「今日は白崎くんが一緒に帰ってあげてね」
「言われなくてもそのつもりです」
カーテンを閉め、ベッドの隣で着替える私のもとにそんな言葉が聞こえてくる。
確かに倒れた私を1人で帰らすのは危ないのかもしれない。
だからといって1人で帰れない訳では無い。
今ではもう頭痛も引いて、熱かった体も収まっている。
白崎にも迷惑かけるわけには行かないし、ここはちゃんと断っておこう。
「あの、もう私は大丈夫です」
シャーっとカーテンを開き、カーディガンのボタンを締めながら言葉を口にする。
さすれば、やっぱりというべきか、先生は眉間にシワを寄せて口を切ってきた。
「絶対にダメよ。白崎くんと帰って」
「私はもう元気です。現に、普通に立って歩けていますし」
「それでもダメよ。途中で倒れたらどうするの」
「その時は通り過ぎた人が通報してくれることを願います」
「つべこべ言わずに白崎くんと帰りなさい」
ボタンを締め終わってもなお言い合い続ける私たちは両者一歩も引かない。
……というよりも、引きたくない。
私のことをここまで運んできてくれたのは白崎だと思う。そのことには本当に感謝してるし、助けてくれるんだなという安心感もある。
多分それは先生も同じで、白崎がここにつれてきたからこそ、白崎と帰れと言っているのだと思う。
けれど、これ以上迷惑かけたくないの。
私が倒れたということですら迷惑をかけてしまったのに、帰り道も私の様子を見ないといけないというのは、正直言って荷が重いと思う。
私だって分かってる。1回倒れた、という事例がある以上、もしかしたら帰り道でも倒れるかもしれない。それぐらい私だって分かってる。
でもそれが理由で、白崎が私のことを『めんどくさい』なんて思ったら、私の心は――
「――まぁいいんじゃないっすか?1人で帰れるでしょ」
突然聞こえてくる言葉に目をやれば、興味がなさそうに肩を竦める白崎の姿が視界に入った。
瞬間、嫌な妄想が脳裏に広がり、ズキッと心が痛む。
物理的な痛みなんかではなく、精神的な痛みが身体を襲った。
私の意思を汲み取って尊重してくれた、と考えるのがいいのだろう。だけれど、一度広がったこの思考がポジティブを邪魔してくる。
「白崎くんまで……」
「本人の身体は本人が1番わかってますからね。俺達がとやかく言う必要はないっすよ」
「先生としては不安なんだけどなぁ……」
「まぁまぁ。そんな事言わずに」
先生を宥める白崎の顔は、私なんかには見せたことがない微笑みであり、先生の肩を掴んで強引に椅子に座らす。
宥めるための笑顔だってことぐらい分かってる。
分かってるけど……そんな顔、できるんだ……。
1人でに傷ついてしまう私は、2人から視線を逸らして扉の方へと向く。
そして、色んな思考が飛び交う頭を振り返らせることなく「ありがとうございました」と口にして保健室を後にした。
「あ、じゃあ俺も帰りますね」
「ちゃんと一緒に帰ってよ!」
「残念ながら俺は1人で帰ります。さよなら」
「あっ、ちょ――」
途端に先生の言葉が途切れたことから察するに、扉を締めたのだろう。
だから多分、私の後ろには白崎が居る。居るはず……なんだけど、沈黙が走るだけで他にはなにもない。
……本当に私はわがままだ。
自分から1人で帰ると言っておきながら、心のどこかで白崎に話しかけてほしいと願っている。
先ほど前述した『1人で帰る』という言葉に、失意に陥ってしまっている。
昔からずっと、自分の発言に後悔してばっかりだ……。
無言のまま2年生の教室を通り過ぎると、階段の隣にある1年3組の教室が見えてくる。
きっと、今日の2人きりの時間はこれで最後だ。
明日にでも2人きりになれるのならなりたい。けれど、それは叶わないという自信がある。
だから、数日間後悔しないように、
「あの、し――」
後ろを振り返り、私が口を開いたときだった。
教室の扉からひょこっと顔を出した坂間くんが大きく手を振ってくる。
「――大丈夫だった!?」
なんて言葉を口にしながら、教室を出てこちらに駆け寄る坂間くんの表情は満面の笑みで、落ちた気分なんて忘れてこちらまで笑顔になりそうになる。
「うん、大丈夫だよ。ありがとね」
私の前へとやってくる坂間くんに言葉を返してやると、先程の微笑みなんてまるで嘘だと言いたげな真顔で隣を通り過ぎた白崎が教室へと姿を消す。
「……あの男になにかされた?」
きっと、私の視線が悲しいものだと感じ取ったのだろう。
不意に聞こえてくるその声は暗く、怒りすら感じてしまう。
慌てて首を横に振る私は、誤解を解こうと口を開こうとしたのだが――
「――あの男、俺が保健室に行った時に『帰れ』って強く言ってきたんだよ」
「……え?」
「『教室に帰ってから話せ。今はまだ来んな』ってさ。やばくねーか?」
嫌悪を感じられる坂間くんの視線は教室を向いたままで、相当気に食わなかったのか、力強く手を握っている。
「た、多分誤解してるよ?坂間くん」
「誤解?やっぱあいつになんかされただろ」
「さ、されてないよ……」
きっと、坂間くんに日和って声を小さくしてしまったのが悪かったのだろう。
坂間くんはキリッと細めた目で踵を返して――
「ま、待って!ほんと誤解だから!」
慌てて坂間くんの右手を両手で掴み、今度は日和らないように声を張って言う。
正直、引っ張られるのを覚悟して足を踏ん張ったのだけれど、坂間くんは案外聞き分けが良く、すぐに足を止めてくれた。
「に、西原……さん?」
困惑しながら振り返ってくる顔は少し赤く、掴んでいる手と私の顔を交互に見てくる。
「ほんとに、なにもされてないから」
高鳴る鼓動なんて気づきもせず、一心不乱に坂間くんの目を見やる。
白崎は私のことを気遣って病弱のことを隠してくれたのだ。
だから坂間くんに『帰れ』と強く言ったのだと思う。
もしかしたら他にも理由はあるのかもしれない。
けれど、少なくとも私はそう思う。
「白崎は……優しい、から……」
そう口にする私は熱くなる顔を隠すように視線を落とす。
優しい。これは揺るぎない事実だ。
思わず恥ずかしさから視線を落としてしまったけど、本当は胸を張って言いたい。
『私の自慢の幼馴染なんだ』って。
……でも、そう思ってるのは私だけだったようだ。
「どこが……だよ」
小さな声が坂間くんの口から溢れる。
もし、ここに騒音があったのなら聞こえていなかったのかもしれない。
けれど、私の耳にはしっかりと届いた。いや、届いてしまった。
スルスルっと手から力が抜け、坂間くんの手から私の太ももへと落ちる。
「み、見てたんじゃないの?あの……私が、運ばれるところ……」
私が見たことじゃないから確信は持てなかった。だから言葉が細くなってしまったのだけれど、その言葉はしっかりと坂間の耳に届き、答えが返ってくる。
「……見たさ。ちゃんとこの目で見たさ……」
私の予想は当たっていたらしい。
白崎が私のことを運んでくれて、授業が終わってもなお私の様子を見ててくれた。
嬉しい。そんな感情が湧く私を他所に、どこか悔しそうにシワを寄せる坂間は、ギュッと拳を握って――
「――イキってたやつだろ?わざわざお姫様抱っこして、先生に声をかけて注目を集めて。見ててクソ痛かったよ。イキっててだっせーし見るに堪えなかったわ」
まるであざ笑うかのように笑みを浮かべた坂間が私を見下ろしながら言ってくる。
そんな言葉に、私はパクパクと口を開けては閉じることしかできなかった。
「西原さんもそう思うだろ?なんであんなやつに運ばれたんだろうってさ」
「い、や……私は……」
やっと絞り出せた声だけど、あまりの衝撃に口元は閉ざされてしまう。
「ほら、心の底では嫌だったんだろ?」
言いたい。嫌じゃなかったって。嬉しかったって。優しいって。
私だって否定したい!
……でも、言っていいのかな。
怖気や恐怖が私の口を閉ざしてくる。
『友達じゃなくなる』というたった一言で、白崎を尊重しようとする言葉が全て消え失せてしまう。
ちゃんと言わなくちゃダメだって分かってる。
けど、高校生活で初めて出来た異性の友達。その関係が崩れてしまうと考えたら、私の身体は無意識に固まってしまった。
「嫌――」
その瞬間、肩にカバンをかけた白崎が教室から出てくる。
思わず口を抑えてしまった私だけれど、白崎はこちらを見ることなく隣を通り過ぎていった。
「やっぱり嫌なんだな」
冷や汗をかく私なんてそっちのけで、坂間くんは私の止めた言葉を悪いように受け取ってしまった。
慌てて訂正しようと首を横に振るのだが、
「嫌なんだってさ!次からはやめろよな!」
身体を横に傾けた坂間くんは、私の後ろを歩き去っているであろう白崎に向かって叫んだ。
そんな姿にただ唖然とした。
流れていたはずの冷や汗も引っ込み、動かせるようになった身体もピタッと止まった。
けれど鼓動だけは激しくなって、無性になにかに当たりたくなる。
「聞いてんのかー!イキんなよー!」
訂正しようとした口も閉ざし、冷笑する坂間くんから地面に視線を落とす。
せっかく今日築き上げた関係が誰かによって崩されていく。
誰かの手によって、あの病室での出来事が掘り起こされていく。
私たちが解決するべき問題に、誰かが首を突っ込んでくる。
それが堪らなく嫌だ。
言葉になんて出来ないぐらい嫌だ。
黒歴史であっても、これは私と白崎の大切な思い出。
変わることのない過去で、これからの未来につながること。
――パチンッ
気づいたときには私の手はピリピリと傷んでいた。
「は……?なに……なに、すんだよ!」
頬を抑える坂間くんの顔には冷笑なんてなく、眉間にシワを寄せて私のことだけを見て怒鳴ってくる。
私は、知らぬ間に坂間くんの頬を叩いていた。
我慢しきれなくて、怒りに身を任せて、坂間くんにビンタしてしまった。
「ごめん!帰る!」
坂間くんにも負けを劣らない声量で言葉を返した私は、坂間くんの隣を通って誰もいない教室に入る。
これは『逃げる』という表現であっているだろう。
私は坂間くんの怒声にビビっているし、自分の行為に怖気付いている。
誰かに怒鳴られたことなんてないし、こんなに怒りを覚えたことはない。
あの時でさえこんな怒りは込み上げてこなかった。
だから、私は自分を落ち着かせるために逃げる。
こんなことになるなら友達なんていらない。
友情関係なんて崩れてしまえばいい。
机に上げたカバンに筆箱を突っ込み、肩に担いだ私は踵を返して早々に教室を出る。
「おい!待てよ!」
頬には赤くなった手跡が残る坂間くんが私の前に立ちはだかる。
けれど、いま心にある怒りを視線だけで伝えてみれば、坂間くんの身は固まってしまう。
軽く会釈した私は隣を過ぎ去り、タッタッタッと駆け足で昇降口へと向かった。
あまり走りたくはないのだけれど、致し方ない。
言葉にはしなかったけど、私はもう坂間くんと顔を合わせたくない。