話を選んでくれた。
だから多分、さっちゃんに申し訳ない気持ちがあるのだろう。
「あとで……?」
「うん、あとで」
「ねぇねとなに話す?」
「んー……そう言われると困るな……」
「言わないとさっちゃん行かない!」
迷惑ばかりかけないで、なんて言葉は私が口にしていいものではない。
突然の申し出をしたことも、こうして遊くんのことを困らせてしまっているのも、元は私が発端。
それ故に、ここで私が口を開くことはない。絶対に。
ポリポリと頬を掻く遊くんはチラッとこちらに視線を向け、そしてさっちゃんのことを見下ろす。
「これからのこと……だな」
「これからのこと?」
「うん。だからさっちゃんはリビングに戻っててくれるかな?」
「ねぇねが終わったらさっちゃんと遊ぶ?」
「遊ぶ。絶対に」
ワシャワシャと撫でる手を止め、さっちゃんの目をしっかりと見つめながら言葉を口にする遊くん。
そんな遊くんの目から色々と感じるものでもあったのだろう。
ギューッと養分を蓄えるように遊くんの足に抱きつき、
「じゃあさっちゃんお母さんと遊んでくる!」
「あいよ」
身体を離したさっちゃんは涙ぐんだ目なんてどこかに置いて笑顔で防音室を出ていった。