目次
ブックマーク
応援する
いいね!
コメント
シェア
通報
第12話 封印された施設

 錆びついた扉を押すと、驚くほど大きく、あたりにいやな音が響いた。

 私は小さく顔をしかめ、開いた隙間をすり抜けるようにして、中に入る。

 薄暗い建物の中、私はまっすぐ続く廊下を歩き出した。

 靴音が、異様なほど大きく響く。

 突き当りの扉が再び大きな音を響かせる中、私は広々としたエントランスホールへとたどり着いた。

 そこは、廊下とは対照的に、驚くほど明るい。

 ドーム状に造られた高い天井から、外の光がこれでもかと照りつけて来るからだ。

 以前はあったガラスは全て割れて、天窓はどれもただの穴と化している。

 そこから入って来る雨風のせいだろうか。ホールの床は朽ちて、放置されたままのテーブルや椅子も大半は腐って朽ちてしまっている。

 私はそんなホールを、ゆっくりと見回した。


 かつてこの建物は、病人たちを閉じ込め隔離するための施設だった。

 といっても、閉じ込められている人々はさまざまだったけれど。

 感染する病気にかかって隔離されている人、治らない病気だと医者からも家族からも見捨てられた人、気のふれた人もいれば、単に体のどこかが不自由なだけの人もいた。

 施設には、医師や看護師はいない。

 施設は国が建てたものではあったけれど、そこにいるのは建物を管理するための人々だけで、閉じ込められている者たちの世話をする人々はいないのだ。

 もちろん、当人やその家族が個人的に医師や看護師、世話人を雇うことは自由だった。金を払いさえすれば、そうした人々のための部屋も、用意してもらえた。

 ただ、多くの者は誰にも世話されることなく、身動きできなくなった時点で病と飢えで死んで行った。

 私は孤児で、十歳の時、この施設でくらす老婦人の世話をするために引き取られた。

 老婦人は娘と孫を事故で亡くして気がふれたという話で、私を引き取ったのは彼女の夫である老紳士だった。

 老婦人は、この施設にいる者の中ではめずらしく、家族に見捨てられていなくて金持ちだった。

 いや、金を持っているのは老紳士の方だったけれど、ともかく彼は、彼女を見捨ててはいなかったのだ。

 私は、これまた老紳士がどこからかつれて来た若い女と親子のふりをさせられ、老婦人と一緒に食事をしたり、施設の中庭を散歩したりと、孫としての生活を送ることを命じられた。

 私と母親役の女には、老婦人の部屋の隣の一室があてがわれた。

 そこは、広々とした居間に寝室が三つと小さなキッチンまでついた豪華な部屋で、私が寝室として与えられた部屋には、ふかふかのベッドや上等なタンス、小さなテーブルと椅子がそろっていた。

 食事は毎日通って来るメイドが作ってくれる。

 それだけじゃない。メイドは私を『おじょうさま』と呼んで、私の身の回りの世話をしてくれた。

 孤児院では、掃除も洗濯も料理も全部自分でしなさいと言われ、終わるのが遅いとのろまだと言ってぶたれていた私が、『おじょうさま』!

 最初のころ、私はこれは、夢じゃないかと思ったものだ。

 そんな私の日課は、老婦人の顔を見に行くことだ。

「おばあさま、今日はとてもいいお天気ですわ。お散歩に行きましょうね」

「おばあさま、このお菓子、とても美味しくてよ」

「おばあさま、ごきげんはいかが?」

 私は、それまで着たこともないようなきれいな服を着て、毎日そんなふうに老婦人に話しかけた。

 老婦人はたいていは穏やかに微笑んで、私を知らない子供の名前で呼ぶ。

 ただ時おり、彼女は狂ったように泣き叫び、「おまえは、あの子じゃない! あの子をどこにやった!」と怒鳴っては、私や母親役の女を叩いたり、ものを投げたりする。

 もっとも、それが長く続くことはなかったけれど。

 施設には、老紳士が雇った医師と看護人が常駐していて、老婦人が騒ぎだすと駆けつけて止めてくれるのだ。

 私たちにとってそれは、たいそうありがたいことだった。


 老婦人の孫としてのくらしは、三年ほど続いた。

 だがそれは、突然終わりを告げた。

 四年目を迎えようとしたある冬の日、老婦人は亡くなったのだ。

 医師は、老衰によるものだと告げた。

 実際に彼女は、眠るようにして亡くなっていた。

 本来はこれで、私の役目は終わるはずだった。

 けれど老紳士は、私と母親役の女に、自分と共にくらさないかと言った。

「私はこれで天涯孤独の身だ。だが幸い、くらして行くのに不自由のない財産はある。ただ、一人でくらすのは寂しすぎる。どうだろう? 君たちに問題なければ、共にくらしてはくれないだろうか」

 彼は、そう言ったのだ。

 孤児院に戻る以外に行き場のない私に、否やはなかった。

 母親役の女も彼の申し出を了承し、私たちは共に彼のもとでくらすことになった。

 彼の『娘』と『孫』として。


 それから十年が過ぎて、私は二十三歳になった。

 老紳士は私に上流階級の娘と同じ教育と生活を与えてくれた。

 なので、今の私は本当に『おじょうさま』だ。

 上流階級の青年と婚約し、今は老紳士が設立したとある財団で働いている。

 いずれは婚約者である青年と結婚し、財団のトップとなった彼の傍で理事を務めることも決まっている。

 その私がなぜ今ここにいるかといえば――施設が今年の暮れには壊されることになったからだ。

 老紳士は、妻が亡くなったあとも、この施設に寄付を寄せていたらしい。

 国が運営してはいたものの、もともとあまり乗り気ではなく、施設には予算も潤沢に割り当てられてはいなかったようだ。

 それもあって、五年前に老紳士が亡くなってその寄付が途絶えると、施設は閉鎖された。

 そうして五年間放置したあと、国はようやく重い腰を上げ、建物は壊されることになった。

 そんなわけで私は、思い出深いこの場所に、最後の別れを告げに来たのだった。


 エントランスホールから続く階段を昇り、私はかつて老婦人がいた部屋へと向かう。

 三階の一番奥の、一番広い部屋だ。

 錆びついてきしむドアを開けると、中は驚くほどに昔のままだった。

 窓際に置かれたベッドと枕元の小卓、外からの光が射し込む大きな窓、一番日当たりのいい場所に置かれた丸テーブルと椅子、隅に据えられた背の高い書棚。

 ただ、どれもこれも薄く埃が積もり、黄ばんでいるけれど。

 窓にかかったレースのカーテンは朽ちてボロボロで、ベッドの上のシーツも端がすっかりほつれてしまっている。

 書棚に詰まっていた書籍類は、老婦人が死んだ時に老紳士が欲しい者たちに分け、残りは持ち帰ったため、ここにはない。

 私は室内に入ると、ゆっくりと歩を進めた。

 以前のままということは、あのあと、誰もこの部屋に入る者はいなかったのだろうか。

 少し不思議に思いながら、私は十年前の日々を思い出しつつ、室内を歩き回る。

 私は、ベッドの傍でつと足を止めた。

 小卓の引き出しが、薄く開いているのに気づいたせいだ。

 そしてそこから、ノートのようなものが見えている。

 私は引き出しを開け、それを取り出した。

 それは最初に思ったとおり、ノートだった。

 表紙はすっかり黄ばんでいて、開くとかさかさと音がする。

「これは……!」

 私は思わず小さな声を上げた。

 それは、日記らしかった。

 日付は、老婦人が生きていたころのもので、最初の数行を読む限り、これは彼女が残したもののようだった。

 私は少しためらったあと、好奇心に抗えず、ノートを読み始めた。

『今日あいつは、知らない女と子供を連れてやって来て、私の娘と孫だと言った。娘? 孫? 私から何もかも奪っておいて、よくもそんなことが言えたものだ。女と子供は、無害な顔で私に話しかけて来る。けれど、気をつけなければ。あいつが連れて来た以上、この二人が無害なはずがないのだから』

『苦しい。苦しい。こんなふうに監視されてまで生きて行くのはごめんだ。辛くてたまらなくなって、今日は興奮して、よけいなことを叫んでしまった。私が正気だと知れたら、何をされるかわかったもんじゃない。よけいなことを、言わないようにしなければ』

『あいつはなぜ、こんなことをするのだろう。……もしかして、あの子と孫は、本当に生きているのだろうか。生きていて、あいつらが隠していて、私にそう教えて協力させるために、偽物の娘と孫を毎日連れて来るんだろうか。でももし、本当に生きているなら、会いたい』

 ノートにはそんな、激しい慟哭のような言葉が綴られている。

 いったいこれは、なんなのだろう。

 私は途中まで読んで、何をどう考えていいのかわからなくなって、ノートを閉じた。

 文面だけ見ればまるで、老婦人は監禁でもされていたかのようにも読める。

 それとも、老婦人の心の中では、ここの生活はそれだけ苦しい嫌なものだったということだろうか。

 私がかつて接していた老婦人は、普段は穏やかで優しくて、でも少しだけ言動にピントのずれたところのある人だった。突然怒鳴り出したり、泣き出したりすることもあったけど、それは全て、心を病んでいるせいなのだと、そう私は思っていた。

 けれど、ノートにある文面には、はっきりとした正気が伺えるようにも思う。


 ノートを手にしたまま、私が立ち尽くしていると、廊下に足音が響いて入口に人影が立った。

「おかあさま。どうしてここへ?」

 入って来たのは、母親役の女だった。十三年間、親子として接して、私にとっては本当の母に等しくなった女だ。

「あなたと同じよ。ここが壊されると聞いて、懐かしくなって見に来たのよ」

 言って彼女は、私が手にしているノートを見やった。

「それは何?」

「おばあさまの日記のようですわ。そこの小卓の引き出しに残っていましたの」

 問われて答えると、私はそれを彼女に差し出す。

 当時を共に過ごし、老婦人の相手をした彼女が、これを読んでどう思うのか、意見を聞きたかったのだ。

 彼女はそれを受け取ると、開いて中をざっと読み下す。

「おかあさまは、本当はおとうさまのことも、覚えていなかったのかもしれないわね」

 彼女は小さく肩をすくめて言うと、ノートを閉じた。

「医師は、彼女が認知症にもかかっていると言っていたわ。認知症は、身近な人の顔や名前もわからなくなることがあるそうよ。彼女の場合は、娘と孫の死で心が壊れてしまった上に、私たちが来て、よけいに混乱して、こんなふうな妄想を頭の中で作り上げてしまったのかもしれないわ」

「妄想……」

「そうよ。だって、おとうさまは、おかあさまをとても大切にしていらしたし、少しでも心を慰めたいと、私たちをここに呼んだんじゃない。おかあさまを監視していたわけじゃないし、何かをさせるために、私たちを連れて来たわけじゃないわ」

 うなずいて言う彼女に、私は安堵する。

 実際、彼女の言うとおりだ。

 老紳士は、老婦人をとても大切にしていた。

「そうですわね。おかあさまのおっしゃるとおりですわ」

 私がうなずくと、母親役の女は、ノートを小卓の引き出しへと戻した。

「置いて行くのですか?」

「ええ。……彼女の想いは、ここで建物と共に消えて行くのが、一番いいわ」

 私が尋ねると、彼女は言って、引き出しを閉める。

 そして、踵を返した。

「そろそろ、出ましょう」

「あ……ええ」

 促されて、私はうなずく。

 彼女は来たばかりじゃないかと思ったものの、本当は一人でゆっくり中を見たかったのかもしれないと思い直して、歩き出した。

 部屋を出て行きながら、ふとノートにあった『監視されている』という言葉が脳裏をよぎる。

 老紳士が私たちを家族として遇したのは、本当に一人が寂しかったから?

 母親役の女が今日ここに来たのは、本当にここを見たかったから?

 胸に浮かんだ疑問に、私は小さくかぶりをふった。

 なぜ疑うの。

(おじいさまも、おかあさまも、嘘なんて言うはずがないじゃない。自分の心に従っただけよ)

 私は自分にそう言い聞かせ、女と共に部屋を出る。

 私たちの後ろで、錆びたドアが重くきしんで、閉じて行った――。

コメント(0)
この作品に、最初のコメントを書いてみませんか?