「おかえり。さっき隣の遊くんがこの食材届けてくれたけど」
そう口にするお母さんは、ビニール袋からひき肉を取りだして冷蔵庫に詰めていた。
「なんでこの身体は全く走れないの……!」
リビングのソファーに手をつき、首筋に汗を流す私は病弱な身体に文句を言う。
もちろん少しは走った。けれど、この身体には限界があったのだ。
数十秒走るだけで頭がクラっとして、膝に手をついてしまう。
あの状態が長く続いてしまえば倒れかねない。だからあまり走れないんだけど……涼しかったらもっと走れた!というか帰るの早すぎない!?私結構急いだほうなんだけどな!
「まぁまぁそうは言わないの。治っただけでも奇跡なんだよ?」
「分かってるけど……!」
「それよりも遊くんなんて久しぶりに見たわ〜。あんなにカッコよくなっちゃって〜」
冷蔵庫を閉じたお母さんは頬に手を当てて分かりやすく緩ませる。
どうやら1年に1回ぐらいのペースで白崎と会ってるらしい。
そしてその都度今と同じ言葉を口にしている。
私が白崎と再会していない時は『うるさい』なんてことを思ってたけど、今となってはお母さんが言わんとすることは分かってしまう。
カッコいいは別として、確かに大人びているし、たくましくなってる。
だから否定することなく、袖で首を伝う水滴を拭ってそっぽを向く。
「花音も遊くんと仲直りしたのね」
「……別に喧嘩してないし」
「え?絶対喧嘩してたでしょ。毎日楽しそうに遊くんのこと話してたのに突然――」
「――あー!あーあー!!言わなくていい!」
「誰も居ないんだからいいじゃない」
「それでも言わなくていい!」
声を張って慌てて手を振り、お母さんの言葉を止める私はこれ以上口を開かないことを確認してソファーに腰を下ろす。
そしてため息を吐き、身体の中にある熱を放出する。
あの頃の私はどうにかしてた。
事あるごとに白崎のことをまるで自分のことかのように話して、お母さんたちにも私の気持ちを味わってほしくて、ただ夢中に自慢気に話していた。
ほんとあれは黒歴史よ。
今になってすっごい顔が熱い……。
ハタハタと顔を仰ぎ、側面にある熱を飛ばそうとするのだけれど離れてくれない。
ずっと残り続ける黒歴史と同じようにしがみついてくるこの熱は――お母さんが口を開くまで続いた。
「それで遊くん関連の話だけど、30日に白崎家のみんなとご飯食べるよ」
「……え?」
瞬間、身体の中にあった熱が一気に冷めてしまった。
仰いでいた手は固まり、お母さんのことを見つめる眼もピタッと止まってしまう。
9月30日。ちょうど私が3年前に退院した日。
退院した日と喧嘩別れした日は確かに違う。けれど、病院での出来事を思い出すのには何ら変わりは無い。
……何が言いたいのかと言うと、9月30日は私の失態を強制的に思い出させられる日なのだ。
その日だけは毎年辛かったのに、今年は白崎という根源を前にして思い出してしまうのだ。
「だから30日開けといてね〜」
お母さんの言葉でハッと我に返り、スマホを取り出してカレンダーを見やれば――
「来週じゃん!」
「うん。だから来週の土曜日開けといてね」
「いやいやいや。突然だと白崎さん家にも悪いよ?」
「数ヶ月前から計画してることだから大丈夫」
「……おばさんと?」
「もちろん」
「うぅ……」
親指を立てて自信満々に言ってくるお母さんから視線を床に落とした私は思わず頭を抱えてしまう。
去年、一昨年……そしてその前も、私はこの日だけはなんとしてでも家から出ずに布団の中に閉じこもっていた。
お母さんとお父さんには『体調悪い!』と適当な言い訳を付けて外食をパスしたり、わざわざタンスを動かして扉が開かないようにしたりと、ありとあらゆる手を使ってその日だけは逃げていた。
もちろん今年も部屋で引きこもろうとしてたのだけど――
「今年は体調が悪くなっても行かすからね」
「なんで!?ひどいよ!」
「退院以来会っていないから心配してるのよ?だから少しぐらい顔を出しなさい」
「さっちゃんはどうするの!」
「紗月も連れてくよ。大きくなった紗月も見たいって言ってたからね」
「ぐぅ……」
今年もタンスで開かないようにしよっかな……。
なんてことを思う私の心を読み取ったのか、こちらへとやってくるお母さんは私の隣に腰を下ろす。
「前日は私と一緒に寝るよ」
「……え?」
「またタンスで閉められたらどうしようもないからね。だから紗月と3人で仲良く一緒に寝ましょうね」
「……拒否権は?」
「そんなものないよ」
「ひどい!」
私の肩を組んでくるお母さんの太ももをペシペシと叩くけど、お母さんの意思は変わらないらしい。
不敵なほほ笑みを浮かべるお母さんは、獲物を逃さないと言わんばかりに私の目を見てくる。
「ねぇねと一緒に寝るの!?」
「そうよ〜」
どこから現れたのか、背もたれのから顔を出すさっちゃんは嬉しそうに言ってくる。
もしかしたらお母さんはこれを狙ったのかもしれない。
私がさっちゃんに弱いことを利用して、強制させようと。さっちゃんの可愛さで押し切ろうと!
「……分かったよ……」
もちろん分かっていても、さっちゃんに逆らうことのできない私は渋々頷いた。
さすれば、見返りと言わんばかりにさっちゃんは私の前へとやってきて、満面の笑みで見上げてくるのだ。
「やった!ねぇね一緒に寝よーね!」
「うん。寝よっか」
なんとも複雑な感情を胸に、私の1日は幕を閉じるのであった。